Introduction08
女三人寄れば姦しい──ああ本当にその通りだよと藤井蓮は誰にでもなくぼやき、闇が広がる深夜に、快適な室温である自室から、一段と温度の下がる外へと繰り出した。コンクリートの硬さをスニーカー越しに感じながら、施錠をする。五月に入ってだいぶ暖かくなったとは言え、この時間帯は昼間よりそれなりに肌寒い。ジャケットを羽織って来なかったことをちょっぴり後悔したけれど、取りに戻る程の寒さでもなかった。
別段用事があったわけではなく、連休を利用して幼馴染兼隣人の綾瀬香純が友人を二人ほど家へ招いた結果、格段に騒がしくなった隣に耐えかねて出てきただけだ。ただでさえ壁が薄いアパートには、隣室直通の大きな穴が空いている。日曜大工で案外丁寧に作られた両開きの扉で塞がれているとはいえ、音漏れが防げるほどではない。つまり普通のマンションよりもずっと隣の音がよく響いてくるので、騒がれると普通にやかましい。女子同士の会話が勝手に耳に入ってくるのも、正直気まずい。注意に行こうにも、一応自身のクラスメイトでもあるらしい香純の友人たちと顔を合わせることを考えると、どうも面倒臭さが先に立った。どうせ今日一日だけの我慢だ。あちらがさっさと寝入ってくれれば静かになる。それまでの短い間、コンビニ当たりで暇を潰そうと思い立ち、蓮は部屋を出たのだった。せめて逆隣の遊佐司狼が部屋に居てくれたら、そちらに避難できたのだが、こういう時に限ってあの男は外出している。タイミングの悪い男だ。
「藤井?」
そしてこちらもまた、ある意味タイミングの悪い男であった。アパートの階段を一階分下りた二階、鍵がかかる物音につい視線を向けたら、寒々しい青白い色合いをした蛍光灯の下に立つ、よく見知った顔がいた。蓮と同じく、今正に部屋を出ようとしていたらしい。大型連休真っ只中の、こんな時間だというのにスーツ姿の・は「夜中に買い物か?」と続けながら錠から鍵を引き抜く。姿勢を低くし、その玄関のすぐ横、不自然に置かれている茶色い植木鉢の下に銀色の鍵を挟んだ。一連の動作を蓮に見られていることを、少しも頓着していない。
「いやあんたそれはさすがに不用心過ぎません?」
「何故?」
「俺、先生が鍵をそこに隠すのをばっちり見てましたよ」
「つまり?」
「俺が悪用する可能性を疑って下さい」
「悪用も何も、不法侵入が精々だろ 。残念ながら何もない部屋でな」
盗られて困るものがない、と続けて、は先程施錠したばかりの扉をどうでもよさそうに横目で見た。その奥には、゛何もない部屋゛が広がっているのかもしれない。実際に目にしたわけではないので、その何もない、の程度は測りかねるが。
「それできみの深夜外出は、不法侵入のためか」
「ちょっと暇潰しにコンビニへ行こうとしてただけです」
「こんな時間に暇潰しとは、夜行性極まってるな」
「好きで夜行性やってるわけじゃないんですけど。大人しく寝られるもんなら、とっくにそうしてる時間ですし」
「寝られないんだ」
「隣の部屋の住人が友達呼んでまして」
「向かって右か?」
「向かって右です。そういうことなんで、今日はあいつらの就寝時間が、俺の就寝時間ってところですね」
「苦労するな」
何か考え込むように、は顎に手をやって、再び自室を一瞥する。先生もコンビニですか、と訊ねようとして蓮は口を開きかけたが、声を発するのはの方が僅かに早かった。
「──藤井、おれの部屋に来るか」
聞けば、は何故かこんな真夜中から予定があって、今日はもうこの部屋に帰らないつもりらしい。彼が自室に蓮を宿泊させることを提案したのは、そういう理由だった。
*
蓮が通された、煙草の匂いが強く残るその部屋は、人が住んでいるとは思えないくらいに何も存在していなかった。家具は部屋の真ん中にアイボリーの大きめのソファが鎮座しているだけで、テーブルも無ければベッドもない。電化製品と呼ばれるものは、備え付けのエアコンと照明を除けば後は何一つ見当たらない。食器も、調理器具も同様だ。料理をしない蓮の部屋にだって、食器や冷蔵庫や電子レンジ、鍋くらいは常備してある。質素なんてレベルじゃなく、生活感がここまで徹底的に排除された部屋を、蓮は初めて目の当たりにしたかもしれない。モデルルームの方がずっとましだ。間取りは自室と同じなだけに、それが余計に異常に映る。
「先生、本当にここに住んでます?」
「住んでるけど」
「どこで寝るんですか」
「ソファかな」
「自炊……は、聞くまでもないですね」
「外食万歳」
あまり食事をする習慣がないとも言っていたはずだ。それなら調理器具が無いのも頷ける。しかしカップ麺の残骸の一つも見つけられない辺り、やはりここで生活しているというのは信じ難かった。
「おれの部屋はそんなにおかしいか?」
「まあそこそこ、控えめに言ってもおかしいと思いますよ」
「はっきり言うね」
家とは、帰って来る場所だ。一日の疲れを取る場所で、自分がリラックス出来る場所であって然るべきだろう。このシンプルを通り越して何もない部屋に帰って来て、果たしてこの男は心から落ち着けるのだろうか。住めば都とはよく言ったものだが、これは家と言うよりただ寝に帰るためだけの場所だ。
「きみたちの部屋よりは確かに、何もないかもな。でも、不便に感じたことはないよ」
淡々とそう話すの背景にあるのがこのがらんどうの部屋だと考えると、妙にしっくりくるような気がした。何の温かみもなく、人の住処としてはこれ以上なく冷め切った室内。何だか少し不気味で、寂しくて、その印象が、時折に対して抱くそれと重なるのだ。完成された美術品のような、もっと言えば人間らしさからやや離れた美しさを惜しげなく放つ彼の中身は結構ずぼらで、口が悪く、性格も悪いと蓮は知っている。そこには確かに人間臭さが存在しているのに、ふと彼の顔から感情の一切が消える瞬間は、ぞっとするような、無機質な冷たさを錯覚してしまうのだ。見た目ばかりが華やかで、中身が空っぽの、まるで本物の人形のように。数いる教師の中で恐らく一番話しやすいのは良くも悪くもだが、その瞬間を過ぎらせると、一番苦手なのもだった。
「そもそも帰って来ない日も多い。休める物置であれば、なんでもいい」
「物置として機能してるかどうかも怪しいですけどね、ここ。もしかして、半同棲中の彼女でもいるんですか」
「それは実に、可愛らしい発想だ」
「今俺馬鹿にされてます?」
「してないよ。それとその推測は外れてる。恋人は、いない」
でも帰って来ない理由は女性だろうと何の根拠もなく確信した。一見好色には見えないが、彼も男だしこの見た目だ、そういうことがあっても何ら不思議ではない。詮索の必要は感じず、蓮はあっさりと引いた。もこの話題を引っ張るつもりは無さそうで、彼の関心はそんなことよりも自宅が蓮の宿として有用であるか否かに傾いているらしかった。
「ここで寝られそうか」
「はい。少なくとも今の自分の部屋よりは、きっとよく眠れますよ」
「そうか」
ぐるりと一度部屋を見回してから、に向けてそう言った。薄気味悪い部屋ではあれども、静かに眠れる場所という点で、条件はクリアしている。多少落ち着かないのは自室で無ければどこへ行っても同じだろうと結論しておく。
「おいで。ソファの使い方、教えておいてやる」
がソファに近付きながら、蓮に手招きをした。使い方ってなんだよと思いつつソファに歩み寄ると、彼はソファの背もたれと肘掛けを、順にぐいと押し倒していく。なるほどソファベッド。
「横になってみろ」
「え、いまですか」
「いま」
当初全長140センチ程度に見えたソファが、今では蓮の身長をすっかり越すくらいに広がっていた。気圧されて、促されるまま、ごろりと横たわってみても、はみ出すことなく何の窮屈さもない。枕代わりのクッションもあるし、ソファはふかふかとはいかないものの案外寝心地は良さそうだ。ソファ本体に染み付いてしまっているらしい煙草の香りは少し鼻を擽るけれど、安眠を妨害するほどでもない。慣れてしまったというのもあるだろうが。
「どうだ」
「思ったより、悪くないです」
「それはよかった」
は満足そうに頷くと、おもむろに羽織っていたスーツのジャケットを脱ぎ、蓮の肩から下にかけた。これはつまり掛け布団やタオルケットといった類のものも置いていないから代わりにしろということだろう。今の時期はいいが、冬はどうしていたのか。
「何もないよりましだ」
「いいですよ、皺になりますし」
「いいから」
その声が存外に優しくて、蓮はそれ以上拒む言葉を出せなくなる。部屋に戻ってタオルケットを取ってきますという提案も、何故か飲み込んでしまった。
何か言いたげにじっと蓮を見下ろしていたは、不意にベッドサイドに浅く腰掛けた。上半身を後ろへ傾けながら、肩越しに顔を向け、真上から蓮を覗き込む。照明の昼光色が遮られ、蓮の視界は口の端を微かに上げた彼一人だけに、占領された。アイスブルーの瞳に、どこか間の抜けた自分の顔が映り込んでいる。それが確認出来てしまうほどに、顔が近い。こちらの視界にしかいないのと同じように、また彼の視界にも自分しかいないのかと、そんな益体もないことを知った。この距離で眺める彼は、とても新鮮だ。
「昔な」
がベッドに肘をつくと、端正な容貌がまた一段と間近に迫り、煙草の匂いが強くなる。今の近さに嫌悪感はなく、いつものような緊張感も、今日はなかった。今のから感じ取れたものが、蓮の苦手なそれとは正反対だったからかもしれない。
「おれと玲愛を残して教会から誰も居なくなる日は、あいつが寝る時、こうやって話をしてやったんだ」
あるいは、蓮を通して人並みに遠い日を懐かしむ彼から、温度のある人間味が見えたからかもしれない。
「意外と面倒見良いですね」
教師に対して述べるべき感想ではなかったと気付いたのは口に出してからだ。いやいやそんな風に思わせるが悪いだろう、と蓮が考えを百八十度逆転させるまで、一秒と経たなかった。はで、自分が失礼なことを言われている自覚は無さそうだ。
「どうかな。無理しなくていいよって、玲愛に何度も言われたけど」
「してたんですか」
「してたな」
苦笑を滲ませるその表情には、どこか親しみが篭っていた。がごく自然に玲愛と口にしているのは蓮にとって背筋がむず痒くなるくらいには違和感だったが、二人の関係を考えると当然の呼び方だ。この薄情そうな男に似合わない、他人以上であるらしい関係の少女。
「あいつガキの頃から結構目が堅くて。放っておいたら一晩中本とか読んで起きてんだよ」
「あの人年季の入った夜行性だったんですね」
「昔は監視が必要なくらいな」
意外でもなんでもなかった。印象通りである。
「早く寝ろっておれの言うことなんて聞きやしない。手こずった結果、力ずくで寝かしつけてた」
「力ずくって」
それは穏やかじゃない。何したんですかと目で問うても、それを十中八九察しているはずのは勿体つけるように笑うだけで答えてくれない。 焦らすほどのことでもなし、答える気ないならいいですと切り捨てようとしたのだが。
気付けば、先を促す言葉を発することを忘れ、視線が縫い付けられたかのように、の瞳から目が離せなくなっていた。離すのがもったいないとも感じる自分に驚く。緻密な設計の下で造られたかのような、およそ欠点の見当たらない端正が過ぎる顔。そこには蓮が彼以外の誰に対しても抱いたことのない、得体の知れない気味の悪さが確か在った。けれども、だからこそ彼は余計に人目を惹き付けるのだと、この至近距離にきて強引に理解させられてしまった。あやふやで、底が見えないからもっと覗き込みたくなるのに、近付くほどに惑わされていくような──それは何の確証もない思い込みだろうし、今の自分はどこかがおかしくなってしまっていると自覚があるのに、やはり目が逸らせない。自分の目と鼻の先にある美貌は思考すら鈍らせていくものだと認識すると同時、それを危険なものだと、今の状況をおかしいと判じられるまともな判断力は、失せつつあった。ただこの輝きを鑑賞する瞬間をあと少しだけ引き延ばせたらと普段ならば絶対に有り得ないことをぼんやりする頭で考えかけて──ふと無言で自分を映し続ける、吸い込まれそうなサファイヤのような色が、すうと細まった。その色が視界から外れたかと思うと、突然肌色に目の前が覆われ、直後に額に柔らかいものが軽く触れる。リップ音と共に。瞬きするような間の出来事を、蓮の頭はすぐに処理することが出来なかった。蓮の眼界に戻ってきたの笑い方は意地が悪そうな子供そのもので、その声でやっと我に返り、現実を受け止めた蓮はやられた、と急激に酷い敗北感に襲われていた。いつの間にか力が入っていた身体が、弛緩していく。先の一瞬の、自分のものとは思えない、思いたくない思考を掻き消すように、 額を手の甲でごしごしと擦りながら口を尖らせた。
「……あんたさぁ」
「これで玲愛は黙って寝た」
「いや口で言えよ。俺は氷室先輩じゃないし」
「似たようなもんだろ」
「どの辺りを見て言ってます?」
「年齢?」
「なんでそっちが首傾げてるんですか」
顔の近さに引き続き、ここまでされても嫌悪感の類が湧いてこない自分を、蓮は嫌悪し始めていた。女みたいな顔してるからだとか、タイプだったとか、決してそういう新たな性癖を開拓したような話にはならない。悪い気にさせない、言い知れないが嫌いにもなれない空気感は、この男独特のものだ。薄く笑って、はソファから腰を上げた。蓮も慌てて上半身を起こす。
「もう行く」
「愛人でしたっけ」
「知り合いだよ。鍵、ここ置いておくから。出て行く時は、植木鉢の下に」
「わかりました」
この部屋の何も無さを知った今では、鍵をかける意味があるのかすらよくわからなくなってくる。テーブルに鍵を置いて、煙草の箱を片手に出て行こうとするはあまりにも身軽だった。財布すら持っている様子がない。
「藤井。避難が必要になったら、またおいで。おやすみ」
そんな言葉と共に、玄関の扉が開いて、閉じた。その時入り込んできた外気が心地よく感じたのは体温が上がっていたからだと自覚したのは、階段を下りる足音が消え去ってから、三分後のことだ。嫌な汗が滲んだ背中には案の定シャツが貼り付いていて、気持ちが悪い。結局また緊張させられていたらしい。食えないにも程がある。
これまで手伝いを頼んだり、からかいはしても連の苦手意識を察してか決して近付き過ぎることのなかったがこんなに距離を詰めてきたことにも、自分のものじゃないような思考に至ったことにも、明確な理由が欲しかった。が、眠気に侵食されかけている頭では理由をこじつけるのも面倒だ。再びソファに横になると、申し訳程度にしか身体を覆わないスーツのジャケットを肩まで引き上げる。ジャケットに染み付き、部屋に薄く満ちている煙草の香りは、眠りに落ちていく蓮を夜が明けるまで包み続けた。