Introduction07
豪奢な室内の調度品たちに見劣りしないデザインのソファは存外柔らかく、が腰を落とせばそこは深く沈んだ。おお、とつい感嘆の声を上げたのも束の間、この家の持ち主が低温度の視線を向けてきていることを察した彼女は、すぐに何事もなかったかのようなすまし顔を作る。家の持ち主ことラインハルト・ハイドリヒは改めてここが彼自身のセーフハウスであり、しばらくここでを匿うことと何かあれば管理人兼使用人である女に言い付けるように指示だけを残すと、さっさとをここを去って行った。年配の優しげな使用人が出した紅茶に手を付けることなく、ソファの座り心地を堪能することもなく。もったいないなあと零せば、忙しい人なんですよ、と穏やかに女性は言う。そうだろうな、とは思う。窓越しに、ベンツに乗り込む彼を見ながら。
そういう地位にいる人なのだ。人に頭を下げられるのは当たり前、命令一つで大勢の人間が動くのも当然。の見る限り、ラインハルトはそれをごく自然に受け入れているようだった。態度は高圧的だけれど、その立場に驕っている風ではない。謙遜はもちろんなく、きっとあれは不遜とも違う。その立ち位置で求められた振る舞いをしているだけだ。
「すごいひと、なんですね。ラインハルトさんって」
「ええ、それはもう」
そこそこ今更且つ失礼なことを言った自覚がにはあったが、アメリーと名乗る使用人は笑顔で同意するだけで気分を害した様子はなかった。温かい紅茶をさり気なく継ぎ足して、無駄のない動作でキッチンへと引っ込んでいく。プロの使用人だった。
歴史的に見ても、ラインハルト・ハイドリヒはの元いた現代まで名を残すような男だ。すごいのは当たり前と言えばそうなのだが、実際に肌で感じたこれはそういう規模の大きい意味合いではない。ただ人の上に立つという意味で、こんなにも相応しい人間に出会ったのは初めてかもしれなかった。優しい人ではないかもしれない。良い人でもないかもしれない。人を束ねるとは、そういうことではないのだ。圧倒的な強さと、人を惹き付ける容姿と所作、空気感。すべて相俟って、あれを俗な言葉で表すなら、カリスマと呼ぶのだろう。彼の立ち振舞いは、こうしてつい感心してしまうほどに、その手の単語が似合う。
と、状況が落ち着いた今になってやっとそう捉えれるようになった。主にこれまでのラインハルトの言動と彼を取り巻く周囲の人間の反応、直接目にしたものを整理して考えた結果だ。間違っても、けちだとか、愛車がレトロだとか気軽に言っていい相手ではなかったのは何となく察した。後者はともかく、前者は今となっても反省する気は毛頭はないが。なんせ、人の命がかかっていたかもしれない状況だったので、そこは大目に見てもらうとして。
カリスマはわかる。物理的にも権力的にも他者を圧倒する強さを持ち合わせているのも、わかる。けれども、それはが彼に従う絶対の理由にはならなかった。ラインハルト・ハイドリヒは、にとって"恐れる相手ではない"のだ。言うなれば恩人。得体の知れない子供にこうして衣食住を用意してくれているのは事実で、そこにどんな思惑があろうと関係ない。恩があるから、言うことを聞く。の思考はシンプルだった。
そもそも、行くあてもない上に、ここで"彼ら"に逆らう理由もない。この歴史の大局に、無くてならない人々。間近で眺めていられるのなら願ったり叶ったりだ。ただ一つ、気にかかることと言えば。
「いつ帰れるのかなあ……」
家に帰りたい。ティーカップを両手で持ったままが唸り始めた時、こんこん、と戸を叩くような音が耳に入った。あら、お客様ですね、と使用人がのんびりと言う。来客の訪れを告げるのはチャイムではなくドアノッカーを使う時代らしいとが知ったのは、少し後のことだ。
*
対面のソファに緩やかに腰掛ける相手の様子を窺うようにちらりと見ては、ティーカップの中の紅い水面に映る自分とのにらめっこに戻る。突然やってきた"お客様"相手に、はそんなことをもう五分は続けていた。正直、どう接するべきか決めかねているのだ。初対面の時は目の前の奇跡に目が眩んでついつい手など握ってしまったが、今思えばとんでもないことをしたような気がする。ラインハルトをけちと呼ぶよりも、ずっと。
薄気味悪いとも言えそうな微笑を浮かべた男は、そんな名前をどこか楽しげに見つめる。人の多い場所ではその存在は空気に滲むような曖昧さを感じたが、こうして"サシ"となると存在感抜群であった。少なくとも、にとっては。
「君の頭を悩ませるそれは、今更ではないかね」
しばらくのおっかなびっくりな挙動を楽しんでいた男──カール・クラフトは、やがてゆっくりと、老人のようにどこか湿り気を感じさせるような声音でそう告げた。
「最初に私に気付いた時の君は目を輝かせ、焦がれた奇跡との邂逅を果たしたような顔をしていた。本の中でしか知らなかった壮大な空を初めて目にした子供のようでもあった。自賛が過ぎるかもしれぬが、君は確かに私をそのように見ていたのだよ。私の両手を取り、私を美しいと称した君は、そうして顔を伏せるような少女ではなかったと記憶しているが」
「……その節は、大変な失礼を」
「さて、私は不快であったと言ったかな。あの時、君の手を振り払っただろうか。よくよく思い出して欲しい。思い込みでそう萎縮されては、少々寂しさすら感じるのでね」
言われるままに記憶を辿ってみるも、強い拒絶も不快を示されたような瞬間も出てこない。つまり礼を欠いた行為に対して怒ってはいないよということで、そこには確かに安堵もあるが、が緊張する理由はそれだけではなく。彼女の心中を知ってか知らずか、カールは機嫌良さそうに言葉を継いだ。
「ああした目を向けられたのは、さてどれくらいぶりであったか。すぐには思い出せそうにないが、それくらい遠い昔のことだ。愛でも恋情でもなく、信仰や崇拝とも違うな。それでも、君は私を尊きものと認識している。何の邪心も混じらない、純度の高いただの敬意は、存外嫌な気分ではなかったよ」
話が逸れたな、と零すカールは何かを懐かしんでいるかのようでもあった。彼が長い長い時を生きてきたことを、は知っている。けれども、過ぎ去っていく時間の中で何を思っていたのかは、知らない。
「君はここで誰かに遠慮して見せる必要はない。君が君である限り、この世界はそれを許し、君を生かすだろう」
「あなたが、許すから、ですか」
「そういう一面もあるにはあるが、そもそも君自体がこの世界に干渉され難くなっているのだよ、 壊死因子 」
「ねくろーしす」
聞き慣れない単語を口にしたカールの瞳は確かに真っ直ぐを捉えており、つまりその単語が自分を指していると察することは出来た。しかし、その意味までは汲み取れない。浮かべた笑みを妖しげに深めて、カールが問う。
「 自滅因子を、知っているだろう」
「はい。細胞の自殺。あなたで言うところのラインハルトさん、ですよね」
「然り。博識な客人で助かるよ。細胞の自殺が彼であるなら、君は細胞の事故死だ、 壊死因子 。私が名付けた。そう呼ぶに、相応しい性質を持っているようだったのでね」
「事故死の性質……嬉しくないなあ」
「何を落ち込むことがある。別世界から来た君にとっては、喜ぶべき話であろうよ。私の作ったありとあらゆる法も概念も、恐らくそのほとんどが君に適用されず、君を害することができぬという話なのだから」
「はあ……」
「正確には、君と対した時のみ私の細胞が正常に機能しない。機能しないということは、死んでいるも同然だろう。"偶然出現した"君という存在の前でだけ、だ」
そんなこと言われても。と思っていたのを読まれてしまったのかどうかは不明だが、苦笑された気配があった。正直焦りや混乱で喉が渇いて仕方がないのだけれども、まるで一挙手一投足を観察されているような緊張感の中では、ティーカップに手を伸ばすのも気力が要る。
「すごそうなのはなんとなく伝わりました」
なんとか絞り出した、理解が追いついていない現状が丸出しの返答に、は頭を抱えた。なんかこう、もうちょっと、あるだろう、わたし。
「──君は、この世界に来て誰かに対して恐怖を抱いたことはあるかね?」
「……ない」
不意に問われたそれに、はっとする。俯けていた顔をそろそろと上げ、この世界の神を、見据えた。
「私……」
ここに来てから、誰かを怖いと思ったことはない。そう、ないのだ、一度も。明確な殺意と共に首に手をかけられても、常人とは異なる威圧感を持った男と対面しても。彼ら個人に恐怖を感じたことはなかった。殺されることが怖いのではない。殺される気がしないというのが、正しい。
「つまりそういうことなのだよ。この世界で生きる者たちは、誰も君を害さない。害そうという意思を持てない。まるでそれが自然の摂理が如く。それは君がこの法の外から来た存在で、そちらもまた彼らを害す意思が無いからだ。互いに手を出さない、不利益にならないという暗黙の了解が、細胞レベルで成されているようなものだと考えてもらっていい」
例外なく、とカールは付け足し、初めて出された紅茶に手を付けた。ゆるりとした動きでティーカップに口をつける仕草を眺めていたら、ただでさえこんがらがっている頭の中が余計に複雑になりそうだ。神座システムが生きている世界で、自分には特別ルールが適用されていて、その第四天である神様は、目の前でお茶をしている──混乱する。
「まあ要するに、ここで私は死なないってことですね?」
「少し違うな。不死であることと同義ではないということを、努々忘れぬ方がいい。意思がないものは制御出来ない。ゆえに、例えば戦場に君が飛び出したとして。人の手を離れた銃弾は、逸れてはくれぬだろうな」
「要するに余裕こいてると死ぬぞってことですね」
細胞どころか自分が事故死することも有り得るということだ。戦時中ということを鑑みれば、戦いに巻き込まれて案外あっさり──というパターンも、無いとは言い切れないだろう。第四天の中でも、よりによって危険な時代に来てしまったのかもしれない。なんてことだ……。