見たくない

 いつだって覚悟はしていたつもりだ。でもそんなこと、本当にただの”つもり”で。一つ一つ、それが近付いて来ているのだと突き付けられる度に、胸が痛んだ。こんなこと、本人には口が裂けても言えない、けど。
 朝、登校時間が被るなんて家が近い者同士ならよくあることで、私はいつものように家を出て、いつものように近所の久瀬修一と遭遇する、筈だった。けれど、いつもと違うことが、二つある。一つは、久瀬が私の家の前で待っていたことだ。太陽の日差しがやたらと眩しく、家を出ただけでじっとりとする暑さに纏わりつかれる中、彼は涼しげな顔で笑っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
「何だよ、そのテンションの低さは。爽やかな朝を迎えた奴の顔とは思えないな」
「何で、ここに立ってるの」
の家の前だから」
「それって答えになってる?」
「良いものをあげようと思ってね。ほら、これ」
「何? 渡したい物なんて学校で良いのに」
「まあそう言わずに。こうやってお前と登校出来る日も、後少しなわけだし」
 え、と訊き返しそうになって、止める。分かり切っていることだったから。考えたく、無かったから。
 いつもと違うこと、のもう一つは、久瀬が妙な紙切れを寄越したことだった。手書きの綺麗なのか雑なのか判別のつきにくい字(間違いなく久瀬本人の字だ)で、可愛らしい似顔絵まで描かれた紙面にぎょっとさせられるが、それよりもその内容が私にとって問題で、それを凝視していると私の足は自然に止まる。
その紙切れの文章を、何度も何度も目で追った。たった数行しか書かれていないのに、間違えを探すかのように、それが間違えであって欲しいように、何度も、何度も。そっと、人差し指で紙の表面を撫でる。ただ漠然と、現実を呑み込む時が来てしまったのだと思った。
、どうした。そんなに感動したか?」
「似顔絵付きの紙切れに呆れて物が言えないだけ。しかもお別れ会が自主企画って」
「紙切れって。招待状と言ってくれよ」
 何てことはない一枚の紙切れとそこに書かれた文章は、人一人のテンションをガタ落ちさせるには十分な内容だ。私限定で。目の当たりに、させられる。
 普段通り軽口を叩き合いながら到着した学校の靴箱で、先ほどの私と同じように久瀬から紙切れを渡されたクラスメイト――火村夕は、目をまるくしながらそれを声に出して読んでしまった。銀髪の優等生、火村は、隙が無ければ容赦も無い。いや、彼はただ読んだだけだけど。それでも、私にとってはダメージ大だ。
「天才ヴァイオリニスト、久瀬修一くんお別れ会の巻?」
 何度も読み返した筈の内容を、低い声が読み上げる。つっこみ所が多々ある、本来なら笑い飛ばしてしまうものなのだけれど。今の私には、ただ見たくないものだった。
 お別れが、近い。久瀬がドイツへ行ってしまう。会えなくなってしまう。その日が近付いて来ているのだと、この紙切れは示唆している。止まらない、この日々が、終わりを迎えるのだと知ってしまった。馬鹿みたいにシンプル且つセンスの無いサブタイトルが久瀬との別れを告げていて、私を寂しくさせるのだと思ったら、情けなくて笑えた。
「はい、凪にも一枚あげよう」
「ん?」
 靴箱の向こう側に立っていた広野凪にも、久瀬は紙切れを差し出した。何だか、今日の彼女はいつにも増して仏頂面だ。折角美少女なのだから、凪はもっと普段から笑えば良いのに。心無しか、沈んでいるようにも見えた。彼女も久瀬とのお別れを惜しんでいるのだろうか。否、無いな。
「君らには、ぜひ来てもらいたいんだ」
「お別れ会なんて柄じゃないだろ。ま、時間があったら顔出すよ」
「相変わらず、連れないなぁ」
 久瀬と火村の会話をぼんやりと聞き流しながら、ここには居たく無いと思った。久瀬を見ているのが、あくまでいつも通りの火村を見ているのが、どうにもつらい。だって、数ヵ月後には、もう――考えたくないな。
 先に行くね、と言い置いて、足早に校舎に入る。大丈夫なのか、と心配そうな凪の声が聴こえたが、立ち止まることも振り返ることも出来なかった。
早に校舎に入る。大丈夫なのか、と心配そうな凪の声が聴こえたが、立ち止まることも振り返ることも出来なかった。


(20090126)
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