温度をうつして

 "彼"の敗因は、プールという場所を甘く見ていたことだろう。

 何が悲しくて休日にこんな人がごった返す場所へ足を運ばなければならないのか──こういう時の原因は大抵幼馴染のせいであると相場が決まっている。藤井蓮の幼馴染たちの提案は決定と同義だ。彼らの人数は三人。その内二人がイエスと言うなら、残りの一人の答えがどうあれ決定はイエスへと押し切られていく民主主義の風潮が彼らの中にもあった。こういう時の提案は、大概意地を通すほど大仰なものでもないので、結局軽い抵抗を見せたとしても適当なところで折れるのが常である。今回はその幼馴染たちの提案に、最近よくつるむもう一人が乗っかってきたので、パワーバランスはより偏ることとなった。四対一。抵抗の姿勢を見せるのも面倒というものだ。
 そして。いつもの面子に何故か強引に連れて来られた保護者兼運転手役の教師を加えた五人で、市内のレジャープールへ訪れた。どうせなら海でいいだろ去年も行ったし、と素朴な疑問を口にしたら、「潮風は錆びるから嫌だって聞かない人がいるのよ」と電波な先輩から電波な回答を得て終わった。人間は潮風で錆びる生き物ではない。
 楽しげに「お前どっち派だよ」と聞いてくる遊佐司狼を黙殺しつつ、「藤井君、私と綾瀬さん、どっちの水着が好み?」と訊ねる氷室玲愛におまえら思考回路一緒かよとつっこみつつ、「で、結局どっちなのよ」と掘り返す綾瀬香純をやっぱり黙殺した。当然のように混ざらずパラソルの下で一人ビーチチェアに腰掛ける保護者を置いて、四人は手近な流水プールへと向かう。レジャープールの名に恥じない規模を持つここは、広大な敷地に五種類のプールがあるらしい。飛び込み用のプールやウォータースライダーは蓮にとってそこまで魅力的なものではないけれど、幼馴染たちにとってはたぶんそうでもなさそうだ。友達とプールに来るの初めて、という先輩の存在も手伝って、望まずとも全種類制覇することになるのだろう。
 塩素消毒の匂いが鼻につく、ひんやりとした水の中へ身体を沈める。太陽に温められたプールサイドを歩くだけで熱気を溜め込む体には、やや温めに思える水温ではあった。人口的に作られた止めどない水流と同じ方向へ移動しながら、蓮は何年ぶりかわからない学校外のプールに微かな懐かしさを感じる。ドーナツ型のプールは、距離にして一周120メートル程度だ。諏訪原市へ越して来る前、まだ小学生の時分に幼馴染三人で遊んだ市民プールが似たような大きさだったと記憶している。もちろんウォータースライダーなどはなく、ドーナツ型の流水プールと幼い子供向けの小さなプールの二種類だけ。蓮たちが利用したのは前者で、今日と同じように浮き輪やビーチボールを持ち込んで、昼から夕方まで流水に乗って何周もしたものだ。何度も何度も、数え切れないくらいに。
「蓮、とりあえず競争しようぜ。背泳ぎで」
「どう見てもここ競争禁止だろ」
「じゃあとりあえずビーチボールで!」
 香純が小脇に抱えていたビーチボールを両手で掲げる。スイカを模した柄の大きなボールが持ち上がると同時、ビキニのトップスに包まれた豊かな胸が揺れるのがわかったが、蓮は見なかったことにする。彼女の隣でワンピースタイプの水着を着用した慎ましやかな胸の先輩の目が鋭くなったのも、見なかったことにした。司狼、小突くのはやめろ。
「いいね、ビーチバレーボール。勝った人が藤井君を好きに出来ることにしよう」
「はいはい! 乗ります!」
「乗るなよ。ていうかそれ、俺が勝ったらどうなるんですか」
「仕方ないから、私を好きにしていいよ。ぽ」
 頬に両手を添えてわざとらしく恥ずかしそうな仕草を見せる玲愛に、蓮がつっこみを入れるよりも香純が吠える方が早かった。
「ちょ、ちょっと不公平じゃないですかねそのルール!」
「不公平? 綾瀬さんはリスクを負わなくていいんだよ。可愛い後輩を危険から守るための先輩の愛が、綾瀬さんには伝わらないの?」
「え、えっと……」
「なにあっさり丸め込まれてるんだよ」
 あまりにも幼馴染が簡単に押し負けていたので、つい口を挟んでしまった。玲愛は再びわざとらしく、今度は悲しげな顔をした。司狼、にやにやするのはやめろ。
「藤井君、綾瀬さんの味方するんだ。やっぱり私たち、引き裂かれる運命なんだね」
「よし、いい感じに仲間割れしたみたいだし、この際チーム戦でいいだろ」
「何がよしなんだ」
 待っていたかのようなタイミングだ。司狼と玲愛は、たまに打ち合わせでもしていたかのような息の合った流れを作り出す時がある。
「ベタだけど、負けた方が勝った方の言うこと一個聞くってことでどうよ」
「採用。遊佐君、一緒にあの二人を倒してかき氷奢らせよう」
「ホットドッグも追加で。やるからには当然勝ちに行くぜ、先輩」
「たまにはフライドポテトも食べたい気分」
「あれ、趣旨変わってますね……?」
「チーム分けも決まってるみたいだな」
 もうどうでもいいが。物を賭けるならそれなりにスペースがあるところできちんとゲームをするのがいいだろうという話になり、流水プールは早々に後にすることとなった。一応保護者役である教師に一言告げてからの方がいいかとパラソルが群れを成す方へと蓮が目を向けたら、ビーチチェアに浅く腰掛けていたはずのが背もたれに完全に背を預けていた。そしてそこに近付いて行き、覗き込む二人の見慣れない女性。司狼が面白そうに、口笛を吹く。
「逆ナンか。モテるねセンセイ」
「ちょっと私、行ってくる」
「助けに? それは野暮ってやつなんじゃねえの」
「あの人、ああいうの絶対ついて行かないから」
「先輩の前では、だろ?」
「ちがうよ」
 珍しく、ムキになっているような気配があった。司狼の言うことも一理ある。確かに、玲愛の前で女性の誘いに乗るような真似もしないだろう。ただしそれが正しければ、それはそれでこの状況は妙だ。保護者として付いて来たが、こちらの目が届きにくい場所とはいえ、保護者らしからぬ行為をするとも思えない。そもそも先程から、は全く動かない。様子が少しおかしい。
「じゃあ、俺が先生見てくるよ。三人は、先にバレーする場所取っておいてくれ」
「私も行く。ミイラ取りがミイラになるのは見たくないし」
「親戚指してミイラ呼ばわりですか」
「ならあたしも!」
「面白そうだからオレも」
「いいよ、俺一人で」
 今どことなく好戦的になっている節のある玲愛が行けば、揉める原因になる可能性もある。こちらは男二人、どうとでもなると言えばそうだが、折角の今日だ。玲愛にとっては友人と初めて来たプールで、気分の悪くなる思い出作りは出来れば避けたい。ここは自分一人でを見に行き、女性からの誘いを断っているのなら助け出し、逆であれば移動する旨だけ伝えて皆の元に戻ればいい、というのが蓮の心算だった。それを読み取ったかどうかは定かではないが、司狼が本来の目的地へ行くように二人を促す。並ぶの面倒だし、ここは蓮に任せときゃいけるだろ、とかなんとか理由を付けて。渋々といった風にそれに頷きつつも、玲愛は心配そうに蓮を見上げる。
「大丈夫ですよ。責任持って先生助けたら、すぐに行きますから」
「……、体調が悪いかもしれない」
「え?」
「つらそうだったら、先に帰っていいよって伝えて。電車でも帰れるから」
 やはり親戚。よく見ている。どこか申し訳なさそうな玲愛に、蓮は安心させるように表情をやや和らげ、わかりましたと答えた。



 が休んでいるのは、青と白のビーチパラソルの下だ。藍色のサーフパンツタイプの水着から伸びる足や、灰色のパーカーから覗く身体つきは、お世辞にも男らしくがっしりしているとは言えなかった。背が高い分余計に、ひょろりとして見えてしまう。特別運動部というわけでもない蓮や司狼よりも筋肉がついていないかもしれない。そんな貧相な身体でも、やはり顔が良くて背丈があれば女性からお誘いがあるものらしい。
「すみません、その人、俺の連れなんですけど。何かありました?」
 の椅子の近くから離れようとしない女性二人にそう声をかけると、彼女たちは揃って蓮を見た。どちらも明るい髪色に、華やかな色のビキニを身に着けていた。年齢は蓮より少し上で、恐らく大学生くらいだろう。茶髪の女が、困ったような顔で、蓮に言う。
「この人、気分が悪そうだったから、救護室に連れて行ってあげようとしたんです」
「……いらないって、言った」
 うんざりしたような、それでいて少し生気の抜けた声で、女の主張に対しが抗議した。金に近い髪色の女も、片割れの女と似たような表情を湛えていた。
「でも、放っておけないし」
「放っておいてくれ」
「顔色悪いし。君もそう思うでしょ?」
「まあ……いや、でももう大丈夫ですよ。救護室なら、俺が連れて行きますから」
「一人で運ぶの大変じゃないですか?」
 なるほど、これは面倒臭い。逆ナンに来たら思ったより相手が体調不良だったから、救護室まで連れて行って恩を売ろうという魂胆かもしれない。手伝いますからと言いながらぐっと距離を詰めてきた女の一人に蓮が一歩引いた時、もう片方がの肩に手を伸ばすのが視界に入った。
「ほら、少しでも動けそうなら──」
「──おれに、触るな」
 大声だったわけでもなく、激しく彼女の手を振り払ったわけでもない。それでも、声には絶対的な拒絶、圧が含まれていた。どんなに鈍くとも、耳にすれば誰もがそれを瞬時に察知出来るほどに、わかりやすく。二人の顔が、一瞬で強張った。触れてはいけないものに触れてしまったかのような恐怖を、両の目に宿している。蓮が感じたのは、恐怖ではなく不安だった。彼に無機質さを覚えた時と、全く同じ感覚だ。もやもやとして曖昧で、明確な形にはならないけれど、それは確かに蓮の中に存在するもの。誰も何も言えずにいたら、不意に茶髪の女が、そっと蓮から距離を取った。
 それからは早かった。お友達が来たなら私たちはこれで、とつい先程までの強引さが嘘のように、彼女たちは去った。残された蓮はのすぐ隣に設置されたビーチチェアに浅く座って、彼の顔色の悪い横顔を眺める。不安はとっくに消えていた。
「体調、悪そうですね」
「平気」
「変な意地張るのやめませんか。平気ならもっと早く、ちゃんと断ればよかったでしょう」
「断った。と言うか、相手にしなかった」
「結構言わなきゃわかりませんよ、ああいう手合いって」
「言ったさ」
 普段のの振る舞いを考えれば、見知らぬ女性二人に押し負けるなんて有り得ない。察するに、強く断るだけの体力が残っていなかったのだろう。先のあれは、最後の力を振り絞ったというところか。右腕を額にのせながら、ぼそぼそとは言葉を継いだ。
「日本語、わからないふりもしたんだが」
「はあ」
「二人とも英語が堪能だった」
「それは災難でしたね」
 人は見かけによらない。
「そろそろきちんと追い返そうとしていたところに、きみが来た。しかしきみも、案外押しに弱いね、藤井」
「俺だってそろそろきちんと追い返そうとしてたところだったんで」
 タイミング的にが追い返した形になったというだけで。言い訳だ、と呟いた口の端が小さく上がって、戻る。言い返そうとしたが、すぐにそんな気は失せた。表情は相変わらず限りなく無に近いけれど、なんとなく弱々しく見えたからだ。日本人よりも白い肌は赤が混じるとわかりやすい。頬には僅かに朱色がさしている。
 つらそうですねと伝えたら、の空より薄い色をした瞳が、蓮を映した。
「煙草を、吸いに行ったら。多かったんだ、人が」
「そりゃそうでしょうね」
「影に入れなかった」
「命削って煙草吸ったのかよ」
 喫煙所で影には入れなかったが、そこで喫煙を諦めなかったということだろう。どうしたって日光に強い身体には見えず、つまり彼は。
「熱中症だろ。救護室行きますよ」
 太陽を遮るパラソルの下ではあれども、風はなく意外と涼しさはない。ただじっとりと、暑いだけだ。同じ気温でも、木に囲まれたバーベキュー場と下がアスファルトのプールサイドでは体感温度が変わってくる。ここは、熱中症に優しい場所ではなかった。
「大丈夫、そんな大げさなもんじゃない。動こうと思えば動けるが、必要ない。ここで寝てれば治る」
「わからないでしょ」
「わかるよ。自分の身体だ」
「意識ははっきりしてますね。吐き気はありますか?」
「信用ないね、おれって」
「あると思ってたんですか。図々しい」
 そもそも不健全な生活を送る、不健康な人間の自己診断ほど信用出来ないものはない。吐き気は、ともう一度問えばは黙ってかぶりを振った。本人の答えを信じないことにした蓮が、体温を測ろうと何気なくの頬の手を寄せれば、案の定その肌は熱を持っている。
「熱いですよ、顔」
「冷たいな、きみは」
 頬から離した蓮の手を、不意にの右手が掴む。やはりそちらも温かかった。再度蓮の手はの柔らかい頬の上を、の意思のまま滑る。ついさっきまで水に浸かっていた蓮の体温は彼のそれをずっと下回っているので、ひんやりとして快適なのだろう。
「きもちいい。触ってて。五分だけ」
「触るなと言ったり触ってくれと言ったり、忙しいですね」
「意地が悪いな、藤井」
「先生にだけは言われたくないんですけど」
 そうだな、と薄く笑うは、幾分か元気を取り戻して見える。ただやはり顔は上気したままで、緩く微笑みながら自分の手を頬に当てるを見下ろしていると、蓮はなんとなしに居た堪れなくなった。あーなんだろう、これは、と。決して変な気持ちになるわけではないけれど、何かがざわついて落ち着かない。
 価値のある美術品は、人の温度や脂で劣化しないようにと、通常触れることは出来ないものだ。あれにこっそり触れているような緊張感と、背徳感と、優越感。今の気分は、あれに近い。"おれに触るな"と、このは蓮を拒むことはないのだ。それが何だか、すごいことのように思えた──なんて思考は普通ではないと蓮が我に返るまでそう時間は要さず、その瞬間急速に羞恥が浮上した。蓮は衝動のままに、力強く手を引く。蓮を見上げる青い目が、まるくなる。
「あ、いや、すみません」
「いや、おれも。わるい。迷惑かけた。一度、ここは出る。適当な店で涼んでくるよ」
「違います、先生」
 拒んだわけじゃない、嫌だったわけじゃない。そう伝えたいが、それはそれで誤解を与えるような気もして、上手く言葉が出てこなかった。居心地が悪くなるのは、嫌なのに。
「遊び終わったら、連絡しろ。車運転出来るくらいには、回復しておく」
 は言い淀む蓮を意に介さない。緩慢な動きで、上半身を起こした。足元に置いていたペットボトルを飲み干して、空のそれを蓮の方へと放り投げてくる。蓮は思わず受け取ってしまった。
「置いて行かれた子供みたいな顔、するなよ」
「してません」
「そう。ならいい」
 存外しっかりと立ち上がると、「大丈夫だったろ」と言った。まだ信用出来ません、と返しながら、空気感が戻っていることに気付く。はこうやって、相手の本当に都合の悪いことには、黙って目を瞑る男だ。まるで出来た大人みたいに、気まずかった空間の色を一瞬で塗り替えて、なかったことにする。それを蓮が望んでいることを知っていたかのような振る舞いを、気を遣われたと察するのが遅れるほど自然に、するのだ。
 煙草の箱とライターを右手に持ったが、玲愛に、と何の脈絡もなく零した。
「飽きたから外出たって。言っといて」
「先輩、体調が悪いなら先に帰ってもいいって、言ってましたよ」
「悪くないから帰らない」
「……あの人はわかるんじゃないですか、そういうの」
「かもね。でも、よろしく。できるだろ」
 無責任だと思った。おまえなら上手く嘘を吐けるだろうと、彼はそんな適当な信頼を残してここを去ろうとしている。全く勘弁して欲しい。
「わかりました。でも次があったら、今度は一緒に行動して下さいよ」
 最終的に、今回の問題点はそこだろうと蓮は結論した。たまに体調管理してあげないといけないから、と冗談交じりに玲愛は言うが、あれは十割冗談でもない。身体の管理が、この人は本当に、下手だ。保護者だから子供の遊びに付き合わせるのも申し訳ないと放っておいたのが、今日の敗因だろう。だから。
「先輩も、その方が喜びますし」
 玲愛の名前を出して、ダメ押しもしておく。そこで、何故かはすんなりとは頷かなかった。なんやかんやで親戚には甘いあのが、「考えておく」の一言もすぐに出ないなんて。腕を組んで表情を少しだけ険しくした彼は、やがて十分な間を置いたのち、ごく真剣に告げた。
「錆びそう」
「生身の人間は錆びません」


(20170715)
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