夢のつづき
自分が愛した日常が異形に侵食されていく様は、まるで悪夢の続きのようだった。
最後の砦とも呼べた、日常の象徴の一つであった学校。そこに、"彼女たち"は平気な顔をして混り込んだ。時期外れの転校生、留学生という立ち位置から異質さはあれども、多くの生徒からの感心と羨望を寄せられて、突然やって来た二人の女生徒は学校全体に当たり前のように受け入れられている。人懐こい振る舞いと愛らしい容姿で周囲に人を絶やさないルサルカ・シュヴェーゲリン。そして、その真逆を行き、常に冷ややかな態度を取り続けるくせに、やけに整ったビジュアルも相俟って"感じが悪い"ではなく"大人びている"と良いイメージが先行する櫻井螢。性格や纏う雰囲気は違えども、彼女たちに共通しているのは、周囲が二人に向ける視線は好意に寄ったものが圧倒的に多いというところだ。
つまり、その場に存在するだけで平穏を脅かし絶望と不幸を呼び込む"危うい獣"、なんて彼女たちにそんな認識を抱くのは、この学校で藤井蓮ただ一人だろう。だからこそ、気が抜けない。今の自分に出来ることは少ないし限られているけれど。せめて二人が下手な真似をしないように、あるいは隙を突いて何らかの形で決着をつけられるように、蓮はこの異形の転入生の来訪から数日、ずっと気を張りながら監視を続けていた。
ルサルカや螢が、同じクラスである綾瀬香純に近付く度、教師であるに大した用事もなく絡みに行くのを見かける度、動揺と不安で胃が引き攣りそうな感覚に、蓮は何度も耐えた。自分たちの機嫌一つで、おまえの大事な友人たちの未来が確定するのだと、そう言われているような気さえしたのだ。言わば、人質。この学園に通う教師も生徒も、全員が、そうだ。
「ねえ、待ってよ、センセイ」
授業が終わった直後、さっさと教室から廊下へ出たを、ルサルカが呼び止めた。の腕に自身の両腕を絡め、上目遣いと人好きのする可愛らしい表情で。見る者が見れば深い意味にも捉えられそうな間を置きながら、じっと彼を見上げている。人形のよう、とよく評される程の淡白さと端正な容貌の持ち主であると青年と、愛される見た目と愛される言動をする美少女。絵になりそうな組み合わせでもある二人の異国人は、通り過ぎていくだけの生徒たちの好奇心が含まれた視線を集めていた。
彼らと同じように二人をやや離れたところから見つめる蓮の心中は、穏やかとはいかず。彼の頭を占めるのは、好奇心ではなく、警戒だ。ひやりと、ナイフを首筋に当てられたような緊張感が身体を強張らせる。
「シュヴェーゲリン。なにか用か」
周囲のある種の期待を裏切るくらい、は普段通りのどこか冷めた口調で応じた。ルサルカの腕を振り解きこそしないものの、許容している風でもなく、どちらかと言えばどうでもよさげだ。
別段冷た過ぎるということもないが、生徒に対する愛情や温かさはほとんど感じられないし、やる気も見受けられない。・という教師は、誰にでもそうだ。必要最低限の"大人らしさ"を持ち、そのような態度を取るけれど、何故教職に就いているのかと問いたくなる程度には、彼は基本生徒に興味が無い。そのくせ文句のつけようがない程に優れた見目と、無関心な中に確かに在るふとした"大人らしさ"と、時折見せる微かな笑みと。それらのせいで、生徒からの興味を惹きつけて止まない嫌味な教師。そのスタンスは、少々積極的な女生徒が現れたくらいでは、変わらないらしい。
「センセ、わたし授業でわからないところがあるの」
「英語は出来るだろ、きみ」
秒でつれなく返したに、ルサルカが怯むことはなく。気分を悪くするでもなくて、にこりと、寧ろ楽しげに微笑んだ。
「英語は、ね。問題は英語以外。これでも、結構苦戦してる教科があったりしちゃうのね? 例えば現代文とか、ちょーっと読み書き出来る程度じゃ日本の外から来たわたしには厳しいじゃない?」
「おれの受け持ちは英語だ」
「それはそうなんだけど、そうじゃなくてねー。センセイ、わたしよりは日本語できるでしょ? 同じ故郷のよしみで、わかりやすく教えてくれたらすごく嬉しいなーって話なのよ」
「無理。おれにはわからない」
あまりにも投げやりな返答にルサルカが目をまるくして、蓮は正直少し安堵した。当たり前だが全て日本語でされる授業についていけないから、母国語を同じくする教師に授業の解説を頼む──一見筋が通っているようだが、結局のところ口実だろうと蓮は疑っていない。むう、と頬を膨らませて、ルサルカはわかりやすく不満そうに口をへの字に曲げながら、を睨んだ。それすら可愛らしい、と言われそうな表情で。
「あー、今の嘘だ。そういうのわかっちゃうんだからね。イジワルー仕事しろー職務放棄ー」
「それだけ日本語がわかれば、十分だろう。おれがいなくても」
「不十分だからセンセイに頼んでるんでしょ。生徒の勉強を頑張りたいっていう健気な気持ち、もうちょっと応援してくれてもいいんじゃないかな。今日の放課後、少しでいいから」
「……きみな」
「ね、"お願い"」
端からまともに相手をする気もなさそうだったが、彼女のからの"お願い"を躊躇わずに切り捨てる言葉を、止めた。ぎゅうと、ルサルカが更に強くの腕を引っ張る。ルサルカが異国人であるせいか、もまたそうであるからなのか。この廊下のど真ん中でされる明らかに行き過ぎた教師生徒間でのコミュニケーションを目にしても、横切る生徒たちはおかしそうに笑うだけだ。の性格を知っているからこそ面白い、というのもありそうだが。冷静に見れば、問題しかない。
やがてが面倒そうに、それでいて何かを諦めたように、小さくわざとらしく嘆息をした。首を傾けるルサルカを映す碧い瞳の温度は変わらないように見えるのに、彼女を拒む気配が、薄れていたように思えた。
「──わかった」
瞬間。ルサルカの目が、確かに蓮を捉えて、細まった。まるでこれを見せつけるようないやらしさを宿して、口角を上げるのがわかった。
ちょっと待ってくれ、と静止の科白が喉まで出かかる。声にこそ出さなかったが、身体は頭で考える前に自然と目的を定めて動いていた。ルサルカ・シュヴェーゲリンが、藤井蓮への嫌がらせとしてに手を出そうとしている──こんなこと、看過できるわけがない。であれば、今すべきことは一つだろうと、思うから。
「先生」
迷わず伸ばした手が、男の細い腕をしっかりと捕らえた。ルサルカが絡みついていない方の腕をぐいと引いた蓮を、やや驚いたようなルサルカが見上げる。突然引っ張られたは少しバランスを崩しかけながら、彼女に向けたものと同じくらい煩わしそうに、蓮の姿を視界に収めた。
「なんだよ、藤井まで」
「いや、その……俺も、わからないところがあったんで」
「現代文なら他を当たれ」
「ちゃんと英語です、けど」
蓮が英語をわからないと主張することに不自然さはないが、このタイミングだと完全にルサルカに対抗したと取られても言い訳がし難い。つまりここにおける"英語がわからない"は、ルサルカのそれと同程度に信用ならないものだという自覚は、あった。別に腕まで引っ張らずともよかったという後悔もある。案の定、は呆れたように再び息をついたきり黙り込んでいるし、クラスメイト(主に香純)からどういう目で見られているのか、気にならないと言えば嘘になる。
を挟んで向こう側からにやりと意地が悪そうに笑うルサルカは、小悪魔そのものの顔つきで薄い唇を開いた。
「レンくーん? キミそういうキャラだったっけ?」
「……なにがだよ」
「ていうかそもそも、こういうのって日本でも先着順が基本だよね。横から出て来て掻っ攫おうとするなんてマナー違反じゃない? ちゃんとルールは守ろうよ、レンくん」
「おまえ──」
「──ルサルカ。いい加減、先生を困らせるのは止めなさい」
思いもよらぬ助け舟が、横から唐突に入った。その助け舟は蓮の背後、つまり教室から現れたかと思うと、こちらの存在など見えていないかのように真っ直ぐルサルカと向かい合う。彼女──櫻井螢に、一切の笑顔はない。絹のような漆黒の髪がさらりと肩から落ちたが、螢の目線も表情も動かなかった。
「現代文なら、私が教える。今日のところはそれでいいでしょう」
「えー、ケイの教え方ってスパルタなんだもん。基本コワイのよねー」
「でも先生なら優しく教えてくれるなんて保証も、どこにもないわよ。案外私より厳しかったりしてね。どうなんです、先生」
「もうそういうことにしといて」
「だそうだけど。ルサルカ」
ううんと考え込むように唸ったのち、ルサルカはゆるゆると、絡めていた腕を解いていく。眉間に皺を寄せたまま、まだ未練がありそうな声音で、仕方ないなあ、と彼女は呟いた。
「ケイがそう言うなら、今日のところは勘弁してあげる。でも次は色々と教えてね、センセイ」
「いつかな」
持ち前の適当さでそんな返答をして、蓮の手からも解放されたが、片手に持った教科書で、蓮の腕を軽くはたいてきた。「なにするんだよ」「なんとなく」と要領を得ない会話をした後、彼は行き交う生徒に混じり職員室の方向へと消えて行く。なんだったんだ。
見事一緒に居たくない二人と残された蓮は、彼女たちを軽く睨んでおいた。何をしようとしていたと、ふざけるなと、そういう意味を込めて。
「レンくんこわーい」
「ごめんなさいね、藤井君」
蓮の真意を察したのか、螢が言葉とは裏腹に申し訳無さなど全く見せない謝罪をした。苦笑を滲ませたそれは、人を小馬鹿にしていると受け取られても仕方のないものだ。ぐっと距離を詰め、黒髪の束を耳にかけながら蓮の耳元に顔を寄せてきた螢に対し、蓮は思わず固まって。
「"あなたの先生"に、あまりちょっかいをかけないように、ルサルカには私から言っておくから」
「な、んだよ、それ……」
「可愛らしいところもあるのね」
単にからかわれたのだと気付くのに、少し遅れた。それだけ自分には余裕が無かったことを、改めて思い知らされたのだ。どうしたって拭いきれない彼らへの恐怖心が、蓮から本来の判断力を奪っていた。
「あー、ケイずるいんだー」
「行くわよ、ルサルカ」
震える拳を握り込んで、二人の姿が廊下から無くなるまで、目を離さなかった。いざ大事な人に危機が迫っているかもしれない状況でも、自分に出来ることは、あまりにも少ない。そんなことはわかっている。これはただの、再確認。出来ることが少ないことは、思考停止して諦めていい理由にはならないと、蓮は思うから。何か、あるはずだ。守りたい人たちを守る方法が。自分に出来ることが、何か。二人が転校生としてここへ来て明日で一週間──あちらの出方を窺う日々も、この辺りで終わりにするべきなのだろう。彼らは恐ろしいが、後手に回ってしまって取り返しのつかないことになるのは、もっと恐ろしい。そろそろ、行動に出るべき時だった。