止めたい世界

「──その時間を止めたいと思ったこと、ありませんか」
 時間が止まればいい。そう珍しくもない、思春期特有の青く淡い願望。叶わぬ願い。時間は進み続けるものだと頭では嫌と言うほど理解している。それでも叶わないならせめて出来るだけこの愛しい日常を引き伸ばしたいと悪足掻きを試みてしまうほどに、藤井蓮はそれを強く望んでいた。恐らく、同年代の誰よりも強く。皆が通り過ぎる道だと誰かは言うだろうが、彼の願望はその誰かのような一過性の発作として終いに出来そうになかったのだ。この価値観は永遠で、死ぬまで共に寄り添うものだと、そんな予感がどうしても拭えない。それとも、この予感すら大勢が通ってきた道なのだろうか。誰かに問うて、答えを得てもそこに意味はない気がした。青臭いと笑われ、時間は止まらないと諭されたところで、自分の本質が変わるとも思えなかったからだ。
 しかしあの浮世離れした嫌な大人はどんな答えを出すのかと、単純な興味があった。共感されるのか、笑われるのか、つまらなそうに頷くのか──否、知りたいのはそこじゃない。この男にも、時を止めたくなるような、大事な瞬間が存在したのか。
「おれは──」



 足を止めざるを得ない状況だった。コンビニに入る時には見受けられなかった、駐車場で立ち話をする二つの影。ペットボトルのお茶とおにぎりが入ったビニール袋を片手に提げて店を出た蓮は、その影の片割れが見知った男であることに、すぐに気付いた。アパートの階下の住人兼教師だと。月乃澤学園英語担当の常勤講師で、蓮たちのクラスの副担任という役職持ちでもある。教師として、だいぶ難はあるが。
 視界の片隅を一瞬横切った程度でもその存在を容易に認識出来てしまうくらい、その男は、異国人であることも手伝ってよく目立つ。同じ地域の住人同士、頻繁に利用するコンビニやスーパーが被るのは必然と言っても過言ではなく、であれば本来この状況もそう珍しいものではないのだが。蓮が足を止める要因となったのは、そのが一人ではないというところだ。
 そもそも学校とアパート以外でと顔を合わせること自体がほぼないイベントだと言ってもいい。今日のような休日なら尚更だ。それが今、よりによって人と一緒にいるところに遭遇してしまった。はいつものスーツ姿で、もう片方の茶髪の男は私服姿で、親しげにの肩を叩いては、その手を払い落とされている。あれで道案内をしているだけで赤の他人なんてオチもあるまい。可能性としては同僚か、友人か。少なくとも蓮は、あの片割れの二十代後半くらいの男を、月乃澤学園で見た覚えがない。そうなると結論は自然と後者へ向かうしかなく。しかしそこには違和感が先立つ。学園ではよく生徒に好かれている印象のあるなのに、何故か友人と並ぶ状況は、すんなりと飲み込めない。否、一人だけ友人を自称する彼の同僚がいたはずだが──その教師に対するの態度はそこそこ雑で、親しい者である証であるようにも取れるし、どうでもいいと本人が断じるならそれはそれで納得出来てしまうような関係だ。傍から見ていると。
 男と向かい合うは愛想笑いの一つも浮かべていないのに、男の方は不思議なことに楽しそうに破顔していた。蓮の立ち位置では二人の会話を拾うことが出来ず、一体何がそんなに彼を笑顔にするのかわからない。どうしてそんなに満足そうなのかと疑問を覚える一方で、どこかで似たようなことがあった気がすると感じて。
「──藤井?」
「……あ」
 何の前触れもなく、いつの間にかに存在を察知されていたらしい。じっと見過ぎていたせいだろう。まだ太陽が真上にある時間帯だ。遠目であったとしても、背格好で知人の姿には気付ける距離だった。
 こちらに向かって首をひねるは目をまるくしたのち、会釈して逃げようとする蓮に向かって手招きをしてくる。このまま逃げ切るのもバツが悪く、数秒考えた末に蓮は渋々二人の大人たちの元へと足を運ぶ選択をした。
 何とも言えない面倒臭さを抱えて、招かれるままの隣に並ぶ。「丁度いいところにいたな」と、科白とは裏腹に珍しく不機嫌そうな調子で口にしたに、軽く背中を叩かれた。
「こいつ、おれの生徒。藤井、こっちはおれの元クラスメイト」
 つまり友人だろう。その答え自体は想定の範囲内ではあった。ただ本当に友人がいたことには素直に驚きだ。友人、元クラスメイト、そんな響きが何故かには酷く似合わない。毎日彼を学校で見ているのに、彼が制服を着て教室にいる彼を思い描くのは難しい。そうなんですか、と適当な相槌を打ちながら顔を上げると、黒い瞳と正面から目が合った。愛想の良い笑みが蓮に向けられている。
「こんにちは。の友達で元クラスメイト、つまり君の先輩だよ」
「先輩って……もしかして、先生ツキガクだったんですか」
「なんだよ、言ってなかったのか」
「わざわざ言うほどのことでもないだろ」
「お前さー、昔からそういうとこあるよな。横着って言うか」
「おうちゃく。なんだっけ。褒め言葉か? ありがとう」
「全然ちげえし」
「難解だな、日本語って」
「わかってんだろ」
 ざっと十年は前の話だろう。そんな頃から日本で過ごしていたのなら、が汚い日本語を使いこなしていても何ら不思議なことはない。思わぬ場所で謎が解けた。
「ていうか、ほんとにお前教師みたいなことしてんのな」
「教師だからな」
「あの世話の焼けるがねー、世も末だ」
「そう思うよ、おれも」
 からかい混じりの軽い言葉に、はどうでもよさそうに頷いた。同意するところじゃないと思うが。好奇心を多分に含んだ黒目が、再び蓮を捉えて細まる。
「藤井くん、だっけ? こいつほんとにちゃんと教師やってる? 授業サボったりしてない?」
「サボりを阻止しようとしてる側ですよ、一応。それよりその言い方だと、生徒の頃はサボってる側だったみたいに聞こえますけど」
「もちろん」
 当然と言わんばかりの返答だ。性悪教師、と司狼がを指して揶揄する時があるが、性悪だったのは学生時代からだったのか。蓮の疑問を読み取ったらしい男が、にんまりと笑った。
とは一緒にサボってた仲だ」
「そうだったか。悪いな、覚えてない」
「つれねーな、相変わらず。まったく昔からお前はヤな奴だよ。よく授業から消えてるくせに成績も落とさないしさ」
「授業を聞かなくても出来る奴は出来るし、出来ない奴は聞いても出来ない」
「な、ヤな奴だろう?」
「ええ、なかなかヤな奴ですね。教師というところを鑑みても」
「だよなぁ」
「好きに言ってろよ」
 目を背けるは、関心が無さそうであり鬱陶しそうでもあった。つれなくされてもやはり男は満足そうで、これは一種の慣れなのだろうか。あるいは、その程度気にも留めないくらいに、彼はを気に入っているのか。煩わしそうに息をついたが、唐突に蓮の名を呼んだ。
「藤井。家まで送ってやる」
「え、べつにいりませんけど」
「いるってことに、しといて」
「は?」
、お前過保護かよ」
「おまえと話すのが面倒でな」
「この正直者、ひでえの」
 からからと笑う男は気分を害している様子もなかった。はこの手の冗談は言わない。つまり心の底から本音を告げているということだと蓮は察したが、この男はどうなのだろう。いいんだよこいつは、とでも言いたげに、彼はまた蓮に微笑んだ。その後、ひらひらと手を振って。
「また会えてよかったよ。次会ったら、連絡先くらい教えてくれ」
「嫌だ」
「社交辞令くらい覚えろよな。またね、藤井くんも」
 そうして去っていく友人であったかもしれない男の方を、は振り返りもしない。未練は一分も無さそうに、ただただ怠いと、そんな様子でコンビニを後にしようとしていた。



 冬が目と鼻の先まで訪れている。そんなことを身をもって教えてくれる寒さが、帰路に着こうとする蓮とその教師を包みにきていた。ジャケットを着込む蓮と違い、彼と肩を並べるはスーツしか着用していないはずなのに、冷たさなんて一切感じていないかのように、その表情は憎たらしいほどフラットだ。
 コンビニから離れ、葉の落ちた街路樹を横切り、住宅街を形成する家々を通り過ぎる。通い慣れたいつもの景色ではあるが、休日はまた違った様相をしていた。ように思えた。学校へ行く用事のない日曜日の昼下がり、隣を歩くのが幼馴染ではなく教師であるというやや普通ではない現状が、蓮に違う景色を見せているのかもしれない。どこか新鮮な心境で、肌を緩く刺す冷気をまるでこの教師のようだとらしくもないことを考えながら、蓮は右隣の男が銜える白く細い筒から、煙が上がるのを眺めた。容姿も仕草も全てひっくるめて優雅を形にしたようなひとだ。それでいて、寂静で冷たいひとだ。まるで静かな冬の夜のように。
「どんな学生だったんですか、先生」
「ふつう」
「普通な人間関係築けてるようにはとても見えませんでしたよ」
「スタンダードなんて時代と共に変わるもんだ」
「いやそういう問題じゃないでしょう、あんたの場合」
 あれがほんの十年前の友人付き合いのスタンダードなんてさすがにどうかしている。数年ぶりの再会、と呼ぶにはあまりにも塩対応が過ぎていて、けれども彼の自称友人はそこにさしたる不満も無さそうに、諦めと懐かしさを同居させたような面持ちで、冷たいそれすら楽しげに受け止めていた。折角会えたのによかったんですかあれで、と訊ねてみるも、煙草が口から離れた一瞬の「べつに」くらいしか返答が得られない。
「なんか可哀想になってきましたよ」
「あいつが? なんで」
「結構懐かしそうにしてたんで」
「あれが大げさなんだろう。生憎おれには、懐かしむほどの何かは、ない」
 気付くのにやや時間を要すくらいに緩く、の口の端が上がった。表情がころころ変わる幼馴染とは正反対な性質を持つ彼も、時折笑うことはある。しかしそのタイミングは、未だに掴めずにいた。
「教会で寝起きして、学校へ行って、適当にやり過ごして、帰って、玲愛と夕食を取る。そんな時間を、繰り返しただけだよ。おれの学生生活は。特別なことはないんだ、何も」
「でも、あんたはそれが嫌じゃなかったんだろ。そうですよね?」
 その問いは、蓮自身驚くほどするりと自分の喉から出たものだった。何の変哲もない日常。変わらない毎日。特別な何かなんてなくたって、それは価値がないのと同じではない。そんなものを、もまた経験して、今があるはずだ。青臭い瞬間が、きっと存在するに違いない。スカイブルーの瞳を覗き込むように見上げながら、更に続けた。
「それを繰り返したいと思ったこと、あります?」
 蓮の知る限り、は教師に向いていない。外も内も。感情に起伏を持たせず、表面上はただひたすらに淡白そのもの。きっと今に始まったことじゃないだろう。それを取り繕う素振りもない。子供好きには見えないし、授業は上手いが物を教えることを好むタイプでもないはずだ。じゃあなぜ教職に就いているのかとそんな疑問が湧くのは当然の流れであり、それは学生時代の友人とのやりとりをつまらなそうにしながらも、案外悪くない時間だと思ったんじゃないか──なんて、そういう勝手な推測を蓮はして。彼もまた自分と同じように、学生という長いようで瞬く間に過ぎ去っていく時間を過ごしてきたと信じて疑わないから。何を期待しているんだという自嘲は、もちろん在った。
「その時間を止めたいと思ったことは、ありませんか」
 大事な時間、大切な人。この何も読み取らせない男にもそういうものがあるのだと何故か思いたかった。裏を返せばふとした時に見せる無機質さを、そこに垣間見える不気味さを、無かったことにしたいのかもしれない。自身の根底の一部を晒しながら、頷かせたいくらいには。
「──おれは」
 は蓮に一瞥を寄越しただけで、彼をきちんと見つめ返すことはなかった。細く開いた唇の隙間から、煙草の煙をゆっくりと外へ逃していく様を、蓮はただ見つめた。
「おれには、ないな。そんな時間は。どこを繰り返されても、面倒だ」
 やがて、が横目に、蓮を見返した。何の心も宿さず誰も映さないような、透明感さえ感じさせる無に近い瞳は、ぞっとするほど冷淡で、それでいて美しかった。およそ人に対して抱く感想としての"うつくしい"とは、かけ離れたものだ。その差異を、違和感を、この時の蓮は深く追求はしなかった。
 するりとの指の間から滑るように、短くなった煙草が落ちていく。地面に落下し塵と化したそれに、彼は一瞥も寄越さず歩みも止めない。
「あの煙草は、おれの手の中に戻らない。それでいい。あれを繰り返し吸い続けたいと願うほど、執着しちゃいない」
「替えがきくから、とでも?」
「いや。替えは必要ない。ないならないで、構わないんだ。そういう、もんだよ。ぜんぶ」
 過ぎていく瞬間を総じて塵同然だと捉えている──そう、蓮は解釈する。昔日の学園生活も、今の学園生活も、氷室玲愛との同居も、今この時も。全部同じだと、彼は言うのか。
 ほんの僅かな失望と、ああやはりと腹に落ちる感覚と。どうしたって相容れる相手ではないという再確認と、失ったものは戻ってこないという考え方に対する同意と。上辺だけなら共通しているようにさえ錯覚できる思考は、根底にあるベクトルが隔絶しているから、結局二人が真にわかり合うことはない。は蓮を異質だと認識しているかもしれないし、蓮はも嫌な奴だと評するのだ。ああそうだだからこそ。嫌な奴だからこそ、蓮は彼を無視できない。そしてその"嫌な奴"の意味は一つではなく。
「でも、一つ当たりだ。おれはたぶん、嫌じゃない。煙草も、あの生活も、今もな」
 無色だった瞳が、うっすらと穏やかさを帯びている。今、とは、つまりここだろう。すぐにその意味を汲み取れず、束の間茫然としていたら、こちらに傾けられていた美貌が意地悪げに歪んだ。
「なに。そんなに嬉しいか」
「……いいえ全然ちっとも全く嬉しくないですけど。何言ってるんですか。何の気遣いなんですか、それ。似合ってませんよ」
「さあ、なんだろうな」
 曖昧にして、相手に判断を委ねるような言い回し。無神経なように振る舞うのに、一瞬でその評価を再考させるような甘さを彼は持ち合わせていた。冗談みたいに整った容姿と掴みきれない性質と隙も愛想も無い言動、そのどれが欠けてもこんなややこしい印象にはならないだろう。歪なようでまともで、誰も受け入れないのに拒みもしない。こういうところが嫌なんだ、と蓮は心の内で文句を呟きながら、口からも文句を吐き出した。
「先生は、やっぱり嫌な奴ですよ」
「よく言われる。きみからは、特にな」
 もう一本煙草を取り出すは、緩やかに苦笑しながら言う。数分後には塵となる煙草に、百円ライターの火が灯った。執着はないが、嫌いではないもの。好きだと言葉に出来ない人種である可能性は、彼に限っては何故か浮かばなかった。"嫌いではない"──これが一番、しっくりくる。この人はこの先も一生こうなんだろう。一年後も、五年後も、十年後も。蓮の日常を構成する一人は、"嫌な奴"のままでいてくれるはずだ。


(20170926)
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