ある長官と少年の話

 その男にとって、女は駄菓子であった。
 曰く、欲しい時に幾らでも転がっている物の一つ一つに拘っていても切りがないと。欲しい女を引き寄せる程度、全てを手にしたラインハルト・ハイドリヒにしてみれば出来る出来ないなどという域にないのだ。モノにするのは至極当然に行き着く結末。傅かれることに何ら疑問は挟まれない。彼には、それが事実であったから。
 地位があった。名誉があった。完璧なアーリア人だと持て囃される容姿を持っていた。その立場に見合うだけの功績を、積み上げてきたのだ。それらに吸い寄せられるように、男も女も彼の元に集う。ラインハルトはそういう己を、彼らを、恐ろしく冷静に捉えていた。傍からは驕っているように映ったかもしれない振る舞いは、その実そんなものではなく。ただそこにあるべきものとして、相応しいようにやってきただけのこと。そういうものを足元から積み上げていったら、見える景色は自動的に様変わりしていく。道理だ。のちに、女は好きな時に好きなだけ手に入る安価な菓子同然であると、そういう認識になった。
 その過程で。安価な菓子ではない女も、いた。



 1939年、8月。ラインハルト・ハイドリヒは、保安警察長官という地位にいた。着実に一歩ずつ、彼の足場は高みへと上がっていく。それを、誰もが感じていた。相変わらず女を手に入れるのは容易いが、女を抱く場所は選ばなければならなくなった。人のモノには手を出せず、プライバシーの都合上安い娼館は使えない。数年前、持ち前の女癖の悪さが要因となり、一度妻とは第三者を巻き込み、人が一人命を落とすかもしれないところまでどうしようもなく、盛大に揉めた。結果、欲しい時にいくらでも転がっているという認識を改めることはなかったけれど、時と場所には少し慎重になったのだ。
 シャルロッテンブルク区ギーゼブレヒト通り11番地──そこにひっそりと建つ、サロン・キティと呼ばれる高級娼館。ドイツ各界の上に立つ者、所謂要人たちがよく利用するという噂が絶えないその場所の話は、ラインハルトの耳にもよく入ってきていた。娼館の前に高級、と付くからにはそれだけの理由がある。女の質が良いこと、客のプライバシーが厳守されていること。察するに、大きくはこの二つだろう。利用者はそれをよく知っていて、この店を信用している。ベッドの中で気を緩ませ口を緩ませたとしてもその内容は"守られる"と、固く信じているのだ。つまり、ラインハルトが部下を駆使して探らせようとしても手繰り寄せられない情報が、あの娼館にはごろごろしている、はず。彼はそこに目をつけた。視察という名目の下、件の娼館に自ら足を運んだのは、8月半ばのことだった。
「──あれは」
 一人、ラインハルトが目をつけた者がいた。ごく普通の、クリーンなアパートメントであるような顔をした入り口で、派手な衣装に身を包んだ女主人の出迎えを受けた二分後。数人の女性が行き交う中で、一際目を惹く女が視界を横切り、つい視線で追った。正確には、まだ少女といった年頃。ふと立ち止まった彼女が、にこりともせず、不躾にラインハルトを見つめ返す。
 化粧っ気もなく、格好もまるで女性らしさとは程遠いというのに、しかしその場に存在する誰よりも華やかで、異彩を放っていた。緻密な計算の果てに造り上げた人工物のように欠けたところのない造形は、表情が無ければ本当に魂のない人形めいている。前髪の間から見える両の目にはめ込まれたガラス玉のような碧くぱちりとした瞳は見る者に鮮やかな印象を残し、やや長く伸びた金の髪は一切のもつれも傷みもなく、艷やかさだけが留められていた。ラインハルトが目を止めた理由は、ただ美しかったというそれだけではなく。その異様に整った姿形、愛想の見当たらずどこか気の強そうな表情は──いつか、刹那的に関係を結んだ女を、想起させた。顔も身体も、一級だった。駄菓子と切って捨てるにはあまりにも出来過ぎた女。十三年前、まだ若輩であった自身が想定した、"かたちは"ある種好みそのものと言っても過言ではない女と。それはとてもよく似た顔をして。幼くはあるがあの時の女よりもずっと完成された、最早文句のつけようのない見事なかたちをした女が、ラインハルトをじっと見ている。たかが昔の、若造だった己の、理想だ。そう理解して尚、何だか据わりが悪い。その理想であったものに重なる別の面影が、頭の隅に引っかかるからだろうか。
 くたびれたワイシャツに、膝上丈のズボン。たったそれだけの、貧乏じみた子供の服装なのに、少女には奇妙な優雅さがまとわりついていた。娼館特有の淀んだ空気の中に置いておくには、あまりにも、静謐で、浮いている。
「キティ。だれ、そいつ。案内、しないのか」
 少女はラインハルトの青目を見つめたまま、女主人に問う。 高い声からは、思いのほか礼儀がごっそり消えていた。女主人の顔がさっと青ざめるのが、気配だけで感じ取れた。
「やめなさい、お客様ですよ。申し訳御座いません、中将閣下。あれはまだ入って日が浅いものですから。すぐに下がらせますので」
「構わんが、一つ教えてくれ。客を取るのか、あれも」
 よく見なくともまだ子供だ。しかしただの子供だと笑って済ませるには、どうも大人び過ぎていたし、"何も知らない"幼い少女の佇まいとは、とてもじゃないが思えない。
「ええ、まあ……普段は雑事をさせておりますが、少しだけ。まだ礼もなっていませんし、閣下の目に止めて頂くようなものではありません。すぐに相応しい者を用意致します」
 答える口調は、どうも歯切れが悪かった。
「あれほど見目の良いモノは、このサロン・キティと言えども、そう転がってはおるまい。給仕という使い方が、この店にとって最善であるとは思えんが。礼儀以外に、何か使えぬ事情があるのかね」
 児童性愛の気は無いと断言出来るが、困ったことにこのまま見なかったことにして別の女を選び直す気にもなれない。抱きたいわけではないものの、見過ごせないのだ。横目で彼女を確認すれば、あからさまに面倒に遭遇したような表情──を、抑え隠そうとしているように見えた。出来ればあれを見られたくなかった。そんな様子だ。咳払いを一つして、女主人が怪訝そうに眉を寄せ、口を開く。
「申し訳ございません。どうかご容赦下さい。あれは……男なのです」
「……男?」
 改めて、ラインハルトはそれを、上から下まで眺めた。不健康そうな薄い身体は、男にしろ女にしろ抱き心地が良さそうとも思えない。この年頃の子供の身体つきなど、まだそう大した違いはないだろうが。もっとも、少女──否、少年であるらしい子供にラインハルトが興味を惹かれたのは身体ではないので、そこは問題ではないのだが。不意に、彼がこちらへと足を向けた。ラインハルトを視界の真ん中に捉えたまま、彼の前で立ち止まる。ここにきて初めて、子供が微かに笑みを作った。人を誘い込むような、艶やかな笑い方は、子供らしさとは駆け離れている。
「あんたが、ラインハルト・ハイドリヒ?」
!」
「よい。そうだと言ったらどうする、少年」
 少年の瞳に宿ったのは、安堵に似た何かだった。
「今夜、ぼくにしといたら。どう、中将さん」
「生憎と、稚児趣味は持ち合わせておらぬな」
「些細な問題だ。ぼくはあんたを、満足させる。約束するよ」
 異質な容姿と、大人ぶったような言動は、なんだか妙に彼に似合っていた。垣間見えるのは絶対的な自信と不純な思惑のようなものであったが、その中に縋るような、求めるような光を錯覚すると、その正体が知りたくなった。
 最早無視出来ぬのなら、乗せられてみるのも一興。分の悪い賭け事に興じるかのようなある種の嫌な予感とも呼べるそれが、今は別のものに変換されていくのを感じながら。
「期待しよう」
 ラインハルト・ハイドリヒは、その日"誰かに似た"一人の少年を選んだ。


(20180525)
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