Introduction06

 第四天の存在する世界。神座システムの一部。最早この場所は世界ごとの元いたところからごっそり入れ替わっているのかもしれず、あるいは彼女自身が移動したのかもしれない。
 の直感と記憶通りであればカール・クラフトが第四天の触覚であることはまず間違いなく、ラインハルト・ハイドリヒは──彼の自滅因子だったはずだ。アポトーシスと呼ばれるそれは、神座システムにおいては本来の現象とは別の使われ方をされる。宿主、ここで言うカール・クラフトと対極に位置する者であり、滅びを求める自壊衝動が形になったもの。在り方は真逆でありながら、宿主とは強く互いに惹かれ合ってしまう性質を持つ。それが自滅因子。が元いた世界のラインハルト・ハイドリヒであったならただの人だけれど、第四天であれば話は別だ。とてもじゃないが惹かれ合っているようには見えなかったが、まず間違いないだろう。あの人もまた座の交代劇で活躍した一人。なるほど"あれが自滅因子"か。 そこに思考が辿り着いたのは、クリスマスの夜、冷たく暗い牢の中でだ。

 ゲシュタポという名の警察に連行された彼女は、およそ人が健全な生活をするとは思えない場所──牢屋に一時放り込まれたが、夜明けにはそこを後にしていた。体感で十時間後のことだ。牢に入れたのがラインハルト・ハイドリヒであったなら、連れ出すのもまた彼である。この機関で相当高い地位に就き、責任者のような立場であるらしい彼は、廊下ですれ違う者ら全員から頭を下げられていた。彼ら漏れなく頭を上げた後に、ラインハルトの後ろを歩くへ不可解そうな視線を寄越してきている。そりゃそうだろう、と彼女は大して意に介さなかったが。
 その後、ミニカーか博物館でしかお目にかかれないようなエレガント且つノスタルジック溢れるデザインのクラシックカーに乗せられた時は、立場も運転手や同乗者の目も忘れて一瞬はしゃいだ。おまけにオープンカーだ。開放感しかない。「レトロ感がたまらない車ですね!」と感動のままを伝えたら「メルセデスの中でも最高クラスと呼ばれるこれを指して古臭いと言うか。貴様の祖国の車は空でも飛ぶのだろうな」と嫌味で返ってきて、すぐに頭が冷えた。どうやら最新モデルであったようだ。以降、車内が沈黙に包まれたのは言うまでもなく。次にラインハルトが口を開いたのは、目的地に到着してからだった。華やかで賑やかな繁華街を横切りながら車に揺られて約一時間、車を降りてから徒歩で約十分のそこはベルリンの街中とは違った趣の土地だ。郊外の保養地さながらの湖と自然に囲まれた美しい景観のそこは、立ち並ぶ家々の質を見るにどうやら高級住宅街らしい。そしてその中の一軒が、ラインハルト・ハイドリヒのセーフハウス──所謂秘密基地であった。
「現状その身は存在するだけで様々な面倒を呼びかねん上に、不確定要素が多過ぎるのでな。最早解放出来る理由を探す方が難しかろう。かと言って、ゲシュタポに置いておけば更に面倒な輩に目を付けられる可能性が高い。よって、当分ここで貴様の身を匿う」
 玄関前で二人揃って足を止めたところで、無愛想にそう告げる男とこれからしばらく我が家となるらしい建物を交互に見やり、はえぇ…と引き気味の声を零した。理由は確かにと頷けるものだけれど、その厄介者を匿う家がこれか。その反応から何を勘違いしたのか、やや煩わしそうに言葉を継ぐ。
「狭苦しい場所ではあるが、生活するだけなら困らん。貴様はそもそもがこの国に滞在を許された身分ではないゆえ、牢に入れられぬだけ幸運であったと諦めろ」
「そんなこと心配してませんって言うか狭苦しいどころか広すぎるくらいなんですけど」
 なんと言っても一軒家だ。立派な門を潜った先に建てられたそれは大豪邸とはいかずとも屋敷と呼んでも差し支え無さそうで、申し分ない広さがあった。初見の感想はやはりレトロの一言に尽きるのだが、情緒があって感じ入るものがある。身分のあやふやな人間を置く場所がこんなに立派な建物でいいのかと不安になるのも道理だろう。
「確かに、犬小屋には丁度よいかもしれんが」
「いや別に嫌味を求めたわけでは……もしかしてまだ怒ってます?」
 愛車への失礼な評価にとてつもなく気を悪くしていたのかと恐る恐る様子をうかがってみる。昨日はヴィルヘルムのこともあり相手の立場もお構いなしにだいぶ礼のない態度を取ったが、べつに喧嘩がしたいわけでもなければ死に急いでいるわけでもない。あれは緊急事態だったというだけのことで、これから仲良く出来るものなら仲良くしておきたい。「その矮小な頭によく刻んでおけよ。私の一声で、貴様の身柄はいつでも牢へ逆戻りだと」なんて直球で脅しにかかられては、機嫌を損ねないようにしようと決意するのも当然の流れだ。向き合うのも恐ろしいだとか、死ぬかもしれないというような危機感は持てないが、牢屋へ送り込むことに躊躇はしない。嘘と出来ないことは言わない性質で、やると言ったことはやる。そういう男だと感じたので。自然、彼の機嫌を読もうと自らの異能を発動させていた。
「うん? 怒ってないんですか……?」
「そもそも、その前提から違えている。私は、そう狭量な男ではないつもりだよ」
「はあ」
「あの狂った魔術師が言うに、貴様は"随分先の未来"から来たのだろう。無論、幻想めいたくだらぬ妄言を一言一句全て真に受けるつもりはない。しかし、そういうものだと仮定すれば、その無知にも、"違和感"にも筋が通るのでな。物を知らぬ幼子の戯言に、真剣に憤る大人もいまいよ」
「……なるほど」
 つまり、一旦受け入れてやろうということか。嫌味も含めて遥か高みからの物言いではあるけれど、実際高みにいる人なのだから仕方ない。そう納得し、は素直に礼を口にする。自分は今、ラインハルトの言うようにきっととても運が良いのだと自覚して。
「ありがとうございます、ラインハルトさん。色々と譲歩してくださって。助かりました」
 と、どうしたことかラインハルトの眉間に皺が増えた。不愉快なものを見てしまった時のような、なんとも言えぬ感情が碧眼に宿る。怒りではない。しかし穏やかなものでもない。そもそもこの男の思考は酷く読みづらいのだ。まさか何も考えていないわけではあるまい。訓練でも受けているのかと問いたくなるくらい、彼の心は静かで波が立たなかった。どんな言葉を投げかけてもラインハルトの中身を揺さぶることは出来ず、昨日彼を一番動かしたのは強い暴力への"歓喜"のみだ。後はこちらに対して何かと懐疑的なことと、しきりに"壊せない"と評されていることくらいしかわからない。総じて断片的なのだ。歴史は見えたものの心の内深くまでは読み取らせてくれなかった第四天と通ずるものがある辺りは、さすが自滅因子といったところか。
「どうやらその狭い視野は、目の前に置かれたものしか捉えられぬらしい。餌を与えてくれる飼い主が己を害すはずがないと、どうしようもなく愚かに信じて疑わない飼い犬と何ら変わらぬ。そういうものを、思考の停止と呼ぶのだ。少し状況を俯瞰すれば、見え方も変わろう。そうなれば、貴様は今呑気に礼を述べたことを悔やまずにはいられまい」
「……ええと、言いたいことはわかりますよ。なんとなく。今の状況が私にとって上手くないって話ですよね」
 自分のこれからはこの男の手に委ねられている。その上で好意的に思われていないことも、知っている。戦争真っ只中の軍人が同盟国とは言え異国の不法入国者を匿う理由なんてそう多くはないだろう。結局利用価値の有無で自分の未来は決まるとは楽観するでもなく結論していた。何もかもお見通しと言わんばかりのカール・クラフトのことだ。の元いた世界から異能のことまで全部把握し、この男に報告がいっていたとしても不思議ではない。それがあったからこそ、利用価値を見出されたのかもしれず。──それで、だから何だという話だ。
「でもなんと言われようと感謝はしますよ。私は牢屋から連れ出してゆっくり眠れる場所をもらえただけで、事実十分助かったんですから。そのことに対してのお礼くらい、前向き且つ素直に受け取って下さい」
 与えてもらった事実は動かない。だから礼は礼。これは一種の意地だし、彼の言う通り、この人が自分を害すことはないと彼女が認識しているのもまた事実だ。
「ラインハルトさんの思惑がどうだか知りませんけど、それはそれこれはこれ、というやつです。この後牢屋に戻されたからと言って恨んだりしません。あなたの言葉を借りるなら、そこまで狭量なつもりもありませんし」
 大人しく利用されることで恩を返せるならそれもまた良し。言いたいことを気分良く言い切ってから、はっとする。
「お、怒りました? 不敬罪? 禁固刑ですか?」
 偉そうな口振りになってしまったことを反省しつつ、気持ち小声でそう訊ねた。あちらの世界ではテレパスのせいで言いたいことは全部筒抜け、が基本認識だったので、無理に言葉にする必要はなかったし、言いたいことは誤解を恐れず口に出来た。ここは別世界だ。誤解は恐れなければならない。
 ラインハルトの思考はやはり透明度が低く、けれども案外苛立っているようでもなかった。それしか読めないのなら、後は彼の些細な変化も見逃さないように目を皿のようにするしかなく。そして次の彼の変化は、小さな溜息だった。
「くだらん。耳触りの良い言葉を吐くのは趣味と見える」
「えぇ……いや趣味とかではないんですけど」
「本気であったなら、益々性質が悪い。現状の楽観視。己に都合の良い解釈は前向きと言えば聞こえはよいが、つまるところ状況を軽く見ているだけに過ぎん。煎じ詰めれば私が甘く見られているということなのだろうな」
「ご、誤解です!」
「喧しい。騒ぐな」
 うんざりしたような声音は、刺々しくはあったが攻撃的ではなく、剣呑さもなかった。伏せられた瞳は、言葉以上を語らない。
「じきに貴様の"身元引受人"がここを訪ねて来る。それまでの間、私の前ではそのよく回る口を噤め。牢に戻されたいのでなければな」
「それって……」
「貴様は──つくづく癪に障る娘だ」
 その一言を最後に、会話のキャッチボールを放棄した後ろ姿が木製の豪奢な扉の向こうに消えていくのを見ながら、は悟った。見事彼の機嫌を損ねたのだと。アポトーシスって難しい。


(20170604)
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