有効な言葉に縋る

 氷室玲愛の自慢の親戚は、子供の頃から絵に描いたようにモテた。は口も愛想も悪いが見てくれは抜群に良い男だ。そして表情の起伏の無さも含め一見近寄りがたい冷たさを持ちながら、人を引き寄せやすい性分でもあった。存外相手をよく見ていて、要は線引きが上手い。本気で拒まれたと悟られないように、不快さを抱かせないように、悪意や執着が己に向かないように、彼は相手に合わせて絶妙な距離を取る。幼少時からずっと、彼のそういう立ち振る舞いを少し後ろで眺めていた。彼と彼に好意を持つ誰かを何度も目にする機会が偶々多かったから、彼女は客観的に察することが出来た。当事者は、と向かい合う女はそれに気付かない。いつしか、時折疑問に思う。自分は、どうなのだろう。第三者から見た自分は、自分と言葉を交わすは──どう映るのだろうか。赤の他人のような線引きをされているように、見えやしないだろうか、と。
「なんか職員室のあんたの席ににでっけえダンボールが設置されてんだけど」
「そりゃバレンタインだからな」
「ああそうか……ってならねえよ、おい。説明サボんな」
「あれね、先生へチョコを贈りたい人が持ってきたチョコを入れるためのものなんだって。部活の先輩が言ってたよ」
「……はあ?」
 遊佐司狼が盛大に口をへの字に曲げた。無表情で缶コーヒーを傾けるの隣で、棚に腰を下ろす彼は、続けて自身の顎を長い指で触りながら、生意気そうな瞳を興味深そうに瞬かせた。
「うっそだろ、どうすりゃダンボール引っ張ってくる案件になんの? あんた教師のくせにどれだけモテたら気が済むんだよ。正味な話、三回くらい手ぇ出してんだろ?」
「出すか」
「こら司狼、不健全且つ失礼な話題禁止!」
「いてえよ」
 ぽか、と司狼の頭頂を何の躊躇いもなくはたいて見せた綾瀬香純は、両手を腰にやると、心底呆れたように息をつく。強気な立ち姿のままに向き直った彼女は少しだけ申し訳無そうに眉を下げた。香純は玲愛の知る限り、いつも幼馴染二人の保護者であるかのような心構えでいるらしい。彼らの──主に司狼の犯した失礼を、彼女は自分ごとのように謝る。
「すみません先生、司狼にはいつでも教育的指導食らわせていいですからね!」
「……まあ気が向いたらな」
「やる気ねえじゃん」
「気が向いたら、下げるよ。評定」
「自分の成績はあんたの気分次第って現実がオレは時々嫌になるね」
 どう謝ったところで、そもそもその失礼自体がの心に響いていないので、謝罪もなにもないのだが。見ていて愉快な構図ではあるので玲愛はあえて口には出さない。
「バレンタインなのに朝から先生にチョコを渡したがる奴がいないってのは、そういうからくりだったんですね。意外とモテないのかと思ってたけど」
「去年が大変だったんだよ。派手にモテてね、色々と問題が発生したから、ルールが出来たの。つまり手渡し禁止。抜け駆けは死刑を意味する」
「重いっすね」
「愛は重たいものだからね」
 なんですかそれと苦笑した藤井蓮が別の教室から旧資料室に持ち込んだ椅子の背もたれにより掛かるのを、玲愛はぼんやりと見ていた。キミや遊佐君にチョコを渡したい人だって本当はたくさんいるだろうに──なんて、それこそ絶対に口にすることはない。元々学園内ではアウトロー寄りで近寄り難い扱いを受けている二人だ。顔が良いから密かに人気があるのだけれど(特に二人セットで)実際にバレンタインという行事にかこつけてチョコレートを渡すに至るまでの行動力がある女子がいるかというと、これがなかなかいないのだった。綾瀬香純という二人の幼馴染の存在も、大きい。内々ではコロポックルの扱いであったとしても、遠巻きに見れば両手に花同然だ。そこに今は玲愛も加わって、益々近寄り難くなったことだろう。己がそこに加わったという結果は、今でも偶に不思議になるし、妙な違和感を覚えるけれど。
 ふと、の背後にあるガラス越しに、しとしとと止む気配のない雨空を見据える。そう、自分は彼らの輪の中に入り込んでいるのだと、一年近く前の自分はそこにいる兄代わりの男と二人だけでこの旧資料室からこの景色を見ていたのだと思い出して。雨の日の昼休みは屋上に居られないから旧資料室に避難する──それが今では、一人ではないのだと改めて。
「じゃあ、あたしのチョコもダンボールに入れておいた方がいいですね。後で置いてきます」
「綾瀬さんって律儀だよね」
「先生にはいつもお世話になってますから。あ、玲愛さんの分もありますよ。あんたたちはアパート帰ってからね」
「やっと今日で連日部屋に侵入してくるチョコ臭から解放されんのか。長かったなあ、蓮」
「おまえの部屋までは臭い行ってないだろう」
「甘ったるい臭いがする中で飯食うってなかなか試されてたよな」
「俺の部屋じゃなくて自分の部屋で食えよ」
「あんたたちちょっとくらい有難がりなさいよーー!」
 幼馴染が怒りに喚くも恩知らずな男二人ははいはいと慣れた様子で受け流していた。両手に花、という雰囲気ではない。
「ちなみに先生、ダンボールに入ったチョコは、きちんと誰からのものか確認して食べるんですよね?」
 そういえば、といった風に投げられた香純の疑問に、答えたのは玲愛だ。
「もちろん。美味しく頂くわよ。私が」
「……玲愛さんが?」
「リザもな。助かってるよ。きみらも食べるか」
 は食べること自体が好きではなく、少食だ。彼にダンボール一箱分のチョコレートの処理なんてあまりにも酷だし、彼の学生時代から持って帰ってくるチョコの処理係は玲愛とリザと決まっている。昔日からの恒例行事で、そこに誰も大した罪悪感を差し挟むことはなかったが、蓮はまた別のことを思ったらしい。困ったような、むっとしたような複雑な感情の混ざり方をした表情で、彼はを見上げた。
「あんた宛のチョコなんか頼まれてもいりませんよ。一応生徒があんたのためを思って持ってきたチョコだろう。まあべつにそれをどうしようが俺の口出すことじゃないんでいいんですけど……、同じアパートの住人のチョコくらいは、ちゃんと受け取ってやってくれませんか。生徒じゃなくて、近所付き合いとして」
「蓮……」
 こういうところは、やはり幼馴染ということなのだろう。雑に接していても、彼は彼なりにきちんと友人を愛しているし、傷付かないように配慮する。その"幼馴染のかたち"に、少しだけ憧れがあった。
「ほら、余った分オレらが食うことになるんだし? 人助けだと思ってくれていいぜ」
「司狼ォーー!」
 こちらは何だかよくわからないが。アパートのポストに入れておいて、とは香純に指示していた。蓮の言い分を受け入れる辺り、彼も幾分かまるくなったように思う。そのことに何だか寂しさが過ぎった原因は、どうしようもないわがままが元だと知っている。普段の彼と他人との距離感と比べて、彼らと接する時のそれは僅かに近い。己ととの距離、他者ととの距離。そこを比べる意味などないのに。堂々としていればいい、はずなのに。
 予冷が鳴ったのを合図に、旧資料室から各々教室への移動を開始した。は次の授業がないようで、あと一時間はここで煙草を吸いながらサボるのだろう。
「玲愛」
 廊下に片足を踏み出した瞬間に、何気なく呼び止められた。振り返れば、煙草を片手にしたの瞳が、真っ直ぐ玲愛だけを映していた。再び胸に去来したのは、期待だ。こういう期待を彼が裏切らないことは、彼女の経験が告げていた。
「今日、教会に帰るから。今年は、食べられるやつであることを、祈るよ」
「……去年も一昨年も、食べられたでしょ」
「口に入れて咀嚼することは出来た」
「じゃあ今年もがんばって」
 そう言い残して、緩む口元を隠すように廊下へと出た。はきっと知り尽くしているに違いない、どういう言葉をかければこの親戚が喜ぶのかを。それはどういう距離感でされているのか、当事者である玲愛には正確に知る術がない。ただ少しだけ誰よりも贔屓されていると、体感で察するしかないのだ。
 愛すべき後輩たちは玲愛の足が止まっていたのを察知していたようで、わざわざ廊下で立ち止まって彼女が出てくるのを待ってくれていた。おまたせ、と口にしながら見つめ返した三人の視線はどことなく生暖かく、腑に落ちないものを感じる。
「……どうしたの?」
「やっぱり、玲愛さんは特別なんですね」
「あいつも一応人の子やってんだなって、先輩と話してるとこ見ると思うよな」
 赤の他人と同じような線引きをされているのかもしれないと、時折疑っていた。仲の良さそうな兄妹。彼に誰よりも近い他人。そんなものは自分だけの思い込みなんじゃないかと、その類の不安が顔を覗かせては、引っ込んでいくのを何度も見た。
「氷室先輩と先生は家族なんだから、そりゃそうだろう。俺たちへの雑な扱いとは違うよ。ある意味健全だろ」
 ああ、けれども。他でもない、彼らにそう言ってもらえるのなら。彼らの言葉は、玲愛にとって確かな重みを持っているから──自分で自分に言い聞かせるよりもずっと、信じられる。の言葉で積み上がった期待が、三人の、第三者の言葉で錯覚ではないと確認する作業。それは恐らく、健全とは言い難いものだろうが、今の玲愛には必要だったのだ。
「──ありがとう」
 礼を告げて頬を緩めたら、三人をきょとんとさせてしまった。授業を理由に彼らを急かす間も、機嫌が良いのを隠せそうになかったし、今更隠す気もなかった。
「私も後で三人にチョコ渡しに行くから。教室で待ってなさい」
 早くつまらない授業が終わって、放課後になりますように。


(20180214)
→back