何食わぬ非日常
遊佐司狼の意識を眠りの底から引き上げたのは、腕にちくりと針に刺されたような、本当に些細な違和感だった。瞼を開かなくとも、室内がいつもと──もっと言えば深夜に眠りにつく前と異なっているのがわかる。何者かの視線に晒されているのが感知できる。人の気配には敏感な方だ。希薄だけれども確かに自室に自分以外の誰かがいて、そしてそれは自分がよく知る幼馴染たちではないこともはっきりしていた。部屋の壁にぽっかりと空いた(空けた)穴を利用して幼馴染たちが無断でこちらの部屋へ顔を出すことは少なくない回数あるが、その時の行動パターンは各々パターンが決まっているものだ。室内で物音を立てず、静々とこちらを観察するような行動を取る幼馴染は、いなかったはず。
瞼越しに感じられる光は、今が朝だと告げていた。朝から物盗りもないだろう。しかし幼馴染でもない。であれば残された可能性は少なく、ある種の確信を持って司狼は瞼を持ち上げ──
「……やっぱあんたかよ」
「おはよう、遊佐」
正解を得た。にこりともせずに開口一番朝の挨拶をしてきた男は、マグカップ片手にベッドサイドに立ち、司狼を覗き込むように見下ろしていた。ベランダから注ぐ太陽の光を惜しみなく受けてより華やかに見える金髪と、それに見劣りしない造形美を追及したような容姿は、朝一番に見るとこんなにも目が覚めるものなのかと変な感心をしつつ。何からつっこむべきなのか悩む彼をよそにその男、・が"通用口"のある方向へ頭を傾けた。
「綾瀬。遊佐が起きた」
「あ、結構早かったですね」
聞き慣れた少女の声で、当たり前のように返答があった。おまえの仕業か。
「司狼ー! あんたさっさと着替えてこっち来なさいよ! 朝食冷めちゃうんだからね」
「いい加減、俺の部屋を食堂みたいに扱うのはやめてくれ」
「蓮の部屋があたしたちの部屋の真ん中にあるからでしょ」
「俺が悪いみたいに言うなよ」
騒がしい声と共に焼き魚の良い匂いが漂うこの壁の向こう側は食堂こと藤井蓮の部屋だ。家主のささやかな抗議が一ヶ月以上無視され続けているのはこの際置いておくとして。
今はこの遊佐邸の主として、彼もまた抗議に立ち上がられなければならない立場だった。ゆるりと上半身を起こし、ベッドの上で胡座をかくように座り直した司狼は、寝癖で跳ねる髪に手を差し込みながら、大きく息を吐き出す。さあ今から文句を言うぞというポーズで。すると、不意にの指がすいと司狼の胸元を指す。
「皺だらけだ」
「……なにが」
「ワイシャツ」
「うるせーよ、ほっとけ」
寝間着代わりに何を着ようが人の勝手だ。
「それで、なんであんたが朝っぱら不法侵入してオレの寝顔眺めてんの? 美少年の寝顔盗み見んのが趣味の教師ってやばいだろ。これ事案ってやつ? 訴えていい?」
「きみらやっぱり幼馴染だな」
「何の話だよ」
「こっちの話。それより遊佐、今日は何の日だ」
ボケとツッコミの様式美を知らない異国人はやはり朝の爽やかさなど微塵も感じられない無表情で、そんなことを訊ねてきた。はあ、と司狼は気の抜けた声を零す。
「なにそれ。オレが記念日とかそういうもんに、興味あるように見えるわけ?」
「体育祭」
最早会話するつもりがあるのかすら怪しいものだ。このマイペースさには未だについていけない時がある。ローテーブルの上に置いてあった司狼の煙草の横に、が中身を飲み干した青いマグカップを並べた。
「今日は体育祭だ。知ってたろ」
司狼を見据える碧い瞳が細まり、薄い唇の端がやや持ち上がる。全部お見通しだぞ、とでも言いたげに。隣の部屋の話し声を耳が拾うくらいに、一瞬だけ部屋が静まり返った。
「知ってたら、なんだよ」
「うん。遊佐が知りたいのは、おれがここにいる理由だったな。おれはきみのクラスの副担任だ。これ以上理由の説明が必要か」
「……いや」
「きみならそう言うと思った。今日は特別に教室までエスコートだ。喜べ」
そう話すの方が既にどこか迷惑そうな声音だった。学園入学一ヶ月半にしてエスケープ常習犯となりつつある遊佐司狼に、体育祭をエスケープさせないためにはここにいるのだろう。ついでにこれが本人の意思ではなく、二人が同じアパートの住人だと知っている担任の差し金であろうことまで、司狼は瞬時に察していた。生真面目そうな担任からの再三の注意は聞き流してきたが、こうして実力行使に出られるとは、敵もいよいよ手段を選ばなくなってきたか。
体育祭は小中でとっくに飽きてしまった学校行事の一つで、今更参加する意義が司狼には感じられなかった。時間はもっと有効に使うべきだ。やりたいこと、やってみたいことは山のようにあるのだから──という主張をいまいち教育への熱意の感じられない副担任に試みたとして、きっと同意は得られても許可は得られない。はそういう男だ。これで他の教師と対した時のようにおざなりに振り払う気にさせないところがまた困る。
「わかった。わかったから、一旦蓮の部屋に戻ってくれよ、センセ。ちゃんと準備するからさ。この皺だらけのワイシャツのままじゃ運動どころじゃねえし?」
「着替えたらいいだろ。いま」
「あんたがいる前で?」
「おれがいる前で」
着替えと見せかけて玄関から脱出を図るのが司狼に打てる唯一の手だったのだが、そうは問屋が卸さない。
「センセーのえっちー」
「煙草一本もらうぞ」
「センセーのどろぼー」
「黙って着替えてろ、マセガキ」
一見理不尽の塊のような振る舞いだが、玄関からの脱出計画を阻止するためでありついでに煙草を見逃してもらっている手前、結局黙って制服を出してくるほか彼の取れる行動はなかった。相手は司狼が語彙と屁理屈の限りを尽くしたとしても耳を傾けず端からまともに取り合う気がなく、加えて煽りがいもないときたら、完全にお手上げだ。
壁にもたれかかり、宣言通り司狼の煙草を吸い始めたは、司狼が寝間着代わりにしているワイシャツを脱いで制服に腕を通すまでの一部始終を何も言わずに眺めていた。たまにふうんと相槌など打たれるものだから、さすがに居心地が悪くなった司狼が声を上げるまでにそう時間はかからなかった。
「あんたほんとにそっちの気があるんじゃないよな? オレの熟れた身体に魅力感じちゃったりしてんじゃないんだろうな?」
「感心したんだ。運動好きには見えないが、意外と筋肉がある」
「あぁ、そっちね。まあバイトとかで色々な。そう言うはひょろいよなあ、もしかしてオレでも倒せんじゃねえの?」
身長こそ司狼たちよりやや高いが、体格は比較的細く、男らしさとは程遠く思える。服の上からこの体型で、まさか脱いだら筋肉隆々ということもあるまい。人を殴ったことも殴られたこともなさそうだ。
「どうだろう。倒されるかもな」
「そこは意地張れよ教師。煽りがいねえな」
教師煽るなよ、とそこそこ正論で返して、が灰皿に煙草を押し付けた。代わりにマグカップを再び手に取り、図々しくも飲み物をくれとアピールしてきたので、冷蔵庫の方を顎で示してやる。真っ直ぐ台所に鎮座する冷蔵庫へと足を向けたが、その扉を遠慮なく開け放った。中身を見つめて数秒動きを止めたが、やがて怪訝そうに司狼を振り向く。
「飲み物以外何もない」
衣食住を幼馴染の綾瀬香純に頼り切っている遊佐家の冷蔵庫には、飲み物以外何も入れていない。それはそれとして。
「そもそも冷蔵庫も置いてないあんたにだけは言われたくねえわ」
蓮曰く。彼の部屋は空っぽと呼ぶに相応しい物の無さだったらしい。ある意味らしい部屋なんだろうなと、シャツのボタンを留めながらふと思う。不法侵入されっ放しというのも面白くないし、いつかこれをネタに直接部屋を見に行ってやろうと、マグカップに烏龍茶を注ぐを盗み見て、司狼はこっそり決意するのだった。