嘘だけで形作った
「すまん香純、黙ってて悪かった。じ、実は俺、櫻井と付き合ってるんだよ」
さすがに強引が過ぎたかと、蓮は少し反省した。全ては、日常を構成する人たちを守るためなのだが。
まず非日常に足を踏み入れてしまった自分の傍に彼らを置くことで、この異常に巻き込んではいけないと蓮は思ったから、彼らと距離を取ることにした。
加えて、腕の中、皮膚の下に確かに存在するギロチンの刃と、恐らくそれと連動して起こる首が疼くような不快感。更にじわじわと大きくなっていく暴力衝動は、親しい者であろうとなかろうと、等しくその首を切り落とす機会を狙っているのだとわかるから。だから、そのコントロールの難解な衝動を抑え込み、誰も傷付けないためには、人を避けるしかなかったのだ。綾瀬香純や氷室玲愛、・と露骨に顔を合わせないようにしていた理由は、大きくその二つ。本当は姿を消せたらベストなのだけれど、学校にはまだ櫻井螢やルサルカがいる。完全に目を離すのは、さすがに怖い。
そして避け方が露骨過ぎて、香純や玲愛に不審がられるまでに、そう時間はかからなかった。玲愛はまだいい。あくまでマイペースを貫く彼女は、蓮たち友人を含め、必要以上に他人に干渉することがない。はそもそも、雑用を押し付けるために人を呼び出すことはあっても、玲愛以上に他人に関心がなく、もちろん干渉もしないタイプだ。蓮が避けていることに気付いているのかすら、怪しい。けれど、香純は。彼女だけは、真逆だ。ずっと一緒にいたからそういう変化に敏感で、彼女の性格上、放っておくことは出来ないだろう。どこかで一度理由でっち上げて納得させなければならない、と。そう考えていたところで。存外早く、そのタイミングがやって来た。
──言ってくれなきゃわかんないよ! あたし、蓮に避けられるようなことなにかした?!
帰り道、校門の前でついに香純に捕まった蓮は、そう問い詰められた。返答に窮す蓮を助けたのは、通りかかった螢とルサルカの存在。正確には助けられた、ではなくただ利用しただけだけれど。
「ちょ、な、なにそれ、ほんとに?!」
「ああ、まじだよ。な?」
櫻井螢の肩を抱き寄せながら、彼女と付き合っているという嘘を、吐いた。突然付き合っていることにされた螢はもちろんのこと、隣でオーバーリアクションを取るルサルカからしても内心噴飯ものの嘘だろう。面白がっているルサルカはともかく、困惑したように微妙な顔をする螢の反応は、少々意外だった。
「……ええ、どうやら、そういうことみたい」
結局協力はしてくれるらしい。蓮と螢が展開する恋人ごっこは傍から見ればぎこちなさが拭い切れないものだったけれど、香純一人を騙すには十分だったようだ。付き合い始めた螢が嫉妬深いから香純と行動を共に出来なくなった──そんな適当なでまかせを香純はあっさりと信じて、どこか茫然としていた。
「これから藤井君の面倒は私が見るから。今までありがとう、綾瀬さん」
協力は大変有り難いが、力いっぱい尻を掴むのは止めて欲しい。
「そうなんだ。ご、ごめんね、空気読めなくて」
あからさまな苦笑いを見せてから、ふらふらと去っていく香純の後ろ姿を、今の蓮はただ見つめることしか出来ない。日常に戻るまでの少しの間だけ、自分のことは忘れて欲しい、悪い、とそう心中で呟いた、直後。
「新しい遊びか」
「──っ!」
背後、少し離れた距離から飛んできた男の声に、蓮と螢が全く同じタイミングで後ろを振り返りながら、互いの身体を押しのけるように素早く離れた。視線の先にいる教師の存在を確認し、蓮は頭を抱えたくなる。なんてタイミングだろうか。いや別に、だからどうということもないのだが。そもそもこの男、どこから自分たちの話を聞いていたのか。腕組みをし、緩やかにこちらに歩いて来るからは、からかうような気配はない。
「離れなくていい。邪魔はしない。続けて」
「続けねえよ。ていうか、あんたなんか勘違いしてるでしょう」
「そうかな。付き合ってるんだろ。綾瀬にそう言ってた」
そこから聞いてたのかよ。左隣の螢は機嫌が悪そうに眉を顰めていたし、右隣のルサルカは肩を震わせて笑っていた。どうやら、嘘を重ねることは避けられないらしいと蓮は悟る。嘘を吐く相手は少ない方が労力も少なくなるのは当然のことであり、元々必要のあった香純以外に、この茶番を見せるつもりはなかったのだ。
「そうなのよ、センセイ。この二人、実は付き合ってるの。どっちも照れ屋だから、仲のいい人にだけこっそりそれを教えてるってわけ」
ぱんと両手を合わせて、可愛いらしいカップルでしょう、とルサルカはそれはそれは楽しそうに続けた。彼女の、悪ノリなのだかフォローなのだかわからないその言葉に、今は頷いておくしか選択肢が無さそうだ。とりあえず、この場を切り抜けられればそれでいい。蓮と螢がその特別な関係を隠したがっていることは伝わっただろうから、これで人前で恋人なんてものを演じる場面は無くて済むはず。
「櫻井と、藤井が。いいね。言いふらしがいがある」
「こっそりって聞こえてただろうがこの性悪教師」
「うん。おれは性悪だから」
なんて、規定とも言えるやりとりをした。薄く、意地が悪そうに彼は笑っているけれど、本当に言いふらす気はないだろう。そんな面倒な遊びを率先してやる人ではないし、そもそも彼は案外空気を読む。というのを知っているのは、ここにおいて恐らく蓮だけで、つまりという人間に理解が無ければ、彼の言動は人の神経を逆なでして終わってしまう。その証拠に、蓮の恋人役となった螢の目は、冷め切っていた。
「口が軽い教師は嫌われるんじゃないですか、先生」
「生憎好かれたいと思って教師をやっていたことは、ないんだ」
刺々しく告げる螢にそう切り返すもまたどこか冷ややかで、同時に柔らかくもあった。螢の視線が益々険しくなり、きつく睨みつけるようなそれに変わる。本気にするなよ、とフォローを入れてみても、黙殺された。
「あなた、そんなに軽口が好きな人だったんですね。知らなかった」
「そうでもない。相手による。敬語とタメ口は、使い分けるだろ。そういうことだ」
「ええ確かに、理屈はわかります。でも私、先生は子供がお嫌いなんだと思っていました。これは私の勘違いで、本当はお友達よりも歳の離れた生徒をからかって遊ぶ方がずっと気楽だったと仰るなら、認識を改めますが」
「おい櫻井、何の話をして──」
「藤井君は黙ってて」
その声は剣の塊だった。螢は蓮に一瞥もすることなく、剣呑な色を載せた瞳でだけを見据え続けている。殺意すら篭っていそうなそれを、彼は涼しげに受け流して。
「そもそもおれに友人は、いない」
「……そうでしょうね。あなた、誰にも興味ないもの。期待させるのが、上手いだけ」
氷点下のような声音と表情で吐き捨てるように言い、螢はくるりと方向転換した。「またね、藤井君」と、苛立ちを隠さない挨拶を残して。一緒に校舎を出てきたルサルカのことも忘れたように置き去りにし、さっさと校門を出て行く。その背中に呆れたような眼差しを送りながら、は小さく息をついた。
「あいつ、怒りっぽいな」
「センセイは知らないでしょうけど、結構頭固いのよねーあの子。どこまでいっても優等生だから。しかもあれで直情型と言うか、思い込むと一直線だし」
その和やかな雰囲気に、もしかして櫻井と以前から知り合いなんですか、と問うタイミングを失った。やルサルカの言い回しから古い付き合いでもなさそうなことに一旦安堵してみたものの。同級生と十年ぶりに再会しても、塩対応をするだ。彼は元より付き合いの長さでそう対応が変わる人間ではないので、はっきりしたところは確信が持てない。誰にも興味がない、は同意するが、期待させるのが上手い、とは何なのか。
「妬かせたかな、おれ」
「いや何言ってるんですか」
「そういう話だったろ? これから、藤井に近付き難いよ」
一瞬、これで満足かとでも言われたような、気がした。この人は全て見透した上で、蓮の望み通りこんなことを言ってきたんじゃないかと疑いたくなるような白々しさで。
「もうちょっと余裕を持つべきだと思うけど、それがケイの可愛いところでもあるのよ。レンくん、あの子のそういう嫉妬深いところも含めて好きになったのよねえ」
「……え、ああ。そう、かも」
「はっきりしないなぁ。レンくんったら男らしくないぞー」
唐突に話を振られて、蓮は曖昧に頷いた。気さくに話かけ、話しかけられる仲ではないし今だって御免被りたいが、の手前、邪険に扱うわけにもいかない。そこまで読んだ上で、ルサルカもこういう絡み方をして来るのだろう。ふうんと零して、は蓮に向けて口を開く。
「まあ、がんばれ」
「はあ。がんばります」
覇気のない激励への返しも、大概覇気がない。
「ところでセンセイ。レンくんとケイがくっついたんだし、次はわたしとセンセイの番じゃない?」
「番じゃない」
隙を見ては腕に絡みつこうとするルサルカをおざなりにあしらって、は校舎へと引き返して行った。つれないなあ、と憤慨する赤毛の少女に対する、つれてたまるか、というつっこみは思うに留めた。