君の愛は胃にもたれる
綿のような白を混ぜた青が広がる空は、いつか間近で見た誰かの瞳より薄い色をしていた。
終わりのない青を途切れ途切れに覆う白い塊の形はまばらで、所謂入道雲ではなさそうだ。つまり今日は一日雨に降られることはないのだろう。雲も人も車も等しく照り付ける太陽の存在を思うと、今日の天気は運が良いのか悪いのかよくわからなくなった。藤井蓮の上がらないテンションをよそに、幼馴染は言った。最高のバーベキュー日和じゃない、と。
「ほら着いたぞ、ガキども。降りろよ」
運転席から伸びた細い手がギアをニュートラルに入れ、サイドブレーキを引く仕草を、蓮はぼんやり眺めていた。この車に乗ってから道中ずっと、会話を普通にこなしながらも、運転席を見ている時間が大半だった気がする。運転手は学園の教師である・だ。彼が当たり前のように車のハンドルを握り、ギアを手慣れた様子で操作する姿がなんだか可笑しくて、ついつい見入っている間に目的地に到着していた。
「あー、ほんとに良い天気! お腹空いてきちゃうね!」
「天気が良いと腹減るのかよお前は」
「そこは察しなさいよ! 久しぶりのバーベキューなの、晴れて嬉しいの、楽しみ過ぎてお腹が空くものなの!」
「はいはい、そうだな良かったな」
「蓮、おまえ反応が年寄り臭えぞ」
「うるせえよ」
隣の幼馴染がはしゃぎながら外へ出ていく中、蓮は車から出るのが億劫だった。外は地獄のような暑さが待っていると決まっているからだ。キャンプ場の駐車場の半分以上を埋める車たちは、車体に目一杯太陽の陽射しを受けている。あれの持ち主が戻って来る頃には、中はサウナのような暑さだろう。考えたくもない。
助手席のドアを開いた氷室玲愛に、が運転席から黒い棒をずいと差し出した。よく見ると日傘だ。肌が白い彼女を気遣ってのものだろう。所々にレースが施された、どこかゴシックな雰囲気を滲ませるそれは玲愛が持つのに相応しいものであるように思えた。
「忘れるな」
「過保護」
「違う。喜ぶな」
表情の起伏が薄い者同士の会話は傍から見るとなかなか奇妙だ。こういうところを目にすると、二人に血の繋がりがあることに現実味を感じる。妙な感心しながら、玲愛が傘を受け取り出て行くのを見送っていたら、気が付くと今度は肩越しに振り返ったが蓮に呆れた眼差しを送っていた。
「藤井。悪足掻きするな。観念して車から出ろ」
いつの間にか車内に残っているのはと蓮だけだった。トランクを開いてバーベキュー用具と材料を取り出す幼馴染たちの賑やかな声を背に、蓮が浅く息を吐く。
「べつに悪足掻いてたつもりはないんですけどね」
「出たくないんだろう、外。わかるよ。がんばれ」
「他人事じゃないでしょう」
「そうでもない。おれは一旦帰る。後で迎えに来る」
「ずるいですよ、先生。逃げるんですか」
「逃げるよ」
暑いし、と続けた逃亡宣言はあっさりとしたものだ。陽射しの強さに文句を零しはしても、の涼し気な顔が暑さに歪むことはない。この夏、外で会っても彼が汗を掻いているところは一度も見かけたことがなかった。不健康そうな見た目をしているだけあって、代謝が悪いのかもしれない。夏の似合わない男だ。太陽も、バーベキューも、蝉も、彼と並べると尽く不釣り合いだろう。どちらかと言えば、何もかもが冷たく、生き物の気配がなく、音もない静かな冬の日の方が合っている。
蓮は煙草を取り出しかけたを「レンタカーですからね。禁煙だよ」と窘めながら、覚悟を決めて向かって右側のドアを開く。車外に繰り出せば、眩い光は予想通りの攻撃力を放っていた。思わず片手を顔の前に持ってきて、それを遮る。すぐ車に戻りたくなる衝動に駆られたが、素早く荷物を押し付けてきた遊佐司狼によって、それが実行されることはなかった。彼もまた、太陽はあまり似合っていない。
「なにぼさっとしてんだよ。肉が腐っちまうだろうが。手伝え、働け」
なんでこいつは意外とやる気なのか。暑さで思考力が鈍っているせいか、ぽいぽいと渡されるままに蓮は袋や器具を両手いっぱいに受け取ってしまった。
「おいちょっと待て。俺にこれだけ持たせといて、なんでお前は小さい袋二個なんだよ。働けよ」
「ぼけっとして持たされる方が悪いんだよ。嫌なら手伝ってもらえばいい。男手ならもう一人いるだろ、運転席に」
「最後の男手は参加拒否してるみたいだぞ」
「はぁ? ここまで来といて往生際が悪いね、あいつも。どうせ来ることになるんだから、大人しく従っときゃいいのに。時間の無駄だっつうのがわからんのかね。悪足掻きしてんのはどっちだって話だ」
ジュースの入った袋を片手に持ったまま、司狼が背中を伸ばす。その体勢で、背後でお菓子の袋を持つ玲愛に視線を寄越した。
「センパーイ、帰るって言ってる大人がいまーす。いいのかよ、保護者逃しても」
「えぇっ、先生帰っちゃうの?!」
香純が心から驚いたような声を出し、トランクから弾かれたように顔を上げた。玲愛が黙って運転席の扉の方へ回り込む後に、香純も続く。玲愛は腰を折って、窓をこんこんとノックした。自動窓がゆっくり下がり、表情のないが僅かに外へと顔を傾ける。先に引き止めにかかったのは、香純だった。
「先生、帰らないで一緒にバーベキューしましょうよ。お肉美味しいですよ」
「肉は好きじゃないんだ」
「野菜もたくさんありますから!」
「野菜も好きじゃない」
「お、お菓子食べます……?」
「家で食べる」
取り付く島もないとはこのことだ。生徒相手に素っ気なさを最大限に発揮するほど、バーベキューには参加したくないのか。蓮としては、貴重な休日の時間を割いて送り迎えをしてくれているだけでも本来は感謝し満足すべきで、これ以上付き合わせる必要もあまり感じていないのだが、彼の親戚はそうではないらしい。
「に好きな食べ物なんてないよ。嫌いな食べ物もないみたいだけどね」
玲愛の溜息はわざとらしく大きかった。眉間にやや皺を寄せて、諦めの悪い男を、軽く叱る親のような気配を纏って。
「話が違う。おれは送り迎えをしろとしか聞いてない」
「可愛い生徒が頼んでるんだから考える素振りくらい見せてもいいでしょ。キミは融通きかないよね、そういうところ」
「知ってるだろ」
「知ってるけど。じゃあ言い直すよ。ここで、一緒に、バーベキューしなさい」
「……玲愛」
「命令。命令だから、これ。ちゃんと聞いてね」
投げやりにそう告げて、玲愛は左手に持っていた日傘を閉じると後部座席側のドアに立てかける。香純の腕を取って、行こうと引っ張った。諦めたのかと誰もが結論した直後、天岩戸のように思えた運転席のドアのロックが解除される音がした。命令、には効果があったのか、文句一つ言わず驚くほど素直に彼は扉を開けている。どれだけ身内に甘いんだこの人。
「喫煙所はあったか、ここ」
「あったと思うよ。あっち」
やれやれと言いたげな態度で車から降りたが、立てかけられていた日傘を手に取った。金色の髪は日光を照り返して白っぽく見えた。Vネックのカットソーに青いショールカーディガンを羽織った彼の私服はスーツ姿と同様スマートで、白過ぎる肌と相俟ってどこか非健康的だ。開いた日傘を、少し前を歩き始める玲愛を太陽から守るように掲げて彼も歩く。彼女と香純の手から、さり気なくビニール袋を奪いながら。その動作すら、無駄がなくどことなく優雅なのだから嫌味な男だ。
「お嬢様と執事かよ、おまえら。そこだけ空間変わっちまうだろ。つうか、年下の女に命令、なんて言われてホイホイ従ってるとこ見ると、あんたって結構M?」
「どうかな。そうかも」
「引くわ」
「遊佐。これやる」
「うお、なんだよ」
すれ違いざまに押し付けられたものをつい受け取ってしまった司狼の姿に、蓮は既視感があった。数分前の自分だ。司狼は追加で持たされたビニール袋と、玲愛たちと先を歩くの後ろ姿を見比べて、口をややへの字に曲げている。
「……可愛い生徒に荷物持たせて自分は女子生徒と優雅にお散歩とは良いご身分だね、センセ。これが教師の鑑ってやつだ」
「持たされる方が悪い、なんだろ。きみが言った。がんばれよ。二人仲良くな」
「この性悪教師」
「声援ありがとう」
ひらひらと片手を振るには煽りも挑発も一切通用していないようだった。蓮も何か言ってやれよと煽り立てられるが、正直なところ蓮はこの流れにそこまでの不満がない。ここまでの送迎担当は他でもない、だ。こうして車を出してくれているのだから、それ以外は自分たちで分担するのが筋だろう。
「諦めろよ、司狼。今日の男手は二人だ。たぶん決定事項だよ」
「諦め良すぎんだよお前は」
と口では言うものの、司狼もその辺は察しているはずだ。彼が遠心力を利用して重たいビニール袋をぶつけようとしてくるのを避けつつ、蓮は先行く細い背中を見やる。黒い日傘すら案外似合ってしまうところが、むかつく。
*
誰が最初に言い出したのか。相手を選ばずバーベキューなんて提案をしてくる奴なんて考えるまでもなく、藤井蓮の身内には一人しかいない。現代的な明らかなインドア派と、健康的な課外活動の似合わない不良面という太陽と相性の良くなさそうな幼馴染たちを持つ香純は、彼らの性質をよく知っていて尚、容赦なく引っ張り連れ回す。なんだかんだと文句を言いながら、彼らも眩しい幼馴染に付き合うのを悪くないと思っている節があった。
この決まりきった面子に最近新しく加わった一人もこれまた外で走り回るよりも部屋で本を読んでいる姿の方がしっくりくるインドア派の少女で、それでもまた香純は性懲りもなく今日の場を作ったのだ。おまけ付きで。
「乾杯しよう!」
「何にだよ」
「オレたちの頑張りに?」
「私のバーベキューデビューに」
「あぁ、おれもデビューだ」
「じゃあ二人の初バーベキューにかんぱーい!」
乾杯の理由なんて結局何でもいいのだろう。備え付けのテントの下、蓮たち五人は互いにジュースの入った紙コップを軽くぶつけ合った。直射日光を受けないここは時折通る風のおかげで案外涼しい。夏バテで食欲が失せている未来を予期していたが、快適なテント下で手際よく準備を終えた頃には、しっかり空腹だった。荷物運びと機材準備は蓮と司狼、食材の準備は香純と玲愛の担当──だったのだが、玲愛は包丁を握るなとから言い付けられて理不尽そうな顔をしていた。この場合、甘いのはなのか、彼が煙草を吸いに消えても律儀に言い付けを守る玲愛なのか、判断が難しいところだ。
香純と司狼がトングで鉄板の上に肉を広げ始め、四人が鉄板の前を囲うように集まる一方、は早々に簡易椅子に腰掛け、つまらなそうにテーブルに頬杖をつきながら紙コップを傾けていた。年寄り臭い。香純が肉と野菜を盛った紙皿をテーブルに置いても、なかなか手を付けようとしなかった。本当に、食事に対する欲が無い人だ。
不意に、焼けた肉が乗った紙皿を手にの前に立った玲愛が、割り箸で肉を摘んで持ち上げた。各々肉や野菜を摘んでいた幼馴染三人が、何気なくそちらに視線を向けると。
「キミは本当に仕方のない人だね。 この不健康。こんな時くらいちゃんと食べなさい。口開けて。あーん」
「……ん」
何の躊躇いもなくが玲愛の「あーん」に従い、彼の口の中にやっと肉が届いた。その光景の異常さに、彼らは気付いていないらしく。無言で口を動かす彼に、玲愛が問う。
「どう?」
「肉だ」
「他に感想はないの?」
「ビーフだ」
「うん、他に言うことがあるよね。もっとこう、作ってくれた人に感謝して喜ばせる感じの」
「ごちそうさまでした」
「早いよ」
まだ玲愛に知り合う前、四人で鍋を囲んだ時に判明したことだが、恐らく彼は味音痴だ。音痴、と言うよりも、味覚が薄いと言うべきなのかもしれないが。──いや、今の問題はそこじゃない。
「もしかして日常茶飯事だったりするんですか、そういうの」
二人が同じタイミングで蓮を見た。何か考えるように宙を見つめて、が言う。
「玲愛。藤井もやって欲しいってさ」
「そんなの早く言ってくれたらよかったのに。キミになら何度だってやってあげるよ。ほら藤井君、口を開けなさい。あーん」
「いや、俺は大丈夫ですよ。そこの先生と違って食事する習慣がちゃんとあるんで」
「遠慮しなくていいよ。美味しいから」
「してませんよ。知ってますから」
ずいずいと皿と箸を持ったまま蓮に迫る玲愛に、我に返った香純が「玲愛先輩ストーーップ!」と待ったをかけていた。ほらみろ面倒な展開になってきたと、蓮が眉を下げる。場所が変わっても彼らは変わらず、騒がしい。のんびりと足を組み替えるが目だけで柔らかく笑っているのを、蓮は少女二人をかわしながら、横目に確認した。
「ガキはどこでも元気だね」
「あんたはどこでも枯れてんな。肉食わねえのならくれ」
「やるよ、ほら。口開けろ」
「……あんたらそれもしかして血なの? もらうけど」
腰を折って姿勢を低くする司狼の口に肉を放り込むの箸さばきは日本人と比べても遜色ないものだ。なにやってんだあいつら、とつっこみたいが今は目の前の二人の相手で手一杯である。
後退しつつテントから少しはみ出したタイミングでふと上方に顔を背けたら、ダイレクトに飛び込んできた光の刺激に、反射的に目を細めた。目が慣れると、やがて視界を埋めるのは白と青だけになる。の瞳の色より少し薄い空。あの日は、彼の瞳に空を見たのだ。もっとずっと近くで。
「────」
煙草の匂いが立ち込める部屋が頭に過ぎり、なんとなしに一人気まずくなった。瞬間──唇を割って肉が強引に口内に突っ込んできて盛大に噎せた。最悪だ。
「れーーん! 野菜も、食べなきゃ、だめ、でしょ!」
「いいから、ちょっと、落ち着けよ、お前は!」
ピーマンを箸で掴んだ手が襲いかかるのを、蓮は左手で阻止していた。更にその手をなんとかしようともう片方の手も襲ってくるので、最終的には取っ組み合いのような格好で、後は純粋な力押しの攻防戦だ。結局男の蓮が香純に本気で押し負けることはないのだが。
玲愛は既に満足したのか、自分の鉄板の方に戻って新しい肉を焼き育てていた。
「モテるねえ、蓮ちゃんは」
「まったく自慢の生徒だよ」
好き勝手言いやがって後で覚えてろよお前ら。友人と教師相手に今一番伝えたいことを口にする余裕はなく、満足したはずの玲愛が焼きたての肉を皿に積んで戻って来た時に、蓮は色々諦めた。なんて楽しいバーベキューなんだ。