最後の夏
「ほら、迎えだ」
申し訳無さそうに俯く香純と並んで校門から姿を現した剣道部顧問は、蓮と司狼の存在を確認するなりそう言って、香純の背中をぽんと叩く。察するに、は凹みまくる彼女をここまで適当に慰めながら来たのだろう。蓮たちがここにいることを確信して。たぶん。普段はこの空に昇る夏の太陽みたいに暑苦しくうるさいのが香純という幼馴染なのに、肩を落とす彼女はその片鱗が見当たらない。
蓮はゆるゆると顔を上げた彼女とぱちりと目が合うが、間もなく気まずそうに逸らされた。ああどうしたもんかなとここまで香純に付き添ったの方を窺えば、彼は涼しげな顔で腕を組み、蓮と司狼を物言いたげな目で見ている。
「……もしかして慰めろって言おうとしてます?」
「学校にバイクで来るなよって、言おうとしたんだ」
「校則かよ。空気読めっつう話だよなぁ」
「おまえは校則を読め。生徒手帳、あるだろ」
司狼がげんなりとした声を出す。確かにバイクの免許を取るのはともかく、例え夏休みとは言えバイク通学は許可されていない。もちろんそんなものを律儀に守る司狼ではなかったが。一応バイクは教師の目に触れない駐車場に停めていたのだけれど、どういうわけかお見通しだったらしい。
「おれの通勤バイクにされたくなきゃ、体力削りながら地道に通学しろ」
「あんたなんで出来るだけむかつく言い方を選ぶんだよ」
「趣味かな」
「いい趣味してんね」
「よく言われる」
薄く笑う男から底意地の悪さが見えた。話題から逸れた香純が何か訴えかけるように見つめていることに蓮は気付くが、さて何を言ってやればいいのやら。浅く考え始めた時に、隣の司狼が先陣を切った。
「けどまあ、なんつーか期待裏切らないよな、おまえって」
その一言にむっとしてこそ、綾瀬香純だ。そこも含めて期待を裏切らない彼女が司狼に噛み付く前に、蓮は追撃を試みる。
「なんでおまえは、俺が応援行ったときに限って負けるんだよ。わざとだろ」
「違うもんっ」
あからさまな余所見をして一本負けしておいて、何が違うと言うのだろうか。
今日の剣道部の地区練習試合、蓮が断っても断っても断ってもどうしても来て欲しいと香純が言うから、来てみた結果がこれである。前提として、蓮が断るには理由があった。夏休みに学校へ来るという面倒さに勝る理由だ。蓮が試合を見に来ると、香純は負ける──シンプルだが、本人にとっては嫌なジンクスが存在するのだ。偶然と呼ぶには重なり過ぎたそれをきっかけに、彼は彼女の試合に徐々に足を運ばなくなった。それでも、香純は蓮を試合に誘い続けた。蓮が誘いを蹴ってきた何度かの試合で、彼女は良い成績を残している。なら、もうそろそろ見に行っても大丈夫かと、妙なジンクスが断ち切れるんじゃないかと期待しながら強制連行されてやって。そして。
「あれは、その、とあるボクサーの逸話を聞いて、ちょっと試してみようかと……」
「すんな」
変な言い訳をぶつぶつと呟いているが、結局今回もジンクスが働いてしまったのだった。そうでなけれやはりわざとだろう。
「先生、こいつちゃんと怒られました?」
「もちろん。主に集中力について。三年がな、色々と言いたいことがあったらしくて」
「でしょうね」
「しゅ、集中は、してたんだから」
「はいダウトー」
「うるさい司狼ぉー! 嘘じゃないもん! 戦術ミスですーー!」
「その戦術はミスってるって、試合前に気付けたろう」
「気付けねえからいつまで経ってもバカスミなんだよな」
「バカスミって言うなあーーーっ!!」
と、威勢よく言い放った後、非が己にあることをきちんと認識しているらしい香純がううう、と悔しげに唸る。どこか調子が上がり切らない様子だ。やりとりを静観していた剣道部副顧問にフォローの一つも入れてやれよと視線をやれば、一瞬の間を置いたのち、投げやりな一言。
「まあ次頑張ったらいいだろ」
「色々ミスっちまった部員にかける言葉はそれで合ってんのかよ顧問」
「副顧問な」
「どっちにしろ仕事したらどうなんだよ、と思うわけよ。こういう時のための、あんたじゃねえの? カンフル剤とでも言うのかね。生徒のモチベーション担当とか、の役割ってそんなところだろ?」
司狼の言い分にしては、わりとまともな部類だろう。剣道のけの字も知らなさそうな異国人の講師が女子剣道部に配属される理由なんて、人事の内情があるにしろ、そういう意味合いもきっとゼロではなさそうだ。その役割を彼が周囲の期待通り全うに果たしているかと言えば、それはまた別問題だけれど。
「生憎、他人のモチベーションには興味がない」
「クソ教師か」
「こと綾瀬に関しては、カンフル剤なら別にあるだろう。そっちに任せるのが、正しい」
「まあそりゃわかるし正しいが、あいつのカンフル剤は疫病神兼ねてんだよな」
こっちを見ないで欲しい。勝手に起爆剤と疫病神扱いを受けているのはわかったが、面倒なので無視しておいた。
「な、なんの話してんのよ!」
「俺がもうおまえの試合に行くことはないって話かな」
「駄目ぇ――――っ!」
これが最後なんて絶対に嫌だと喚かれても、蓮だって嫌なのだ。外野が好き勝手にそう呼んでいるだけなのはもちろん理解しているが、しっかり疫病神としての仕事を果たしつつあることもやや自覚している。司狼の戯言を一から十まで額面通りに受け取っているわけでもなく、その戯言の中の真意に気付いたり気付かなかったりしているわけだけれど、そこはともかく。蓮が応援に行かない方が香純の勝率が上がることは、本人たちには明白だった。
どうせなら勝たせてやりたいという気持ちもあるし。自分の目の届かないところで負けるのなら諦めもつくけれど、目の前で敗れるとなんとなしに気分が良くない。どちらにせよ、これは香純自身の問題で、彼女が自分でなんとかするところであり、蓮が幼馴染に唯一してやれることが「試合に行かない」という選択だっただけだ。
蓮を疫病神呼ばわりする張本人相手に再び子犬よろしくよく吠える香純は、試合直後よりやや元気が戻って見えた。元気になったなら何よりだが、おまえがあいつに勝てるわけないんだし無駄なことはやめよけよ、とは思うに留める。
「先生からも、何か言ってやって下さい! このバカどもに!」
「オレが言うのもなんだけどよ、SOS送る相手間違えてねえか」
「おれも。そう思うよ」
「ほら見ろ、速攻裏切ったぜ」
「せんせぇーー!」
生徒の懇願するような声音にも興味無さげに「なに」としか返さないこの教師は、本当に人間が出来ていると蓮は思う。もちろん悪い意味で。少女の嘆きを黙殺し、首を僅かに蓮の方へと動かすと、どこか意地悪そうな、人を見定めるような、蓮にとって煩わしい視線を寄越してきた。空より薄い色の瞳が蓮を映し細くなる。
「疫病神とはよく言ったもんだ。確かに疫病には、違いない」
「あんたも結局そういう扱いかよ」
「拗ねるなよ」
「拗ねてませんけど」
「違うんです、せんせい! この練炭は、たしかに、ちょっと陰気で不吉なあだ名も持ってますけど!」
「おおきなお世話だ」
「とにかく! 蓮は疫病神とかそういうんじゃなくて、悪いのは勝ち星上げられないあたしであって──っ」
「そうだな。じゃあ、きみが汚名を洗いでやるといい」
「えっ」
蓮に向けられていたものと同じ、意地の悪そうな目線が、今度は香純をなぞった。話の矛先が急に自分の元へ来たことに香純は困惑を示しながら、副顧問を見つめ返す。にこりと、にしては少し深い笑みがその容貌を更に美しいもののように見せたが、蓮に言わせればこの笑い方をする時は性格の悪さが表に出る時、だ。香純に太刀打ちできるはずもないが口を挟むのも面倒だった。ちゃんと仕事してるじゃんか、と司狼が感心したように零す。おまえはどこに感心してるんだよ。
「きみのそれ、麻疹みたいなもんだろ。つまりいずれ、克服できる。そうだろう、綾瀬」
「え、えぇと……」
「できないなら、藤井は剣道部出禁だ。残念だったな」
「そ、そんなの駄目駄目駄目駄目ぜっっったい、駄目ですっ!」
「それが通るかどうかは、きみ次第だ。治せとは言わないが、慣れろよ」
一体どういう会話なのか、これは。だいたいわかるようなそうでもないような、そもそもどうでもいいような。自身がまともに考えることではなく、これはやはり香純の問題だと結論して、蓮はその詳細を問うことをやめた。上手く話がまとまるなら、それでいい。意外と香純の扱いは心得ているようだし。ただこの教師に自分が良いように利用されている事実は、むかっ腹が立つが。
「いっそ出禁にしてくれた方が楽だったんですけどね、俺としては」
「なんてこと言うのよ。そんなの全っ然、良くない!」
「うるさい」
「そう言うな。その内役に立ってくれ、カンフル剤」
「人のことなんだと思ってるんですか」
「便利」
「あぁはいはいどうせそんなところだろうと思ってましたよ」
「なんだ、怒らないのか」
「さすがに慣れたんで」
嫌という程に。ただでさえ同じアパートに住んでいるというのに、は蓮たちが二年に上がると幼馴染三人が揃った四組の副担任になってしまった。接する機会が増えたということは、同時に使われる機会も増えたということを意味している。面倒であることには違いないのだが、それが嫌で嫌でたまらないかと聞かれたら案外そうでもないと感じているのが、蓮にとってはまた厄介なところだ。
そろそろ校舎に戻る、と強すぎる陽射しと晴れ渡った空を鬱陶しそうに見やって、が言った。確かにこのまま真夏の空の下に立ち続けては、動かずして日射病になりそうだった。彼の白く貧相な身体と、この暑さは見るからに相性が悪そうだ。
すぐに引き返すのかと思えば、彼はおもむろにスラックスのポケットから折りたたまれた紙きれを取り出す。よく見ると、紙幣だった。に手招きされ、蓮は仕方なしに数歩だけ、彼に近付いた。すると、しなやかな指に挟まれた千円札が──蓮のジャケットの胸ポケットにするりと収まる。まるでチップの受け渡しのように。やる、と素っ気なく言われて、一瞬なんのことか呑み込むのが遅れた。
「やるって……なんすかこれ。また俺に何かさせようとしてます?」
「藤井は疑うのが好きだね」
「そりゃ突然気前の良くなった相手を前にしたら、裏を疑うのは自然なことでしょう」
「気にするな。賄賂みたいなもんだ」
「うわ裏しかねえじゃん、この性悪教師」
司狼の失礼な言動を黙って受け止める浅い微笑は、そう歪んでも見えなかった。
「引き止めたからな。冷たいもんでも、飲みながら帰ったら」
「え、でも、悪いですよ。引き止めたのはあたしも同じですし。そうだ、よかったら先生も」
「いい。おれは戻れば一分で涼めるから」
一見、しばらくこの炎天下の中で帰路につかなければならない蓮たちを憐れんだかのように、思えた。もしかするとその意味合いも含まれていたのかもしれないが、実際は少し違うのだろうと蓮は察する。理由はきっと、香純だろう。この場を離れようとするを見ながら、そこそこわかりにくい気遣いに、ちょっと呆れた。この大人のこういうところは、嫌いじゃない。
「事故るなよ」
「車に轢かれるようなダサい真似はしねえよ」
「人を轢くなって話だ」
「オレたち体力削りながら地道に帰る善良な生徒なもんで、ご心配なく」
「そういうことに、しといてやる。今日はな」
歩いて帰る気なんて司狼には更々無く、その更々無いという心情もは正しく読み取っていた。その上で、見逃してやると彼は言外にこめている。司狼が無免許だと知った日には、さすがに止めるだろうか。
校舎に入っていくの背中に、「ありがとうございました!」と香純が声を投げる。耳に入っているはずなのに大した反応はなく、けれど香純は満足そうだった。こちらも蓮と同様、慣れてきたようだ。
「千円の礼にあいつにこれあげりゃよかったな」
不意にそう呟いて、司狼はポケットから出したプリクラを見せた。氷室玲愛がドアップ且つ真顔でカメラ目線を決めていた。これを欲しがるは全く想像がつかないし、まず欲しがりもしないだろうが。あの人のごく偶に覗く"兄"のような一面は、結構新鮮で面白いと蓮は思うので。
魔除けと称して香純の顔いっぱいに玲愛のプリクラを貼っていく容赦のない司狼に、一枚残しといてくれと取り置きを頼んでおく。その内缶コーヒーにでも貼って、渡してやろう。