偽りの家

 リザ・ブレンナーは朝に弱い。けれども、彼女の朝は毎日早かった。学校に通う年頃の子供が一人いるというだけで、育ての親の起床時間は自然と早まるものだ。朝食の準備をして、同居する少女を起こし、学校へと向かう彼女を見送る──思えばこれを、十数年繰り返してきた。今でも早起きは得意ではないが、これを嫌な仕事だと思ったことはなかった。これまで自身が請け負ってきた仕事を振り返れば、こんなに穏やかな時間は、まるで嘘のようだから。親子で仲睦まじく暮らしているような錯覚は、彼女の負い目と深い傷を癒やすような優しい時間であり、逆にそれを抉り貫くような痛みも伴っていた。優しい時間は、偽りの時間だ。しかし少なくとも、氷室玲愛にとってはただの茶番でもないことをリザは承知している。玲愛にとってはリザという母親代わりがいて、ヴァレリア・トリファという父親代わりがいて、という兄代わりがいて。真実、家族が住まう、彼女の帰る場所となっていると。
「あら、おはよう。相変わらず早いわね、あなたは」
 スクランブルエッグ、ウィンナー、サラダを詰めたプレートをダイニングテーブルに並べている最中、リザは人の気配に顔を上げた。廊下へ繋がる扉からふらりと出てきたのは、この家において兄役を務める青年だ。職場である学園へ向かうための、スーツ姿で。いやに目鼻立ちの整った彼は、リザの挨拶に頷いて返すのみだった。どこかぼんやりとした眼差しを向けてくる彼の頭がきちんと覚醒しているのかは怪しいものだが、そもそも彼は普段からこういう物腰だ。寝惚けているのか否かの判断は少し難しかった。
 テーブルの片側にプレートが二つ、その対面にもう一つ。ルカは、当然のように隣に誰も座らない方の席についた。そこが彼の定位置だった。その対面が玲愛で、彼女の右隣がリザだ。十年近く決まりきった席順で、食卓を囲んできた。彼は今はもうこの教会から離れてしまったけれど、たまに玲愛にねだられるまま、昔のようにここで一晩過ごして、朝食を一緒に摂るのが定番の流れだ。このダイニングへ来る順番も、昔と同じ。朝食の準備が出来上がりつつある頃にルカが現れて、その少し後で玲愛がまだ眠そうに起きて来るのだ。状況は変わっていくのに、未だ変わらないものもあることに何だか微笑ましくなりながら、そしてそんな呑気な己の発想をやや嫌悪しながら、リザは小さく息をついた。
「顔色が良くないのも相変わらずね。そもそもちゃんと眠っていたのかしら」
「眠った」
「あなたのそういう返事、私あんまり信用しないことにしてるのよ」
「信用はしなくていい」
「開き直って欲しいわけじゃないのだけど」
 欲と名のつくすべてのものと縁遠い青年は、放っておくと食事も睡眠も取らない。それは、リザの頭痛の種となる悪癖のひとつだった。
 エイヴィヒカイト──副首領であるメルクリウスがリザたち聖槍十三騎士団に施した術は、彼らの肉体の強度をぐんと底上げしている。各々ステータスに違いはあれども、一般的な人間の死因となるような餓死や病死の類で死に至ることはない。は首領、ラインハルト・ハイドリヒの私兵であり彼が黒円卓に貸し出した、黒円卓の下僕、及び道具であるが彼の本体はともかく、身体はエイヴィヒカイトを持たなかった。という青年は、"その中身がヒトではないだけ"で、器はただの人間だ。つまり餓死も病死もリザと違って有り得てしまう。にも関わらず、ヒトと違う感覚で過ごした時間が長すぎて、その手の欲求に酷く疎い。食べたい、眠たい、をきちんと理解していないのだ。冗談ではなくたまに死にかけているのが笑えない。息の根さえ止まっていなければ、大概は魔女たるルサルカ・シュヴェーゲリンがどうにでもするのだが。それはそれとして、どうしたって心配にはなってしまう。正確には、の身体が心配なのではなく──
「昨日は、玲愛のテスト勉強を見てくれていたのでしょう。数学だったかしら。どうだったの、調子は」
「やればできる」
「いつも同じ答えを聞いているような気がするわよ」
「あいつ、やらないから。おれが来るまで」
「全く、可愛らしいんだから」
 玲愛は、をここへ呼ぶ時に、一応もっともらしい理由を付ける。大抵は勉強という名目だ。も仮初の姿ではあれども教師をしている身分であるから、それだけの知識を備えており、勉強はまともに見ているらしい。玲愛はそれを目当てに、勉強をギリギリまでやらない、らしい。彼の担当教科である英語に至っては英語の話せる玲愛にとって苦戦する理由もないのだが。いじらしくはあるが、少々困りものと言えばそうだ。
 そんな話をしながら、リザは焼きたての香ばしい匂いを漂わすトーストを載せた皿と、ジャムとバターをキッチンからテーブルに手際よく移動させていく。
「トーストにバターとジャムを塗ってくれる? 玲愛の分も。そろそろ起きて来るはずだから」
「わかった」
 はトーストの皿とジャムの瓶を徐に掴み引き寄せると、バターナイフで掬った赤い液体を、きつね色に焼けた食パンの表面に塗り始めた。ルサルカ辺りが見れば腹を抱えて笑うような妙な光景も、慣れてしまえばありふれた日常だった。四年前までの、日常だけれど。黒円卓からの"命令"を、は拒まない。人殺しから、トーストにジャムを塗る仕事まで、なんでもだ。
「起こしに行くか。あいつ」
「やめておいた方がいいでしょうね。起こすなら、私が行くわ。あなたにはわからないかもしれないけど、そういうのを嫌がる時期なのよ、あの子。男性相手だと、特にね」
「異性という認識は、ないと思うけど」
「それでもよ。お兄ちゃん相手でも、見栄を張りたい時期なんだと思うわ」
「そう。面倒だな、それ」
 どうでもよさそうな相槌だった。思春期そのものはわかるだろうが、理解する気はなさそうだ。基本的に、シュピーネが彼を部下として接待に出向かせる程度には、人の機嫌を取ることに長けた男である。もちろん、その出来た見目も込みで。ただしそれは必要な時以外は全く発揮されず、本来の彼は愛想が無ければ感受性も鈍い人形のようなものだ。玲愛の監視という目的の下、まだ幼い姿をしていた彼を教会に住まわせるようになったのはいいが、当初は失敗だったかもしれないと頭を悩ませたこともある。子供の相手をした経験が少ない彼は、その扱いが雑だ。監視対象であり機嫌を取る対象ではなかったこともあるが。それでいて、優しくないわけでも、なかった。不器用ではあれどもまるで兄が、家族が、するように──周囲の誰よりと対した時よりもほんの少しだけ柔らかに、玲愛に接していた。今となっては、やはり結果的に失敗だったと彼女は自省する。玲愛はに、懐き過ぎた。
 朝食の準備を済ませ、リザはの斜め前の席に腰を下ろした。彼女からの任務を果たした彼は、使い終えたバターナイフを白い皿の隅に寄せて置く。伸ばした手首は成人男性のそれよりも、細い。その手首を取って、リザはごく真剣に問いかけた。
「また細くなってるわね。ご飯、ちゃんと食べてる?」
「そこそこ」
「真面目に答えなさい、
「……きみな」
「私がこんなことを言うときは、誰のためか、わかるでしょう。あまり余計な手間をかけさせないで」
 煩わしそうに、が目を伏せる。細い手首を捕らえたまま、視線はうつくしい男を捉えたまま。真剣に訊ねているのだと、言わずして示す。
「二日に一回は」
「せめて一日に二回にしなさい」
「そんなに痩せたかな、おれ」
「だから言っているのよ」
 教会にいた頃は食事の管理がこちらで出来ていたためか、気にしたことはなかったが。教会を出てから、もっと言えば教師として一人暮らしを始めてからの痩せ方は顕著だ。
「玲愛がね、最近またよくあなたの心配をしているわ。の体調が悪そう、痩せた気がする、アパートで倒れているかもどうしよう──正直見ていられないのよ、あなたのことであの子が悲しそうな顔をするのを」
 という道具のために、玲愛が悲しむことをリザは許容したくなかった。物同然、人形同然。そんなもののために、彼女が心を痛める必要はない。は、誰を相手にしてもこれっぽっちも何とも思っていないのだから、尚更だろう。
 人の心がないからなどと、言うつもりはない。自分もまた、畜生の所業に身をやつした一人だ。玲愛の気持ちをいつか裏切ることが確定しており、守りたいなんて口が裂けても言えない立場だ。だとしても。彼女を悲しませるものは、一つでも少ない方がいいから。その一つが、人形のような男のためであっていいはずがないと、思うのだ。どうあがいても、彼が玲愛を振り向いて、手を差し伸べることはない。どんなに気持ちをぶつけても、家族としての情を訴えても、この青年から玲愛の十分の一も気持ちが返ってくることは、ない。こんなに虚しいこともないだろう。
 そんなことはやはりリザだって本当なら同じで、否、同じでなければならないのに、何故か玲愛が気持ちを向ける相手がとなると、どうにも看過出来そうにない矛盾が発生する。これもまたただの偽善なのだろうと、彼女は自嘲して。自然、その嫌な男の手首に力が篭もる。
「随分、大事にしてる。いいのか、それで」
「わかった風な口を、利かないで。なにも、わからないくせに」
「そうだな。おれはなにも、わからない。きみがいいと言うなら、頷くしかないな。で、おれはどうしたらいいんだ、リザ・ブレンナー」
 一日二回の食事、なんて彼に下す命令としてはあまりにも大雑把だ。何をどうして一回分の食事とするのか、具体的な指示が必要だった。玲愛の不安を出来るだけ速やかに取り除く方法は、いつもだいたい決まっていた。
「しばらく、食事はここで取りなさい。それと、週一でルサルカのところへ通って。顔色が良くなるまでは、診てもらうのよ」
「……ルサルカ・シュヴェーゲリンのところに」
 あからさまに、の眉間に皺が寄った。
「嫌そうな顔をしてもだめよ。少し身体を弄られるくらい、体調管理が出来ていなかった罰だと思えばなんてことはないでしょう?」
「なんてことはある。あるが……わかった」
 ルサルカに治療を頼めば、ついでに身体を良いようにされて、実験じみたありとあらゆる行為を強要されるから面倒なのだろう。そこは甘んじて受け入れてもらうべきところだとリザはあくまで冷静に判じていたが。
「ごめんなさい。手首、痛かったわね」
「いや。べつに、いい」
 つい力を入れてしまった手を離せば、の手首に赤みが残っていた。彼は気にしていないとかぶりを振る。それは気遣いではなさそうだった。心の底からどうだっていいのだろう。赤くなった手首を撫でていたリザの指を、は拒むように軽く払う。
 決して、嫌いではないはずなのだ。何かをされたわけではない。ただ元々その在り方が好きになれなかった。魂を集めるための手段は狡猾。誰を惹き付けても受け入れることはなく、誰を傷付けても彼自身は傷付かない。極めつけに、時折不穏な存在を過ぎらせるその容姿に、苦手意識を刺激されてしまうから。六年共に暮らしても、結局彼は不透明。彼女なりにを見極めようとしたが、わかったのは、どうあっても道具であるということだけ。
「足音がする。玲愛、起きてきたわね」
「あぁ」
 それでも──この教会の゛家族゛の中に、彼は確かに組み込まれている。玲愛の帰る場所として必要な一人。 それは認めざるを得なくて、そのせいか苦手なのに嫌いにはなれないのもまた本当で。そんな複雑なものを抱えながらも、つまり今はここにいる三人で、この茶番を続けていくしかないのだ。たった一人のために。
 足音が部屋の前で止まる。扉の奥から姿を見せた、眠たげに目を擦る制服姿の少女に、リザはいつもの笑顔を向けた。
「──おはよう、玲愛」


(20170801)
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