うごめく暗闇
人工的な工夫をどう凝らしても一生辿り着けないような美しさを持ちながら、その価値を大したものと捉えずに存在する、嫌味な男がいる。自身の見目が有用であるという認識はあれども、若く美しくあること自体に便利以上の拘りはなく、突き詰めればそこに興味を持っていないしプライドもない。偶々利用できるから利用しているだけのこと。別にビジュアルに限ったことでもない話だ。人間関係、能力、地位、そのどれにも・は執着せず、何も持っていないくせに、困ったことなどないような様子で、飄々としている。そういう淡白さは、彼の隣にいればいるほど、手に取るが如く理解した。拘らず、驕らず、嘆かず、何においても以上も以下もない生き方は、良いように見れば余裕があると表現出来る。そう、いつだって彼にはゆとりがあるのだ。
そんなが。いつ何時も火の中だって涼しげな顔で優雅に歩きそうな余裕を持つ男の表情が──苦痛と快楽で苦しげに歪む瞬間が、ルサルカ・シュヴェーゲリンは大好きだった。
*
「いい場所じゃない、ここ。イケナイことするにはうってつけ。もしかして、もう既にそういう使い方しちゃってたりして。やん、センセイのえっちー」
「しない」
頬を両手で包みながら照れたような素振りをするルサルカを視認することなく、は開けっ放しだった教室の扉を後ろ手に閉めた。旧資料室と呼ばれるここは、彼個人が自由に使用していい場所として許可をもらった教室らしい。二人で話があるから時間を作りなさいと昼休みに"命令"すれば、彼はやや抵抗がありそうな面持ちで、ルサルカをこの部屋に通したのだ。
「えぇー、ほんとかなぁ」
「興味ない。知ってるだろ」
「それはそうだけどー。が興味無くても、にして欲しい子は、たくさんいるように見えたわよ?」
「そうか」
「まったく。相変わらず、救えないくらいの朴念仁なんだから。女の子たちが可哀想になるわね」
こんないじり方でが面白い返答をするわけもないことくらいルサルカも熟知しているところではあるが、趣味のようなものなので、止める気もない。それに、まだまだ序の口。面白くなるのはここからだと、ルサルカは室内をぐるりと見渡しながら、にんまりと笑う。
空の本棚が部屋の半分を占領しているし、少々埃っぽくはあるけれど、密会場所としては雰囲気があってなかなか悪くない。直射日光が入る窓の近くは、12月にしてはぽかぽかとしていて暖かった。定位置なのだろうか、腰くらいまでの高さの棚に浅く腰を下ろしたは、その陽を背に受けながら、無感情な瞳でルサルカを見据えた。何も感じていないような、それでいて全てをわかっているような目だ。
スーツのジャケットから取り出した彼の煙草を即座に奪ったのは、ルサルカの柔らかい指──ではなく。
「今はだめ。はい没収ー」
「ルサルカ。何がしたいんだ」
彼女の操る、立体的な形を持つ影だった。名を 食人影。影ではあるが、それはルサルカの意思に従って動く怪物だ。他者の魂が入ったその影は、まるで触手のようにな造形をして、ルサルカの望むままに動き回る。
「嫌がらせ。それと──イケナイこと、かな?」
だから今、その影がの煙草を取り上げて白い床へと放り投げたのも、彼の首や腕に絡みついて少しずつ圧迫するように締め上げてくるのも、ルサルカが望んだから行われていることである。眉一つ動かさず、は自身の腕にまとわりつく黒いそれを眺めながら、嘆息した。煩わしそうにルサルカを映す瞳に、温度はない。
「今、ここでする、必要が?」
「あるわよ。いいじゃない、こういうのも。折角こんなもの着てるんだから、楽しまなくちゃ。わたしも、あなたもね」
の黒く味気ないネクタイを、ルサルカの白い手が緩めた。その動作を止めようとは反射的に手を動かしかけるが、彼にべったりとくっつく影がそれを許さない。人差し指を見せつけるように振れば、触手はの両腕を彼の頭上でまとめ上げた。ただの人間同然の彼に、そこから逃れる術はなく。
「ルサルカ」
「せんせ、そんなに怒らないで?」
咎めるような気配と、もう止めようもないだろうという諦観。その二つの存在を受け止めながら、ルサルカは影を操り、強引にの腰を低くさせた。顔を近づけやすい位置。首に腕を回し、目と鼻の先にある完璧な彫刻のような造形にルサルカは己の顔を近寄せて、唇を啄む。拒みはしないが応えもしないは、うんざりしたように口を開いて。
「見つかったら、面倒だ」
「なあに、見つかったら困るの? "誰に"見つかるのが、コワイの?」
「べつに怖いわけじゃ……──っ」
その言葉を呑み込むように、食らいつくようなキスをした。の舌を追い回して、絶対に逃がさないとでも言うように、深く触れ合わせ、唾液を注ぐ。
仕方なくと言った風に、がルサルカの求めにやっと応じた。ルサルカの舌の付け根をつついては、弱い刺激に引こうとする舌を、今度は彼が自身のそれで追うようにして絡める。両腕の動きを封じられている状態でも、久しぶりの行為でも、彼はいつもと変わらず、もっと言えば授業中とまるで同じ調子で進めた。態度の変わらない彼を可愛くない、とも思ったし、どのような状況でもルサルカを悦ばせるやり方を躾けた通りに行う彼を可愛いとも、思った。口を離せば、どちらのものかわからない体液が、二人の唇の隙間を繋ぐ。
「はっ……ねえ、、あの子ともこういうこと、もうしたの?」
「……っ、誰の、こと」
「フジイレンくん」
の目が、なんだそれとでも言いたげに細くなった。
「しない」
「隠さなくてもいいのよ。わたし、物知りなんだからね。シュピーネに頼まれたんでしょ? あの子を誘惑して、言うこと聞くようにしちゃいなさいって」
「守秘義務」
「言って」
黒一色の影がその数を増やし、増殖した細いそれはのワイシャツの上を這うように動き始めた。ボタンが二つ外されたところで、彼は眉間に皺を寄せてルサルカを見た。焦りよりも、至極面倒臭そうに。
「おい」
「言いなさい」
「してない、藤井には。なにもだ」
「んん、本当に? と言うか、あなたがその感じでそう言うなら、残念ながら本当なんでしょうけど。なんか納得いかないなぁ。どうしてしないの? ずっとそうしてきたじゃない?」
触手の先が、の顎をつんと突いた。鬱陶しそうに顔を背ける彼を眺めながら、ルサルカは一度彼から距離を取り、首を傾ける。
は黒円卓の"下僕"だ。関係者ではあれども軍に所属した記録はないから、顔も割れていない。そんな彼を一時直属の部下として従え、あらゆる権力者との関係を繋ぎ、自らも権力を得て金と地位を積み上げていったのがルサルカの仲間であるロート・シュピーネだ。人を容易に魅了する彼の姿を、シュピーネはあらゆる場面において利用した。男も女も、は命令通りに、作業のように籠絡していったのを、ルサルカは知っている。シュピーネは藤井蓮を我々の捜し人だと睨んで、今回に彼を誑し込むことを命じたのだと思っていたのだが。そのがまだ、手を出していないのだと言う。どうやらこれまでと手順が違うようだ。
「何か、できない理由があるのね」
「できない、とは違う。やる理由がない。シュピーネにも言ったが、あれがきみたちの捜し人なら、こんなものでは落ちないよ」
「ふうん? 理由として筋が通ってるように見えるけど……やりたくないだけだったりして」
「どういう意味だ」
「あの子、テレジアちゃんの想い人らしいじゃないの」
「だから、なんだ」
心底わからないと、そういう顔をしていた。それもそうだろう。その手の話題から、一番縁遠い男だ。けれども、今回はあながちそうでもなさそうだというのは、ルサルカの勘だった。
「彼女を気遣ってるんじゃなかっていう話よ。あの子の大好きなレンくんを横から攫うような真似はしたくない、とかね。子供の相手は苦手とか言いながら、しっかり懐かせてるし? あなたも、案外満更じゃなかったりするんじゃないの?」
「話にならないな」
彼の嘘は基本的に、読めない。無表情がデフォルトで、動揺があったとしても悟らせることはないし、そもそも動揺自体したことがあるのかも怪しいものだ。
「そんな事実はないって言うなら、それでもいいわよ。信じてあげる。でもその代わり、わたしにも手伝わせてくれないかしら」
「なにを」
「レンくんの、籠絡。あなたの言う通り、落ちないかもしれないし……落ちるかもしれないじゃない?」
ちょっとだけ試してみましょうよ、と無垢な少女のような微笑みを湛えて、ルサルカはぱちんと中指と人差し指を使って音を立てた。瞬間、服の上を蠢いていた影が、の服の中へとごそごと移動する。眉間の皺が深まりはしたが、諦めているのか、彼に抵抗の動きはない。首に巻き付いていた影はゆるゆると首筋やうなじを撫でつけては締め付けを繰り返し、そこから派生して増えた触手はいつの間にか湿り気を帯びて、彼の耳の中に犯すように入り込んだ。快楽と、苦痛が、何度も順番にを攻め立てていく。彼の表情が、ルサルカの好きなそれへと、少しずつ変化していく。
「……っ、ぁ、ひ」
「かーわいい」
腕を組んで、段々と表情が落ち着きとは程遠いものになってきたを楽しげに見つめた。息を荒くして、目尻に涙の粒を浮かべる彼は、教壇に立っている時とはまるで違う雰囲気と、濃密な色香を漂わせていた。
服の中の影はの身体の至る所をまさぐって、手慣れた様子であっさりと彼の性感帯とも呼べる場所を順に探り当てる。その都度、が呻き声を上げた。脇腹、胸、背中──そのどこでも、を感じさせるのは簡単だ。不感症のような顔をして、少なくとも性行為における彼の性質はその真逆だから。彼は常人よりもずっと"感じやすい"。遠い昔、戦時中に男娼として生活していた彼は、幾度となく及んだ性行為のせいで、ちょっとした刺激でよく反応する身体が出来上がってしまったらしい。だからこそ、"本来の用途"から外れたところで、ルサルカの玩具としても何度も呼び出されているわけだが。
「痛くはしないわ。ここは学校だもの。ソフトにいかなくっちゃね」
爪を剥がしたこともあれば骨を折ったこともあり、薬漬けにしてみたこともある。どうせルサルカの手にかかればすぐに治癒ができる身体である。そういう理由で、過去には色々試したしそのどれも楽しんだが、今日はそれをしないと暗に伝えて。
「わたしがやってあげてもいいし、最初はそのつもりだったんだけど──教師なんて似合わないことやってるがこの学校で犯されちゃう様をこうして外から眺めるのも、悪くないと思うのよ。たまには趣向を変えてみると、新たな発見があるかもだし。だから、私の 食人影に、可愛がってもらって?」
「──、ルサ、ルカ」
「そう、その目よ。いい顔になってきたじゃない。これからもっと、わたし好みになってもらうんだから。ああすごく久しぶりね、こういうの。楽しいわねえ、たまんない。そう思わよね、センセイ?」
の頬を自らの手で一撫でして、影には更に彼の身体を好きにするように命じる。腰や足にもするすると伸びていく影に、ルサルカは満足げに笑いかけた。趣味と嫌がらせと実験を兼ねたこの行為は、彼女を確実に興奮へと導いていく。
藤井蓮の籠絡を手伝う、だなんて言ってみたものの、実際は藤井蓮の反応を見たいというのが正しい。あの少年が必死に幼馴染やこの男をこちらから守ろうとしてる様は滑稽で、見ていて可愛らしくて仕方がない。大好きなこの教師が、己の日常を破壊する側だと知った時の彼の顔は、きっと見ものに違いない。好意が大きければ大きいほど。加えて、彼にはきっと何かがあるはずだと思うから。ただの一般人だと一蹴するには、自分たちに注目され過ぎている。試せることは、試しておきたい。だからこれは実験であり、"二人"への嫌がらせでもあり。
「う……、ぁ……っ」
耳をべろりとなぞられる度、胸の突起をいじられる度、内ももをこすられる度に、は息を詰め、触手の挙動に合わせて何度も身体を震わせる。ズボンに入り込んだ影の一部が後孔をいじれば、険しい顔つきがやや泣きそうなものに寄った形になる。これらの反応は実際につらいと言うより、反射に近いのだろう。ルサルカと出会う前、彼を穢してきた大人たちが彼の身体に教え込んだものだ。
「は……っ、ぁ、ん……」
唇を噛むようにして以前よりも声をだいぶ押さえているのは、恐らく学校だからだ。教師などという職に大した誇りも執着もないくせに、一丁前にこれを隠そうとするその姿がまた、ルサルカの嗜虐心を煽り立てる。いつもより、ずっと、強烈に。
「背徳って言うのかしらね、これ。こんな気持にさせてくれるなんて、すっごく素敵ね、 学校って。ぞくぞくしちゃう」
次々と休みなく与えられる快楽に耐えられなくなったのか、ついにが床にずるずると座り込んだ。両腕は持ち上げられたまま、身体には影をまとわり付かせたまま。肩で息をしながら顔を俯けるを、ルサルカは熱の篭った緑の瞳で見下ろした。
「顔を上げなさい、リヒト」
"本体"の名前で呼べば、言われるまま、ゆるゆるとが面を上げた。さらりと流れた長い金の前髪から覗く彼の碧もまた、熱っぽかった。頬や首元も、赤く染まっている。ほんの数分前までは、一切の温度の無かったはずの、彼の目。ルサルカを求めるように、縋るような情欲を孕んでいる様に、彼女はぞくりと、身を揺るがすような快楽が走り抜けるのを感じた。
「とっても可愛いくなったわね。でも、もっと声が、聞きたいかな」
わざと 食人影に触らせなかった彼の身体の一部。のズボンの中で勃ち上がった中心を、ルサルカは靴のままで軽く踏みつけた。本当に弱い力で。ひ、と零れたつらそうな声に、また気持ちが昂った。
性質上、性欲というものを持たないが、視覚やシチュエーションで興奮に陥ることはない。つまり女性の裸を見ようと、盛り上がるような状況を用意しようと、彼のすまし顔は崩せず、動揺もさせられない。それを乱せるのは、身体的快楽だけだった。それだけが、彼の別の一面を曝け出させる手段。従順ではあっても何に対しても執着せず無関心且つ無表情な男が。美術品のような綺麗さで整然とした彼が、蹂躙されながら余裕を失くして、ただ喘ぐようになる光景はあまりにも官能的だ。その声も表情も動きも、見た者すべてを惹きつけて、肉欲を扇動するためだけの生き物のようで。自分の動作一つで、そんな男を真の意味で屈服させられる。良いように支配できるこの時、強い優越感を感じられて、気分がいい。足に力を加えるのを止めても、靴の裏を押し上げようとする感覚に、ルサルカの口元が益々緩む。
「ふふっ、腰、揺れてるわよ。出したくてつらい? 泣いちゃいそう? でも、ダーメ。これ以上強い刺激は与えてあげないからね。わたしの足を使って勝手にイくのもなし。最初に言ったでしょ、嫌がらせだって。これ、廊下でわたしの誘いを断った罰でもあるの」
「……ぁ、好きに、した、ら」
「まだ強がれるんだ。やっぱりいいよ、。いじめがいがあって、大好きよ」
「そりゃ、どう、も……」
ぐりぐりと先っぽに弱い刺激をやれば、気持ちよさそうな声を我慢し切れていないのだから、彼の「好きにしたら」も大概説得力がない。本心ではあるのだろうが、身体はどうしたって反応してしまうものだ。いっそ自分も"欲しい"という欲望が無いと言えば嘘になるが、ここでそれをしてしまっては計画が異なってしまう。
さて次はどうやっていたぶってやろうかと思考していたところで、近付く人の気配に、ルサルカは足の動きを止めた。想定より早いが、頃合いだろう。
「ルサルカ?」
動かず喋りもしなくなったルサルカを訝しそうに呼ぶ声の主に、彼女はにこりと笑って見せて。どこか力が抜けたようにぼんやりとするに、来訪者の名前を告げた。
「来たわよ、レンくん」
*
「先生、呼んでるって聞いたけど。今度は何のパシリさせるつもりですか」
クラスメイトからが自分を呼んでいると聞いて、蓮は仕方なしに旧資料室を訪れていた。どうせいつもの雑用だろうが、呼び出しを無視するのも後々面倒だ。そういう思考のせいか、どう足掻いても最終的には彼に使われている現状。脱却したいが、卒業するまで無理かもしれない。今は、無事卒業出来るのかも怪しいけれど。落ち込みかけた気分を強引に戻して、蓮は旧資料室の扉をノックした。呼びかけてみても、反応はない。呼び出しておいてどういうつもりだよと文句を零しつつ扉を引き開けてみれば、すんなりと開いた。どころか、その奥にちゃんとがいた──が、なにやら様子がおかしい。
「先生? どうしたんだよ、気分でも悪いんですか」
棚に背を預け、床に座り込んだ格好のまま、動かないがそこにいた。片膝を立てて、その膝にはスーツのジャケットがブランケットのようにかかっている。傾けられた顔の表情は窺えず、返答が無ければ起きいるのかすらも怪しかった。
「まさか、寝てる?」
そっと近寄って、動かないの前で腰を屈めた。片膝を床につけ、覗き込もうと頭を捻ってみるが室内が薄暗いせいもあり確認出来ない。肩でも揺すってみるかと手を伸ばせば──彼の手が目標に届く前に、払い落とされた。
「な……」
「……おれに、触るな」
なんだよそれ、人を呼び出しておいて、と続くはずだった文句は、言葉にならず飲み込んでしまった。僅かに持ち上がったの顔を見てしまったら、そんな気が失せたのだ。
日本人よりもずっと白く、陶器のような肌がうっすらと上気して赤みがかっている。白いからこそ、よく目立つ変化。何故か、どこか警戒するような面持ちで、人をからかうような、適当にあしらうような横柄さがまるで消えている。睨むように鋭くなった双眼は、水気を含んで潤んでいるようにも見えた。触るなと拒んでおきながら、こちらを縋るような切実さが、垣間見えた気がして。このままこの人に縋りつかれたらどうなるのだろうと、そんな昨日までなら絶対にしなかった想像が頭の中を一瞬で駆ける。なんだこれ。何かを我慢しているかのように、慎重に、そして少々震えるような呼吸をする音が、嫌にはっきりと耳に残るようになった。己の心臓が派手に跳ねるのが、わかる。──この人も、こんな顔を、するのか。
「あ、の」
これをなんと、呼べばいいのか。は、口を開けばただの意地が悪い男だが、黙っていればちょっとそこらでは見かけられないくらいには品の良さそうな美貌の持ち主だ。どんな仕草も優雅に映るくらいには、見目も動作も洗練されて整い切っている。しかし、今のは、そういう印象と一線を画していたのだ。品がない、と言うよりもどことなく俗っぽい空気感で、けれども美しさだけはそのままだから、妙にバランスが悪い。苦しげなを前にして、そんなはずないのに、まるで誘われているような熱を、蓮は感じていた。今の彼の眼差しは、その佇まいは、人を蠱惑するような艶めかしさを有しているなどと、どうして考えてしまうのか。失礼にも程があるとそれを振り切ろうとするのに、止められない。
自分を見つめるサファイヤに、吸い込まれそうだと思った。何かが異常だと結論は出ているのに、目が逸らせず、口を開けない。見てはいけないもの見てしまった時と似た背徳感が突然押し寄せてきて、より心臓が騒がしくなった。顔が熱くなるのに比例して、蓮の判断力が鈍っていく。
「せん、せ」
確か、前にも同じことがあった。初めて、の部屋に泊めてもらった日。間近で眺めた、人を惹きつけるこの容姿と底知れない空気を──気味が悪いと、思ったのだ。
今度は、の頼りない手が、蓮に向かってくる。無意識に顔を僅かに引いて逃れようとした。その手が、急に酷く恐ろしくなった。身体の奥でそれを掴み引き寄せたい欲が疼いたようなこれは、たぶん錯覚だ。あれを求めてはいけない。掴んではいけない。でないと、後戻り出来なくなってしまうから。とんだ被害妄想だと普段なら笑い飛ばしそうな直感を、蓮は大真面目に信じ、恐れていた。の両の手が、蓮を捕らえようと迫り、そして。
「やめ──」
「おい、藤井。このバカ」
両頬を、力いっぱい引っ張られた。
「……へ?」
「間が悪いね、きみも。一番体調が悪い時に、来るなよ。ていうか、手を払われたくらいで、拗ねるな。ガキか」
容赦ない力でぐいぐいと蓮の頬を伸ばす両手と無愛想な顔を、蓮は茫然としつつ交互に見やる。いたいんひぇうふけど、と呟くと、「日本語で」と返された。無茶言うな。蓮の頬を摘むのをやめた指が、今度はその額をつんと押してくる。口の端を上げるいつもの笑い方が、目の前にあった。
「熱があったんだ。八つ当たりした。悪い」
「大丈夫じゃないでしょう、それ。帰った方がいいと思いますけど」
「そうもいかない。どちらにしろ、テストが近いから、次は自習だ。体力はいらない」
そういう問題でもないだろうが、蓮が必死に説得するような話でもないので、ここは引いておくことにした。膝にかけていたジャケットの袖に腕を通しながら腰を上げるは、今朝までと同様の余裕を取り戻している。床に捨てるように置かれていたネクタイを締め直す仕草は、それだけで上品さがあった。先のあれは体調不良だったせいで、一瞬過敏になっていたというところだろうか。
「まあそんなに心配するなら、心配させてやってもいい」
「いやそれほどじゃ」
「職員室のおれの席に、6クラス分の課題がある」
「……次の授業、俺のクラスでしたね」
「話が早い奴は、好きだよ」
自習時間に課題の確認をするから持って来い、と。体調が悪かろうが万全だろうが、どちらであっても、彼は蓮に力仕事をさせるつもりだったに違いない。今に始まったことでもなし、今日は確かに体調が悪いようなので、拒む気も起きないが本当にこの男は人使いが荒い。
「結局パシリですか」
「人助けな」
「物は言いようですね」
「助かるよ、藤井」
ありがとう、と静かに礼を言われたら、それはそれでむず痒い。いいえと素っ気なく言い置いて、蓮は旧資料室の扉を振り返った。昼休みも終わりが近い。今日これから"行動"に出るためにも、雑用はさっさと終わらせようと早足に廊下を出て。
「──満足か?」
背後から投げかけられた微かな声量の言葉に、つい足を止める。肩から上だけでが立っていた方を向けば、彼は床に落としていたらしい煙草の箱を拾い上げていた。
「なんですか、先生」
「きみには、なにも言ってない。行け」
「……体調悪い時くらい、煙草やめたらどうです」
「一考してやる」
「ライター取り出しながら言われても」
吸う気しかない。
「先生」
「なに」
「また、後で」
「ああ」
数分前の動揺が嘘のように、通常運転のやりとりだった。ぱたんと扉を閉めてから、緩い足取りで教室から離れる。一度だけ、旧資料室を振り向いて、見慣れた形を視界に収めた。異常は、及んでいない。はずだ。