少女と青年の夢

 蓮は、美しい少女の成り立ちを夢に見た。生まれた時から"普通"という枠組みから外れていた少女の過去の夢。名を、マルグリットという。
 生まれは斬首刑の執行を心待ちにする者が集う、とある港町の広場。その首には残痕。桜色の唇から紡がれるは血のリフレイン。極めつけに、柔らかく愛らしい少女の身には、誰もが恐れるような呪いが宿っていた。彼女に触れた者は、首から上が飛ぶ。街中の人間の恐怖や憎悪、ありとあらゆる悪感情を一身に集める理由としては、それだけで十分であっただろう。人の理解を越えた存在が、受け入れられる道理はない。
 母親は狂死し、父親はギロチンにかけられた。両親も住む家すらも失って、野良猫のような明日もわからぬ生活を続けてもマルグリットの美しさは色褪せず。その見目に惑わされ近付いた者の首は、例外なく刎ねられた。ただ一人。たった一人、彼女の"呪い"を目当てに近付いた少年を除いて。
 ある日を境に、薄汚れた服を身に纏う少女と、育ちの良さそうな身なりをした少年が、路地裏で短い時間を共有するようになった。血のリフレインを口ずさむマルグリットの隣で、彼女より少しばかり年齢を重ねた少年は、黙ってそれに耳を傾ける。彼女が口を閉ざすと、彼は何事かを独り言のように喋り始めて、それを今度は少女が黙って聴いた。感情が壊れて使い物にならないマルグリットが、彼の言葉の一割も理解をすることはなかったし、共感なんてもっとあり得なかったが。そうしてまた少年が黙ると、少女が歌う。そんな無為な逢瀬を、何年も続けた。少年が青年と呼ばれる歳になる頃まで。マルグリットが捕らえられ、処刑場へと連れて行かれるまで──青年が、彼女の前に死刑執行人として姿を現すまで。怒りも悲しみも、やはり彼女が感じることはなく。自身の首が飛ぶ未来も、それを行うのが顔見知りの青年であることも、マルグリットの感情を動かすには至らなかった。正にも負にも振れない彼女の中身はこの瞬間も、ただただ無垢なまま。青年がどんな顔をしていたかなんて、意識の端にもない。
 この日最後となる断頭台の賛美歌を、少女は青年の隣で歌った。視界を、一面の夕焼けに染めながら。

──わたしは、ずっとここにいるのね。



 どういうわけか。自室で目を覚ますと、先程まで夢に見ていた少女が──隣で寝ていた。
「おはようございます、レン」
「…………」
「いい天気ですね」
 ふにゃりと笑ったマリィことマルグリットは、あまりにも可愛く、発育はかなり良かった。
 形成を覚えたゆえに行うことが出来た魂の具現化、というのが蓮の推測ではあったが、それがどこまで正しいのかは知る由もない。そもそも静かに状況を整理する時間を、幼馴染が与えてくれなかったのだ。マリィが生まれたままの姿で蓮のベッドに潜り込んでいた場面を運悪く香純にばっちり押さえられてしまった結果。ほぼ抱き合っていたような格好だったせいもあり、激怒した彼女に大した言い訳も思い浮かばないまま力づくで土下座させられることとなったのは、ほんの数十分前のことである。そして。
 最悪の誤解は免れたものの、身元不明の少女が迷い込んで来たという雑なシナリオは、お人好しな幼馴染のお節介が発動する良いきっかけとなってしまったと言えた。気がつくと、マリィの身元調査と名の付いた半分諏訪原市観光ツアーが決行されることになっていたのだ。不透明なマリィの事情を案じ、警察に引き渡してお終いなんて人情がない、と言い切る彼女は知っていたがあまりにもお人好しが過ぎる。この出会ってから大した時間も経っていない身元不明の少女にどこまで入れ込んでいるんだろうか。以前、香純を指して「壺を買わされそう」と評した男の言葉に改めてそっと同意した。
「あれ、先生じゃないですかー! こんにちは!」
 その件の男に、アパートの階下で鉢合わせたのは、一体何の偶然だったのか。階段を下り切ったところで、丁度が外から戻って来たのだ。休日にも関わらずいつものスーツを着用し、鞄は無いが代わりに片手には煙草が収まっている。今正に吸おうとしていたのだろう。香純の不必要に元気な挨拶に、俯きかけていた顔を上げたは口に煙草を銜えていた。ああきみらか、といつも通り素っ気なく返した彼のスカイブルーの瞳が、香純と蓮を順に見やって、何気なく蓮の隣を捉える。まあそりゃそうだよなあ、と思いつつ、つい苦笑いが零れた。アパートを出てこうもあっさりと近い知人に会う可能性はあまり想定していなかったので、どう言い訳をしたものかわからない。香純にしたそれと同じで、彼は納得するのだろうか。も一応教師という立場だ。こんなどこの誰とも知れない少女を部屋に連れ込んでいると判明したら、真っ当に注意もしてくるかもしれない。──否、問題は起こすなよ、くらいで終わる気もする。一旦誤魔化してみるか、と香純とアイコンタクトをするなどして。
「いや偶然ですね、先生。実はこの子なんですが、その、ちょっと事情がありまして……」
「…………」
「先生?」
 蓮の適当な言い訳を、は一切耳に入れていないようだった。火も着けていない煙草が口からアスファルトへと落下しても、彼は意に介さない。そんなものはどうでもいいと言わんばかりに、の視線は縫い付けられたようにマリィにのみ向けられたまま、少しもぶれる気配がなく。珍しく、僅かに目を見開いて、表情の起伏の薄い彼にしては、やけにはっきりと驚きを示していたのだ。
「……先生、もしかしてマリィちゃんに見惚れちゃったりしてます? はっ、これってもしかして、一目惚れってやつでは……っ?! なんたる……!」
「この人、センセイっていうの?」
 マリィもまたから目を逸らす気などないように、香純にそう問う間もぱちりとした大きな目がが別のものを映すことはなかった。声音は室内に居た時と変わらない温度だ。一歩、二歩、三歩。靴音を鳴らし、不意に彼女の方から立ち尽くすへと歩み寄る。ほぼ同時に一歩、が足を後ろに引いた。
 香純の言うような一目惚れ、なんて甘ったるさは、残念ながら全く感じられなかった。二人の間にあるのは、ぴんと張り詰めた糸のような、緊張感。目をまるくして、不思議なものを見るような面持ちのマリィからはそういった類のものが読み取れないけれど、の方はもっと剣呑な色を帯びているように見えた。彼はやはり感情がわかりやすく顔に出ることはないが、だからこそ、少しの変化がやけに目につく。長く一緒に過ごせば、余計にそうだろう。
 当初は茶化すような軽さがあった香純だが、そのどこか不穏な空気に、彼女の表情には薄い不安が窺えた。
「センセイ」
 名と勘違いした名称を穏やかに口にしながら、片腕を伸ばしたのは、マリィだ。白い手は彼の頬を目指すような角度で、止まらない。どきりと、蓮の心臓が鳴る。彼の見た夢の中では、彼女に触れた者は皆──
「──おれに、触るな」
 ぱちんと乾いた音を立ててマリィの手を払い落としたの首は、胴体と切り離されることはなかった。それに安堵したのも束の間。の様子がおかしいのは、最早明白だろう。マリィはきょとんとしながら首を傾けていて、目の前の男に拒まれたのだときちんと認識出来ているのかも怪しい。
 彼は普段から淡白な態度を取る男であるし、それは誰に対してもそうだと蓮は知っているが、今日のこれは普段通りと言えたものではない。あまりにも、余裕が無さ過ぎる。こんな一見害の無さそうな少女相手に切羽詰まったような、不快感を露わにしたような彼を見たのは、初めてかもしれなかった。他人に触れられることを好まない節は確かにこれまでも何度か見て取れた。自分から触れることは平気でも、相手から触れられることを嫌う人種というのは一定数いるらしい。随分勝手な話だと、蓮は思うが。
「ええと、すみません、先生。この子は外国人なんで……ていうか、よく考えたらあんたも外国人でしょう。ボディタッチくらい多めに見てやってくださいよ」
「……ああ、そうだな。悪い」
 ただし今回の様子が一変したのは、マリィを視界に入れたその直後から、だ。本当に一目惚れだとかそんなものなら、どんなに良かったか。あんたそんな顔してロリコンかよ、といじってやることも出来たのに。生憎これはそんなものじゃないと、わかってしまうから。感じ取ったのはもっとずっと物々しい、殺伐とした、何か。急激に、言い知れぬ不安が引き摺り出された。マリィという異質な存在が、人に良からぬ影響を与えることがあるのだろうか。香純には異常が無いようだが、相性というものがあるのかもしれず。もし、そうではないと言うのなら──それを深く追及することは、何だか恐ろしいことのように思えた。開けてはいけない箱に手をかけたような、際限の無い胸騒ぎと、緊迫感。この二人を、このまま一緒にしては取り返しのつかないことになるなんて、そんな何の根拠もない漠然とした予感に付きまとわれて、落ち着かない。心臓を鷲掴みにされたみたいな。
「なに」
 不機嫌そうな声にはっとし、蓮は一度思考を止め、状況を確認する。いつの間にか、懲りないマリィが、のジャケットの裾を掴んでは軽く引っ張っていた。何故そうなった。不愉快そうではあれども今度は振り払うことなく、はされるがままだ。マリィは外を指差しては、可愛げのある微笑みを湛えて、口を開いた。
「センセイも、一緒に行こう?」
「……は?」
「ま、マリィちゃん……?」
 間の抜けたようなにも、はらはらはらしたような香純の呼びかけにも反応せず、マリィは楽しげに蓮を振り返っては、どことなく何かを訴えかけるように目を合わせた。まさか、と思ったのが目だけで伝わったのかどうかは知れないが、彼女はうんと一度頷く。いやうんじゃなくて。つれない返しをしてきた男を一緒に連れて行こうとするその思考回路が、蓮には全く読めない。
 マリィが再びを上目遣いに見上げて、細い指がついと裾を引いた。ダメ? と問うような視線。の眉間に皺が増える。
「先生はほら、これからお仕事があるんだよ、マリィちゃん。今日はあたしたちと一緒に行くのは、難しいんじゃないかなー……なんて」
 空気を読んだ香純が、助け舟を出してきた。にとっても蓮にとっても、助け舟に違いない。香純の後を引き受けるように、蓮が続ける。
「マリィ、先生はこれで結構人見知りだし、悪気はないけど愛想もない。ぶっちゃけ慣れるまでは結構感じ悪いと思うから、一緒に出かけるのは慣れてからにしよう」
「……言うね、藤井も」
 二人一緒にを連れて行けない理由を並べ立て、当の本人の様子を窺うように彼を見た。先程よりも幾分か余裕の戻ったような空気を纏い、けれどもどこか煩わしそうな険しさを端正な容貌に落としたままの彼は、蓮と香純を一瞥し、再度マリィを見下ろして。複雑そうな感情の入り混じった瞳が、細まる。
「わかった。付き合って、やる」
「そう、わかった……え?」
 聞き流しそうになったが、彼は今とても重要なことを言ったような気がする。花が開くように、マリィの笑顔が深まった。その反応が答えのようなものだろう。が、彼女の要求を承諾したことを事実として飲み込むまで少しの時間を要した。たった数分で判明した彼らの相性の悪さと、拒まれてもめげないマリィと、嫌そうにしながらもマリィの言うことを聞くの心理と。正直理解が追いつかない。
「待ってろ。着替えてくるから」
 蓮と香純を横切り、階段を上がって着替えのために自室へ戻っていくを、香純と二人して茫然として見送った。
「……嘘だろ?」
 なぜ、が頭の中でぐるぐると回っている。機嫌が良さそうににこにこしているマリィに「よかったな」と言ってやったものの、蓮としては望まない展開だ。二人が一緒に行動するというこれからに、胸の奥で燻る不安がまだ消えてくれない。


(20171112)
→back