懺悔が祈りに変わる頃
遠縁で、兄代わりであった青年が、大学進学を理由にこの教会を出て行った日のことを、氷室玲愛は未だに忘れられない。春の訪れが目の前に迫った頃だ。普段の外出時と変わらない軽装で、手荷物などほとんどなく、「いってくる」と玲愛に挨拶をする声音にも何ら特別な感情は込められておらず。いつも通り夕方にはひょっこり帰って来るのではないかと、甘い幻想すら抱いていた。
──いつ帰って来るの?
──さあ
──帰って来ないの?
──わからない
──帰って来るって言ってよ。言うまで、離さないから
兄の手を小さな両手で掴んで、懇願するように見上げる。嘘でもいいから帰って来ると言えば良いものを、彼──・は、適当な嘘を吐くこともなれけば、玲愛の手を振り払うこともなかった。ただぼんやりと彼女を見下ろして、見慣れた曖昧な笑みを、浮かべて。玲愛の銀髪にそっと触れながら、は抑揚のない声で、言った。
──帰って来るかは、わからない。でも、また来るから。必ず。
真実だけを告げる音だった。また会えるなら、それでいい。信じたから、玲愛は、あの時の手を離したのだ。
*
幼い頃に買ってもらった勉強机は、今も現役だ。それは物をたくさん置く方ではない玲愛の私室に長年住まう、少ない家具の一つだった。机の隅には学生らしく教科書や参考書を並べているが、普段彼女がこの部屋で自ら進んでそれらを手に取ることはあまりない。これが活躍するのは、"家庭教師"が来た時くらいだ。隣の椅子に座る彼を見やって、玲愛は腕を伸ばしがながら、提案をする。
「休憩にしよう、」
「四回目の?」
「四回目の」
「やる気は」
「あるよ。あと一時間したら。わいてくると思う。たぶん」
「解散」
勉強開始から、二時間、四回目の休憩だった。玲愛がテスト勉強にかこつけて家庭教師ことを家に呼んだのは、寒さの深まり始めた11月のことだ。こういった方法でを家に呼ぶのは今に始まったことではなく、テストの度に同じ方法で彼を教会に引っ張ってきている。
教会を出て大学に進学したは、今や立派な教師として、現在玲愛が通う月乃澤学園の英語講師として働いていた。教会を去る前に彼が玲愛に言った「また会える」は決して嘘ではなく、あの言葉はこうして果たされていると言ってもいい。しかし。彼はこの街の学園に勤めこの街に住みながら、教会に帰って来ることはなかった。
「待って。冗談」
徐に椅子から腰を上げ、今にも部屋から出て行きそうなのワイシャツを、そっと掴んで引き止めた。こちらを見下ろす青い目は、彼の機嫌を映さない。ただただどこまでもニュートラル。本気で彼が玲愛に怒りを覚えることも、見捨てることもきっとない。これまでがそうだったのだからこれからも、ない、はずだ。わかっていても、このまま、自分の前から消えてしまうんじゃないかと、そんな不安があって──
「休憩、なんだろ」
「……うん」
「コーヒー飲みたいな」
その類の不安を拭い去るのが、は非常に上手だった。玲愛の頭に置かれる細く大きい手は、いつも冷たいのに、暖かいような錯覚がある。
*
玲愛がキッチンでコーヒーと紅茶を淹れて部屋に戻ってくると、は先程まで彼女に教えていた数学の教科書に目を通していた。机にマグカップが置かれたことに気付いたはちらりとそちらを見やって、「おかえり」と呟く。いつだって愛想のない兄だ。そんな何気ない彼の言動が、いちいち玲愛をノスタルジックな気分にさせた。
本来の彼の担当は英語だ。しかし、映画の字幕を邪魔だと言い切れてしまう程度に、玲愛は英語が得意である。つまり英語の家庭教師は必要ない。ではが不必要かと言えばそうではなく、彼は国語以外の教科であれば英語の授業と同じくらいのわかりやすさで、人に教えることが出来た。まあ結局のところ、彼が他の教科を教えられようが教えられまいが、玲愛がこれを理由に彼を呼び付けることに変わりはないのだが。
も、勉強が玲愛の本来の目的ではないとわかりきっていて、彼女に言われるまま教会を訪れる。その様子を見た周囲は、は玲愛に甘いと言う。そういう科白を耳にする度、そういうことではないのだと、彼女は心中だけで否定してきた。その他大勢よりもほんの僅か、贔屓にされているのは確かだ。自惚れでもなく、確信がある。そこに誇らしさもある。
でもそれは皆が思っているほどいいものではないし、胸を張れるほどのものでもない。ただ人よりも少しだけ、譲歩してもらえる範囲が広いだけ。
そしてそこに甘えている自覚が、玲愛にはあった。彼女は、まだ彼の妹でいたかった。目を閉じて、耳を塞いで──見たくないものに背を向けて尚、変わらずにいてくれる人。その存在に安心を見出し、日常を感じて、縋っているのかもしれない。本当は、良くないことなのかもしれず、それでいてすぐには止められそうになく。椅子に座り直しながら、努めて冷静に口を開いた。
「今日、泊まっていくよね」
「あぁ、そうだな」
「一週間くらい泊まっていってもいいよ」
「いかない。明日には、帰る」
返答は無慈悲なくらいにあっさりしていた。教科書に目を落としたまま、その話題に対して一切の興味も無さそうに。彼は玲愛に優しさのようなものを向けるけれど、その優しさは決して際限のないものではなかった。マグカップに口を付けるの横顔を、真剣な顔つきで見つめて、詮無い問いかけをする。
「戻ってこないの、」
「どこに」
「ここに」
「どうして」
「……言わせるの?」
「言わなくていい」
教科書から顔を上げて玲愛からの視線にやっと応えたは、やはり何を考えているのか不透明だ。揺るがない瞳。玲愛がわがままを言ったくらいでは、恐らくその色を変えることはできないのだろう。
「教会には、戻らない。戻る理由がない」
「戻らない理由は、あるのね」
「あるよ」
「……そう」
私では戻る理由にならないの、と続けて問いたかったのを、寸前で押し留めた。の引いた一線は、とても頑なだ。玲愛の要求の大半を、面倒そうな顔で飲み込むのに、その一線だけは越えさせない。否とはっきり言えば、否だ。そこに有無を言わせないのが彼という男だった。玲愛の優先順位は低くないが、一番でもない。そしてそれを、は隠そうともしなかった。そこに落胆は存在するのに、幻滅するのは難しそうだ。何故なら、これが・だから。
「悪いな」
ごく自然に頬に触れた男の手を、玲愛は拒まなかった。ひんやりとした、眼差しと同じ温度の手。整った顔に浮かべられた透明な微笑を、彼女は軽く睨む。
「機嫌取るの下手だよね、って」
「おまえの機嫌を取るのは、昔から難しいんだ」
「生憎キミが引っ掛けるような安い女とは違うの」
「それも、そうだ」
が女を引っ掛けるところを玲愛は見たことがないが。それを否定しない彼も大概だろう。
頬を包んでいた右手をそっと離しながら、玲愛の美しい髪に細い指を絡めて、ゆっくりと梳いていく。ドラマで見た恋人にするような仕草だったが、そこにいやらしさは全く見当たらなかった。という"家族"との触れ合い方は、長らくこういうものだ。この距離感に慣れきって、受け入れてしまっている玲愛は、今更彼を男性として見ることはない。どうしたって、何年会えなくたって、玲愛にとってはずっとたったひとりの兄だ。髪を手放しかけた手に、自分の手を重ねて掴めば、はやや目を見張った。
「これ、離さなければよかったのかなって、今でもたまに思うよ」
「なんの話」
「ずっと昔の話」
「覚えてない」
「知ってる。いいの。私が覚えてるから」
が薄情なのは重々承知している。そういう人だ。思い出そうと努力する素振りもないのは何だか悔しいので、手の甲をつねっておいた。
本当は彼がもうここで暮らす日は来ないのだと薄々勘付いているし、半ば諦めもついていた。は教会にも玲愛にも未練がなく、優先すべきは別にある。それでも、もしあの時手を離さなければ、と思わずにはいられない瞬間があるのだ。
──未練があるのは、私だね。
「休憩、終わろうか」
「おまえが、それでいいのなら」
白い指が、玲愛の手をすり抜けていく。あの日々は戻らない。認めたら、どうしようもない寂しさがこみ上げた。自分に出来ることは、この先も理由を付けてをここへ連れて来ることだけだ。また会えるならと、拙い妥協をして。