日常への帰還
頭がおかしくなったのかと思うような光景だった。気がついた時には、街の広場に鎮座する似つかわしくない物騒な処刑器具──断頭台に、己の首を飛ばされる寸前だったのだ。身体も首もしっかりと固定され動かせず、眼前に広がる民衆たちの視線に晒され続けるその現実から目を逸らすこともできない。皆が、この場に存在する全員が、自分──藤井蓮の処刑を願って、血が欲しいと歌っていた。繰り返され続ける、聞いたこともない異常の塊のような恐ろしい歌。観客全員が狂っていたし、蓮も狂いそうだった。ふと蓮の顔の傍に、誰かがしゃがみ込む気配。視線だけでなんとか顔を確認しようにも、逆光でそれは叶わない。恐らく死刑執行人であろう彼は、蓮にしか拾えないような細い声で、呟いた。
──ごめん
その声は、あまりにも耳馴染みがよくて。けれども、その声では聞いたこともないような、申し訳無さに濡れていて。それが誰であったのか、見当をつけるのに数拍遅れる。
「せん──」
その声の主を自分はよく知っているはずなのに、夢から醒めた直後には、その名が頭からすっかり抜け落ちていた。
*
特徴的な不健康の香りが、ベンチに腰掛けたまま船を漕いでいた藤井蓮を、浅く覚醒させた。彼の嗅覚を刺激した犯人は、直後に聴覚に語りかけてくる。
「よう、サボり魔」
冬の屋外は確かに身体を冷やすけれど、昼間は太陽という熱源のおかげで、案外留まれない程ではない。月乃澤学園の学園の屋上も、陽の光の恩恵を直に受けられる良きスポットの一つだ。しかも本格的に冷え込んでくるこの季節、休み時間に屋上で過ごすという選択肢を選ぶものはごく少数である。つまり誰の邪魔も入ることのない貸し切り状態も頻繁に有り得る話で、それは一部の生徒にとって非常に都合がいい。授業中ともなれば生徒どころか教師すら寄り付かない、格好のサボり場所。それは蓮が復学しても変わらないもののひとつだったはずなのだが、サボりに来るのは、なにも生徒だけではなかったらしく。
閉じていた目を少しずつ開いていけば。眩い光に包まれながら、冬の澄んだ空気を害の塊のような煙で穢す、美しい男が姿勢良く立っていた。人の目を惹く金色の髪と、欧米人特有のはっきりとした目鼻立ち。両の目に埋め込まれた空の色よりもやや霞んだ青色で無感情に見据えられたら、付き合いの短くない今でも偶にどきりとする。彼が着用するダークグレイのスーツのジャケットは、ボタンが上も下も留まっているのを見たことがない。
「サボりはお互い様なんじゃないですか、先生」
「おれは自主休憩」
「その理屈が通るなら、俺だってそれで通しますよ」
「いいけどね。自己責任で」
「もちろん」
ならいい、とおよそ教師とは思えない適当さと無関心さで、・は煙草の吸い口に、薄い唇をつけた。生徒である蓮の目の前で、なんの躊躇いもなく。この男は元来教師らしい倫理観に欠けたそういう男だと納得しているが、"彼のサボり場"である旧資料室以外で、煙草を取り出すこと自体が珍しい。察するに、今は受け持ちの授業がない時間であり、本来は旧資料室で煙草を吸っている時間だったのだろう。しかしは現在わざわざ屋上まで上がってきては、ベンチでぼんやりしていただけの蓮を見下ろしている。
「もしかして、俺になんか用がありました?」
もしかしたら、と半信半疑な期待があった。この一見血も涙も持ち合わせが無さそうな冷めた教師でも、副担任とは言え受け持ちクラスの生徒を心配して見せるくらいは、するのかもしれない。蓮の入院中、一度だけ見舞いに来たは勝手にリンゴを持ってきて勝手にリンゴの皮を剥いて夕食と称して勝手に食べて帰った。あれ何がしたかったんだよ。
「おめでとう。退院」
「……え?」
あまりにもあっさりと想定の範囲内ど真ん中に収まる言葉が飛んできたものだから。会話の流れはなんらおかしいものではないのに、蓮の反応は質の悪い告白でも聞いたかのような訝しげなものになってしまった。ゆるく冷たい風にのネクタイが軽くはためくのを、どこか間の抜けた顔で視界の端に捉える。
「なんだ、その顔。めでたくないのか」
「あぁ、いや、そうじゃないんですけど。ちょっと意外だったんで」
「俺が、自業自得で入院したクソガキの退院を、祝ったらおかしいか?」
「あんたがそういう奴だから意外だって言ってるんですよ」
言い方は努めて嫌味ったらしいものではあった。ただし自業自得というその単語にとりあえず反論はないので、強く言い返すこともできそうにない。
「綾瀬も玲愛も、この一ヶ月、どこか浮ついてた。きみらのおかげでな」
「そこは俺が謝るところ……なんでしょうね」
「いや、べつにおれに謝る必要はない。まあ戻ってきてよかったとは、思う」
本当に心の底から思っているのかと問いたくなるような無表情で、彼は淡々とそう告げた。"きみら"とは言うくせに、戻ってきたのが一人であることに、は触れなかった。香純も玲愛も、親密であったからこそ口にせずにはいられなかったであろう蓮の喧嘩相手について、彼はただの一度も蓮に訊ねたことがないのだ。それがなんだかむず痒かったから、蓮は退院して初めて、自らすすんでその名前を声にした。
「聞かないんですか、司狼のこと」
「遊佐? なんで」
「見舞いに来てくれた時も、あんた何も聞かなかったでしょう。もしかして、あっちに何か聞いたとか?」
それならば、何も訊いて来ないことに納得はいく。人差し指と中指に挟まれた煙草の先が灰になっていくのを眺めながら、返答を待った。は、もったいつけるような間を置いて、細く白い息と煙が混じったそれを、細く吐き出す。
「さあな。どちらにしろ、遊佐の心配はしてない。きっと今頃、自由を謳歌とかしてるだろ。あの面白い身体で」
「それに関しちゃ概ね同意しますよ。それより何と言うか、あんた結構、どうでもよさそうですね」
「事実、どうでもいいんだ。あいつもきっと、同じだよ」
そこには先程向けられたような嫌味ったらしさも、司狼という人間を貶めるような素振りもない。まるでこの冬の冷たくもからっとした、濁りのない空気のような。一種の潔さすら感じてしまいそうな、あっさりとした口調だ。そこに良いも悪いも感じられない。ただただフラットそのもので、蓮はどう反応していいかわからなかった。そしては本当にさして興味も無さそうに、「寒いな」と間もなく別の話題に移っている。
「冷えるね、ここ。風邪ひきそうだ。ちょっと顔見に来ただけだし、戻るよ」
「そうですね。先生、ただでさえ身体弱いんですから、こんなとこ長居しない方がいいですよ」
「弱いわけじゃない。きみも、戻った方がいいぞ」
「おれはあんたと違って若い上に健康体なんで、お気遣いは結構です」
「入院して性格歪んだなきみ」
「先生に言われちゃおしまいですね」
たしかにと短く頷いたは、スーツのポケットから取り出した携帯灰皿に煙草を突っ込んで、踵を返す。そのまま見送るつもりだったのだが。うっかり「先生」と強めに呼び止めたのは、蓮が先刻氷室玲愛から聞いた不穏な話に関係して、彼に確かめたいことがあったからだ。殺人現場を目の当たりにしてしまったという話を玲愛はいつも通り淡白に話していたが、彼女は彼女なりに不安を感じていたはずで、きっとその不安をにも伝えているはずだ。この玲愛に更に輪をかけて淡白な男が、それに応じるのかは蓮の予想出来ないところで、どうするつもりなのか聞いておきたかった。
「そういえば先生、氷室先輩から……その、聞きました?」
「ああ、聞いてる。おれもしばらくは、教会に戻ることに、なった」
「そう、ですか。よかった。そうですよね、先生も一応、男手ですし。いないよりましって言うか」
「言うね。覚えてろよ。次のテスト」
「おい性悪教師」
そう言葉にしてから、その単語を頻繁に使っていた友人であった青年が隣にもういないことを、再び認識した。そんな蓮の心情を察しているのかいないのか、不真面目な教師は底意地悪く小さく笑って、今度こそ扉の向こうへと消えていく。
久しぶりに顔を合わせても相変わらず感じの悪い男だが、正直彼がそうあってくれて安堵した一面もある。日常が一部欠けても、変わらないまま続いていくものがちゃんとあるのだと思い出せてくれるのだ。例えば、幼馴染や先輩との何気ないやりとり。例えば、屋上の貸し切り。・は、藤井蓮にとってその変わらないものの、ひとつだった。