タイム・ゴーズ・バイ
時間の流れとは、時に恐ろしいものだ。思わぬ感情の移り変わりを、起こす。
クラスの副担任である・が、学校を休み始めて三日が経った。どうやら熱を出したらしいというのは、彼の代打で授業に来た教師と、彼の遠縁である氷室玲愛からの情報だ。
──昔から時々あるのよ。身体弱い上に、あの不摂生だからタチ悪いよね。一人暮らしさせてたら、いつか誰にも知られず死んじゃいそうで、心配になるよ。
──一人暮らしの老人ですか、あの人は。
──似たようもなものかな。もう昔みたいに看病もさせてくれないし。だから藤井君、たまにでいいから、あの人の生存確認しといてくれると助かる。
どれだけ手間がかかる大人だよ、と藤井蓮は思いつつ、彼女の心配は杞憂だと切って捨てられるようなものではないと知っている。・は貧弱だ。身長は蓮や司狼と並ぶと僅かに上を行くものの、身体つきは彼らよりもずっと薄っぺらく、細い。ただでさえ見た目を裏切らない体力と筋力であるのに、そこに加えてはとんでもない不摂生であったので、身体があれ以上丈夫になる兆しが見られないどころか、ウイルスに弱くなる一方であるのは当然とも言えた。食生活に偏りがある、と言うよりも、そもそも食欲そのものがごっそりと無いらしい。
いい歳をして、どういう生き方をすれば、こんなだめな大人が出来上がるのか。
だいぶ年下の女の子にこんなに心配させて恥ずかしくないのかよ。などと諸々の文句を胸に抱え、右手にビニール袋を握りしめて蓮はの部屋の前に立っていた。同じアパートであるがゆえに、これからもこういう時は真っ先に頼られるのだろうなとそんな面倒な未来を予感しながら。の体調を気にかけていたのは綾瀬香純も同じだが、彼女には部活動がある。付き合わせようとした遊佐司狼は、放課後になるとさっさとどこかへ消えてしまい、逃してしまった。全く気が進まないが、今日の見舞いは一人決定だ。
別段、蓮はが嫌いというわけではない。彼は"嫌な奴"ではあるが、以前よりも苦手意識は薄まっていた。彼の隣は、彼の纏う時の流れがゆったりしているかのような空気は、寧ろ好ましいものだ。
「先生、藤井です。生きてます?」
チャイムを押し、扉をノックもし、話しかけもしてみたが、一切の反応がなかった。携帯で連絡を取ろうとしてみても、同じく。出かけているのか、寝ているのか。まさか本当に死んでいるわけでも、あるまい。どちらにしろ一旦出直すのが正解だろう。香純が帰って来てからもう一度来てみることにして、見舞いの品──スポーツ飲料水とゼリーが入った袋をドアレバーに引っ掛けた。なんとなしにレバーをひねる、と。扉が軽く、開いてしまった。
「なにやってんだよあの人……」
一年前となんら変わりのない不用心さに、ほとほと呆れるしかない。が鍵の隠し場所としている茶色の植木鉢の下を確認すれば、そこに鍵は無かった。どうやら彼は中にいるらしい。出直す理由がなくなってしまった。
「先生、いますよね? 入りますよ」
ドアレバーにかけた袋を回収し、蓮は室内へと足を踏み入れる。玄関で靴を脱いで、フローリングの床を白い靴下に包まれた足で、進んだ。電気が消えた室内を照らすのは、ベランダから入る淡いオレンジ色の光だけだった。テーブルには複数の中身の無いペットボトルと、薬局で購入出来る風邪薬が散らばっている。ソファベッドの上にはタオルケットが一枚、無造作に放り投げられていた。それだけで、ここ三日のの生活の様子が窺える。案の定、彼は体調を崩しても尚、不摂生を貫いているようだ。テーブルに買い物袋を置いて、蓮は浅く呆れの滲んだ息を吐く。
「死ぬ気かよ」
「べつに死ぬ気はないけど」
つい、唇からそんな感想が零れ出た直後に返答がされ、蓮は肩を小さく跳ねさせた。部屋のどこかにいるのはわかっていたものの、気配もなく突然背後から声をかけられれば、驚くのも道理だ。は目立つ容姿のわりに、視界に入らなければ、存在感が嘘みたいに希薄だった。
「先生、驚かさないで下さい、よ……」
風邪で弱っているだろう男の方を、振り返る。背後のと目が合った瞬間、時が止まったように、蓮の動きも、思考も、停止した。
「風呂、入ってた。それ、頼んだのは、玲愛か。悪いな、手間をかけた」
の言う"それ"は、蓮がテーブルに置いたビニール袋を指していたが、蓮の方はそれどころではなく。頷くことすらまともに出来ずに、目の前の、思わぬ格好をした教師にどきりとして、茫然と見つめた。
水気を含んだ黄金色の髪から滴る雫を拭うようにタオルを動かしながら、が蓮の立ち尽くすテーブルの前へと近付いてくる。スラックスを穿いた彼の上半身はワイシャツを羽織ってはいるけれど、そのボタンは一つも留められていなかった。そのシャツの下は何も着用されておらず、つまり白すぎる素肌が覗いていて。それだけでも十分動揺を誘うのだが、極めつけは──彼の首に、胸に、腹に、無数に広がる傷だ。ナイフで薄く皮膚を割いたような、傷跡。一体どこでこんなものを──
「どうした。顔色が悪い。風邪か」
髪を拭いていたタオルを首にかけたが、蓮の瞳を覗き込むように、顔を近寄せた。思わず、近づかれた分だけ顔を引くと、彼が表情もなく首を傾げる。まだ乾ききっていない髪の毛が彼の肌に貼り付いているのがはっきりと見て取れるくらいの距離間だ。ただでさえ人に緊張を与えがちな容姿をこんなに間近で見るのは久しぶりであったし、普段の彼からはしない石鹸の匂いと、水気が拭き取り切れていない髪や身体が、理由はわからないけれどとにかく直視しづらくて仕方がない。それでも、見てしまうのだが。その滑らかそうな肌に残る傷もひっくるめて、見てはいけないものを見てしまっているような気分にさせた。己の知らない、知ってはいけないこの教師の顔。
「……風邪、引いてるのは、あんたでしょう。思ったより、顔色良いみたいですけど」
「うん。だいぶ、良くなった。心配、かけたな」
「俺はしてませんから」
「じゃあ、きみ以外に、心配かけた」
「それは本人に直接言って下さい。あと、髪ちゃんと拭いて。こんなんじゃ、またすぐに風邪引きますよ」
動揺を隠すようにそう言って、ごく自然にの肩にかかったタオルを手に取った。タオルでの頭を包み、頭の位置を低くさせながらタオルごとわしゃわしゃと撫でつければ、「おい」と抗議の声が上がるものの、その手を拒まれはしなかった。何だこの距離はと、自分で始めたことにも関わらず妙な違和感を覚えながら。今の自分はこの男にこういう行為を大した躊躇いなく出来てしまうし、彼もまた、この無遠慮とも言える行為を、嫌そうでもなく受け入れる。この一年で築いた彼との関係は、少なくともただの教師と生徒に留まるものではないことを、蓮は改めて自覚した。いつから、こうだったのだろうか──そんな考え事にふと手が止まると、タオルの間から覗くスカイブルーが、不思議そうに蓮を見上げた。自分を至近距離で映すそれを見下ろして、更にその下の、傷だらけの身体を、視界の端に置く。女とは違う、柔らかそうでもない体。ただ細いだけの、胸や腹。出来過ぎに整った美貌の男のものにしては貧相で、それを惜しいと感じる者も多いのだろうが。
「傷、どうしたんですか」
「ころんだ」
「もうちょっとましな嘘付きましょうよ」
「自分でやった」
「この部屋刃物見当たりませんけど」
「そうだな、置いてないからな」
「誰にやられたんです」
答えは返ってこなかった。
「痛く、ないんですか」
「いや」
気付けば、こまかい傷が付いた身体をじっと眺めていた。はそれを咎めることはなく、蓮の好きなようにさせていた。傷の間に残る、傷ではない鬱血痕に蓮が目を留めたのは、それから数秒後のことだった。
「……女かよ」
頬が僅かに熱くなるのを誤魔化すように、少し俯いた。この男、顔だけは品が良さそうなくせに、変態のようなプレイをするのか。
「これ、キスマークでしょう」
「…………」
「なんか言って下さいよ。言えよ、この変態教師」
「なぜ怒る」
「怒ってませんよ、べつに、俺は……。ていうか、あんたSMとか、そっちの気があるんですか。似合ってないって言うか、いや性癖は人それぞれだと、思いますけど」
「違う」
「その……氷室先輩には、黙っておいてあげますよ」
「それは助かるが、一つ訂正する。べつに、おれの趣味じゃない」
黙っておいてやる、と言うよりもそもそもこんなこと誰にも言えたものではないだろう。どこか煩わしそうに、は言葉を継ぐ。
「相手がしたいって言うから。好きなように、させてた」
「……その彼女が、好きだからですか」
「彼女ではないし、好きでもない。頼まれたから、付き合っただけ」
「は? おかしいでしょう、弱みでも握られてたんですか? それとも、金でも貰ってたんですか」
「どちらでもない。きみには、関係のない話だ」
これだけの傷を付けられて、そこに大した理由はないと彼は言う。好きでもなく、金でもなく、弱みでもない。そうなると、一体どんな関係であれば、これが同意で行われるというのか。 子供にはわからない世界の話なのかもしれない。それなら仕方ないと納得できないのも、きっと子供だからだ。抵抗せずに傷付けられるにも、彼を喜々として傷付けたであろう女にも、無性に苛立ってしまうのすら、自分が子供だからに決まっている。身近な人間が、こんな目に合っているのを蓮は看過したくない。を通して、この事態を知った氷室玲愛が心を痛めるところまで、見えてしまうから。関係なくなんて、ないだろう。
「氷室先輩には、言いませんけど。バレたらあの人、泣きますよ。だからそういうの、控えた方がいいんじゃないですか」
「うん」
「控える気ないだろ」
「うん」
「あんたな……」
「玲愛が、これを見ることはない。一緒に暮らしてるわけでも、ないからな。見るのは、精々こうしてここにやって来る、きみくらいだろ。何の問題がある」
姿勢を正したがタオルをソファに放り投げつつ、なんてことはないように言ってのけた。蓮が気にかけなければ済む。それだけの話だと言わんばかりに。
「……問題、ありますよ。嫌がるのは、先輩だけじゃないんで」
自分が傷付くことをなんとも思わない男に、腹立たしさがあった。他人のせいで傷だらけになった身体を見せられて、気分良くいられるわけがない。大きな理由は氷室玲愛であり、それだけでもなかった。たぶん、認めたくないのだろう。
「俺も……嫌です、し」
この自分勝手で嫌な奴を地で行く、けれども美しい男が、知らない誰かに、良いようにされているという事実を。あんたはそういう奴じゃないだろうと、それはある種の勝手な幻想の押しつけだと理解していても、簡単に止められるものでもない。
が珍しく目をまるくして見つめ返してくるのを、正面から受け止めた。少々居心地が悪かったが、逸らしたら負けだと自分に言い聞かせる。
「どうして」
「わかりませんか。一応……心配、してるんですけどね。副担任が、変な女に捕まってるなんて。風邪なんかよりずっと、心配にもなりますよ」
「そうか。きみが、おれを」
物珍しそうに繰り返すのは止めて欲しい。つつ、と傷を撫でながら、見た目ほど大したことないよ、とがあっさりと続けた。大したことあるとかないとかそういう問題ではないのだが。彼にはそういう細かい機微が、あまり伝わらない傾向にある。
蓮が不満そうな顔をしていることを察したのか、の大きくほっそりとした手が、蓮の頭上におりてきた。ゆっくりと髪を撫でる手を拒む気がない己はどうかしていると、思う。
「……なんですか、突然」
「機嫌、治そうと思って」
「俺は氷室先輩じゃないんで」
「勘がいいね、藤井は」
「付き合いもかれこれ一年になりましたからね」
「もうそんなに、経つのか」
そうだ。だからただの他人よりも、すっかり近しい人間になってしまったのだ。氷室玲愛も、この男も。身内と呼んでも過言ではない距離感が出来たのは、この一年があったからだった。彼を心配するのも、彼を心配する彼女の心配をしてしまうのも、すべてそのせい。一年という期間が長かったせいか、その中身が濃かったせいか。どちらかはわからないが、もしかするとどちらでもあるのかもしれない。そうか、と再び独りごちたのち、蓮を見つめる瞳が、やや細まった。
「心配かけた」
静かに笑って、はぼそりとそう告げた。本日二度目の心配かけた、は先程と同じだけの軽さはなく。たったそれだけで、彼の無頓着さへの苛立ちが薄まっていくのを感じる。これもまた、きっと一年という時間のもたらしたものだろう。厄介なものだ。でも、今更失くすのも、嫌だ。