暗闇のなかで

 普段通りの、続いていく日常の中の一日として、藤井蓮は今日という日を終えようとしていた。

 小さな変化、新たな出会いはあったけれど、そこから早々大きく何かが変わるわけでもない。
 この物騒な時期、女だけでは不安だという理由で教会に呼び戻されただったが、同じく呼び戻されたヴァレリアの存在により、お役御免となったらしい。「ここは大丈夫ですから、藤井さんたちを送ってあげなさい。なにかと物騒ですからね」という蓮たちへの優しさなのかへの私怨なのか、真意の不透明な神父からの提案にはあっさりと頷いて見せ、蓮たちを送るついでに自らもいつものアパートに戻ることに決めていた。蓮に言わせれば、自分たちを送るもなにも何かあった時真っ先にやばいのはだろう、だ。身体つきは細く、頼りない。そんな印象を、が裏切ることはなく。身長こそ蓮より高いが、その身体の薄さは服の上からでもわかるくらいだ。儚げと、女がそんな耳触りの良い言葉で表現するのをよく耳に入れるけれど、結局のところひ弱なだけだろう。不摂生のせいか、虚弱気味な体質も含め。何かあったら私が守りますからね! と意気込む香純に、「頼んだ」と素直に返すこの教師にプライドはないのだろうか──なんて、呆れながらアパートへと帰って。そして。

──どうしてこんなことになったんだ?

 肌を刺すような冷たい空気を感じ取りながら、藤井蓮の頭の中をぐるぐると回るのは、そればかりだった。深夜を回った冬の公園は、人の声も虫の声もない。全てを包もうとするひっそりとした深い闇に抵抗するように、いくつかの外灯が白い光を放ち続ける。そんな光も、今は蓮の意識の外に追いやられていた。目の前が真っ暗になりそうな絶望が、彼に迫っていたからだ。
 部屋で、いつもと同じようにベッドに入ったはずだ。気が付いたら人を殺す夢を見て、それが徐々に妙な現実感を伴ってきて、夢と現実の境界が曖昧になってきたと思ったら、いつからか夢ではなくなっていて。見たこともないような怪人が、現れて。
 圧倒的な暴力を自身が行使した可能性と、見知らぬ者らに行使された現実。その両方に蓮は怯えていて、身体の奥からせり上がってくる吐き気と絶望に思考はまとまる気配がない。閑静な公園は、何の変哲もない公共の施設であるかのような顔をしているが、蓮にはそこが日常とかけ離れた不気味な場所としか認識出来なくなっていた。本当は、一秒たりとも留まりたくないのだ──少し前まで、首の無い死体が転がっていた。ベンチも鉄柵もおよそ人とは思えない力で、正体不明の化物の手で抉られ尽くしていた。そういう惨状を、知っているから。
 誰かの"処理"とやらのおかげでそんな形跡は一切無いけれど、蓮は確かにその目で見た。それを現実のものとして受け止めているからこそ、押し潰されそうな恐怖と不安に苛まれている。逃げ出してしまいたいのに、ベンチから立ち上がる気力が足りない。縫い付けられたようにそこに腰掛けたまま、蓮はだらりと頭を垂れて、幾何学模様が描かれたコンクリートを見つめ続けた。そして、問い続ける。
 "あれ"は自分がやったのか? あのヒトとは明らかに違う妙な奴らは、一体なんだ? 何故自分が巻き込まれている? 疑問は掃いて捨てるほど出てくるのに、自身の中で処理出来そうなものは一つもなかった。深い深い穴の底に、一人取り残されたような恐怖。辺り一面真っ暗なそこで、誰も自分を呼ばないし、この手を取ってはくれない。あの楽しかった日常に、戻れない──
「本当に夜行性だな、この不良少年」
「────っ」
 どうしようもない非日常の真ん中で、頭上から降ってきた声は、日常の形をしていた。
「……せん、せい?」
 そろそろと顔を持ち上げれば、見慣れた冷めた美貌が、煙草を銜えて、つまらなさそうに蓮を見下ろしている。昼間に学校で見た時と同じスーツ姿は、深夜の公園という場所において、異質だった。そのアンバランスさに、あまりにもいつも通りな彼の態度に、吐き気は薄らぎ、それとは別のものがこみ上げそうになるのを感じながら。
「なに、やってるんですか」
「取り締まり。きみみたいな不良生徒の」
「嘘でしょう」
「嘘だけど」
 茫然としながら、ついいつもと変わらない日常の一部であるかのような会話を、交わした。
「忘れ物したから、教会にな。トリファに捕まって長話を聞いてたら、この時間だ。今からアパートに戻る」
「それは……災難、でしたね。いや、そうじゃなくて。あんた大丈夫なのか? なんとも、ないのか?」
「なんだそれ」
 安堵が落ちてきたと同時、頭が僅かに冷静になって、後に蓮の中に強く浮上したのは、焦りだった。まだあの化物みたいな奴らがこの辺りをうろうろしているかもしれないのだ。あの教会で会った人間を、あの赤毛の少女は──「あなたの友達、皆殺しにしちゃうからね」 
 ひゅっ、と小さく息を吸った。
「……っ、妙な奴に、襲われたりしてないかってことだよ」
「変質者には慣れてる」
「真面目に聞いてくれ……!」
 今思い返しても、心臓を鷲掴みにされたような悪寒が止まらない。あれだけ重かった腰が反射的に浮き、ベンチから立ち上がった蓮は勢いに任せての細い両肩を掴む。その反動で、が銜えていた煙草を落とす。彼は落下したそれに視線をやることなく、透明感のある碧い両の目で真っ直ぐに蓮だけを見て、逸らさない。
「だいたい、なんでこんな物騒な時期に、夜中に一人で歩いてるんですか。おかしいでしょう」
「きみは」
「俺はいいんだよ。あんたただでさえ貧弱だし、殺人犯に会いでもしたら、絶対に逃げ切れないだろう……!」
 どんなに蓮が必死に訴えても、は眉一つ動かさず、こちらの警告をどう受け取っているのか、まるでわからない。
 彼に何もなかったことは、無事な姿を見れば察しはつく。ただ、今この公園に存在するだけで、彼の身が危険に晒されているも同然である事実に変わりはないだろう。例の少女の口振りでは、教会にいた面子は顔を確認されていると思っていい。最終的に、教会をどうにかするなんてできない、と彼女は言ったが。信用出来る要素はどこにもないだろう。
「おれには、なにもなかった。きみには、なにかあったようだが」
 の細く弱そうな手が、肩を掴む蓮の左手に、重なった。
「震えてる。なにがあった」
「…………っ」
 その瞳に、蓮を心配するような色は宿らない。淡白な表情も、声音もそのままで。それでも、彼の口にする"なにがあった"は、どこか特別に思えた。無関心なにしては珍しく、こちらに一歩踏み込んだような、その問いが。
 しかし、蓮は答えるわけにはいかなかった。話せば彼を巻き込んでしまうのではないかと、そんな根拠のない怯えがあった。全部吐き出して、すっきりしたような気分になれるのは一瞬だ。何の解決にもなっていない。
「言いたくないなら、いいさ」
 一言も発さない蓮に、短くがそう告げた。突き放すような響きではない。
 彼は、蓮の手を離さなかった。その温もりを意識したら、ささやかな安心に急に肩と足から力が抜けていく。恐怖はある。あの一連の出来事を一人で抱える孤独もある。でも、視界は黒一面ではなくなっていて。ベンチへと逆戻りした蓮の手は、やはり解放されなかった。否、いつの間にか、蓮がの指を握り込んでいた。いかないでくれと懇願するように。そしてそれに応えるように、彼もまた指を絡める。
 今酷く安堵してしまうのは、に対しこんな時にこんな場所を歩かないで欲しかったと考える反面、彼がいてくれてよかったと心から思ってしまうのは、あの冗談みたいな悪夢の直後だからだろう。五体満足で、普段と変わりのない青年が、普段より少しだけ優しい。なんだか笑いたいのか泣きたいのかわからなくなりながら、次に蓮が口を開いた時、出てきたのは言葉ではなかった。
「おっ──えぇ──はあ……っ、ぅえ………っ」
 気を張っていたせいなのか。急激に吐き気が戻ってきて、そのまま地面に胃液をぶちまけた。身体の重たさを支えきれず、吸い込まれるようにベンチへと落ちる。は身を引くでもなく、手は繋いだまま腰を低くすると、空いている手で蓮の背中をゆるゆるとさすった。情けなさで死にたい、という気持ちがないでもないが、同じくらい今はとても、ありがたい。
「落ち着いたら帰るぞ。おれの部屋、来るか」
 綾瀬が起きるまでに自分の部屋に戻ればいいだろ、と何気なく続けたを、蓮は眩しげに見上げる。外灯に照らされ続ける、こちらを見下ろす整った容貌は、闇がよく似合っていた。似合い過ぎて、瞬きするような瞬間、背筋が冷える。すぐに忘れ去ってしまうような、錯覚みたいなものではあった。
 案外教師らしいとこあるんですねと言ってやりたかったが、生憎蓮の身体にそんな体力も気力も残っておらず、力無く頷くしかなかった。この教師は、以前からこういうところがある。無関心で無責任に見えて、彼は時折とても"大人"だ。それが嫌味であり、そこに助けられている一面もある。現に今、この手を、離せる気がしない。
 背中をさすっていた手に、不意に頭を撫でられたら、なんだか泣きたくなった。この教師の前で涙を見せることは、絶対にしたくないけれど。


(20171027)
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