Introduction06
氷室玲愛の部屋の机には、一つだけ写真立てが置いてある。黒い枠の中には、今よりもずっと幼い玲愛本人と、金色の髪を短く切り揃えた、女の子と見紛うような綺麗な顔をした少年が並んで映っていた。笑顔は二人とも心なしか控えめだった。玲愛も少年も、元より感情をあからさまに表に出す方ではなかったから。これが彼らの通常運転で、それは今でも変わらないものだと、彼女はこれを眺める度に昔日を微笑ましく想う。
玲愛が、家族と呼べる者と共に撮った写真はこれ以外にも何枚かあるが、そのどれを見ても、彼女の隣に存在するのはこの少年だけだった。育ての親とも呼べる人たちは、あれやこれやと理由を付けて、写真に撮られることを嫌がったからである。まだ教会に玲愛と、シスターと、神父の三人だけで住んでいた頃のことだ。私はいいのよ、とシスターは言う。写真はどうも苦手でしてね、と神父も言う。後に玲愛はその理由に勘付くことになるのだけれど、まだ幼かった彼女は彼らの言い分を容易くは飲み込めなかった。どうしようもないわがままを言っているつもりはなく、にも関わらず彼らは頑として同じフレームに収まってくれない。何度頼んでも答えは同じ。もういいよと諦めかけた時に神父が連れてきたのがその少年──だった。
玲愛の遠縁だと紹介された、あまり笑わない彼は、写真を嫌がらなかった。
*
「見つかっちゃったね」
ぼそりとそう零して、玲愛は腰より少し高いくらいの木製の棚にちょこんと腰掛けたまま、両手に持ったサンドウィッチを一口かじる。普段は換気も禄にされない埃っぽい室内は昼食を取るのに向いているようには見えないが、彼女は意に介していない。わかっていて、この旧資料室を利用している。静かな場所で、一人になれればそれでよかったのだ。
見つかったなどと言うわりには、焦る様子は微塵もなく。口の中のものを咀嚼し飲み込んでから、玲愛は入り口に立つ男に向け、首を傾けて見せた。相手は、細い息を長く吐き出して、腰に手を当てている。まるで先生のような真似をして、とその教師に向けて、思った。
「──氷室」
「トマトサンド食べる?」
「食べない」
「はそうやってすぐ食事をサボる。駄目だよ、人間の三大欲求を甘く見ちゃ。そんなだから私、今でもキミの一人暮らしには断固反対派の姿勢を崩せない」
「おれはもう一年一人暮らしをしてる」
「同じく反対派のリザに頼んで、いつか強制送還してもらうから待ってなさい」
「彼女は穏健派だ。そんなことはしない」
「生憎、私は過激派だから。いざとなったらなにをするかわからないよ」
「脅しには屈しない。……それより、氷室」
どうやってここに入った、なんて、やはりあくまで一生徒と対した時のような態度で通そうとすることが、他人行儀な呼び方をされることが、玲愛には面白くなかった。一年前、彼女が月乃澤学園に入学し、彼がここの常勤講師という職に就いてから、学園ではずっとこうだ。特別甘やかしてはくれない。他の生徒と別け隔てなく、平等に振る舞おうとする。別に学園でまで甘やかして欲しいなんて希望があるわけでもないものの、もう少し優しくしてくれたっていいのにと、呆れたように眉を顰めるを見つめた。今はもう、学園外で会える機会が少ないのだから。
「おれの机から鍵盗んで来たな」
「のものは私のもの」
「教会内ならそれでいい。でもここでそれは、適用しない」
引き戸を後ろ手に閉め、はやっと出入口から離れた。玲愛が自身の隣に置いていたこの教室の鍵をさっさと回収し、彼はそこに腰を落ち着ける。長い足を組んで、ジャケットのポケットに手を伸ばしかけて──何かを思い出したようにすぐさまその手を引っ込めた。誤魔化すみたいに腕組みをして見せるが本当は何をしたかったのかなんて、玲愛にはお見通しだ。いつだって染み付いたように彼から香る、煙の匂い。これも意外と嫌いじゃないのに。表情のない横顔を見上げて、訊ねる。
「煙草、吸わないの」
「おまえの前では吸わない。そう決めてる」
「リザに言われたんでしょ。いいよ、そういうの。私もう子供じゃないし。副流煙で死んだりしないし」
「きっかけは彼女だが、今はおれのルールだよ」
「頑固者」
「意志が強いと言え」
「意地っ張り」
「おまえもね。困った奴だ」
玲愛の背後の窓からは、雨粒が強く打ち付けてくる音が止まない。ここ最近は春らしい、眠たくなるほど暖かな晴れの日が続いていたので、少し肌寒く感じるくらいのこんな大雨は久しぶりだった。
苦笑を滲ませて何か言いたげなの視線から逃げるように何気なく窓から校庭を見下ろせば、青々とした葉をつける桜の木が一番に視界に入った。もうすっかり花びらは落ちてしまっている。昨日までは、その奥の校庭にサッカーボールを蹴って遊ぶ男子生徒が毎日必ずいた。雨の日を除けばほぼ毎日がサッカー日和のこの時期はわらわらと人が集まるこの場所も、容赦なく冷え込む冬になると、途端に人口密度が減ることを玲愛は知っている。それは校庭だけではなく、屋上にしてもそうだ。そして彼女は、冬の屋上が好きだった。殺人的に気温が下がる屋上は人が寄り付かなくなるから。静かな、一人になれる場所の一つ。春になるとあっという間に生徒で溢れ返ってしまうのが難点なのだが。それと、雨の日はさすがに、使えない。
そこで、このの自称秘密基地だ。 ここは本来彼が誰に遠慮することもなく煙草を吸うためだけの場所のはずで、生徒をそう安々と入れることはないのだ。つまり避難場所として都合が良かった。はぼやきはすれども玲愛をここから追い出すことも、何らかの説教を始めることもない。あまり社交的な性格ではない彼女が友人を積極的に作らないようにしていることに気付いているからだ。他人と距離を取り、孤独を選ぶ彼女の性質を、遠縁であり兄のようなこの青年はよく理解している。自覚があるのかは怪しいが彼自身も似たようなものだから、思うところがあるのかもしれない。それに、が自分を本気で拒むことはないと、玲愛には確信があった。
とは言え、あまり頻繁にここを訪れて彼が身内贔屓を疑われるのは玲愛の望むところではなく、あくまでも非常用の、一時的な避難所だと認識していた。今日は偶々、どうしても屋上に行けないからと理由をつけて。本当は少し確かめたいことがあったというのもある。がここに自分以外の生徒を入れているところを見たことがなかったというのは、つい先日までの話だ。
「見たよ。この前、一年生をここに入れてたの。やけに目立つ子たち」
彼女が見かけたのは、嫌に整った、女の子みたいな顔をした少年と、この学校では珍しい派手な髪色をした少年。綺麗な子だな、と前者の少年につい見入ったのは、一週間程前のことだっただろうか。
「可愛かったね」
「どっちが」
「女の子みたいな方」
「なるほど。ああいうのがタイプか」
「そういう話じゃないけど、うん、まあ嫌いじゃないかもしれない。……って言ったら、は妬いてくれるかな」
「妬かない」
「知ってるよ。でもちょっと残念」
真っ向からの否定は強がりでもなんでもなく、真実言葉通りであるのだからつまらないというものだった。元より嫉妬などという感情が彼の中で生まれること自体、玲愛は期待していない。妬むほど他者に興味を持たず、もっと言うと人にも物にもほとんど執着して見せないのがだ。家族である玲愛に対しては例外で、それでも彼女以外への関心の無さは極まっていて、彼女が誰とどうなろうとその相手に嫉妬だとか独占欲だとかが発生することはない。そういう、根っから淡白な性質であった。
例えば、玲愛の「のものは私のもの」を彼が容認するのも、その側面を表していると言えた。譲れないものを持たない、手放しても困らないものしかそこにないということ。世の中の大半のものを、受け止めはしても受け入れることはなく。拒みはしないが大事にすることもなく。つまり何も持たない彼は孤独なのだと、少なくとも玲愛にはそう見えている。
が自然にそういう生き方をする人間であることを玲愛が認識出来たのは、決して短くない期間一緒に過ごしたからこそだ。他者との関わり方を、一番近い位置で見てきたからだ。全てから距離をとり、独りであろうとしている玲愛と異なる点は、彼は孤独を孤独とも捉えていなさそうなところである。 彼女は自身の境遇を察した上で、独りであることを求めるようになった。一方、はきっとそうじゃない。何を考えているのか読めないというのもあるが、恐らく交流はおろか孤独も求めていないだろう。結果的にそうなったというだけのことだ。どれだけの人に囲まれても彼は決して拒絶せず、しかし溶け込むことも、有り得なかった。それが自分の在り方だと、言わずして示すように。
何を血迷ったのか似合いもしない教師なんてやっているから、ついでに結構上手くやっているようだから周囲の目にはそう映らないだろうけれど、彼は本来玲愛が羨ましく思うくらいに、いつでも何事にもどこまでも無頓着になれる人だ。その予想が外れているとは思えなくて、だからこそ、そんな彼がこの部屋へ入れるほど関わった人間が、彼女は気になって仕方がない。
「ここに誰かを入れるの、珍しいね。可愛かったから?」
「そんなわけあるか」
「じゃあどうして?」
「成り行き。でも確かに、氷室以外の生徒入れたのは、たぶん初めて」
「……ふうん」
「妬いたか?」
「妬かない」
「そう、ちょっと残念だ」
「もっと残念そうに言って」
結局、勝手に自惚れていたからなのかもしれないと、玲愛はこの靄のかかったような、言い知れぬ感情と向き合う。は無頓着で、きっとあまり優しくない人間だが、玲愛には、昔から兄のような振る舞いをする。そう振る舞おうとしている。それに応えるように、彼女も彼を兄のように思っていた。言葉は簡素で素っ気ないけれど、妹にするように手を差し伸べ、妹にするように頭を撫で、妹に向けるように、笑うのだ。 本当は笑顔を作るのも得意ではなかったくせに──他の誰でもない、玲愛だけに。初めて顔を合わせた幼い玲愛を前に、らしくないぎこちない動作で膝をついた彼を、今でも昨日のことのように思い返せる。彼女に目線を合わせた今よりも小さいは、顔を強張らせながら「今からおまえの、家族になるそうだ」なんて妙に厳かに告げていた。あまりにも真剣に、今思えばちょっと嫌そうに、そして以降の彼は宣言通りに、不器用ながらもそう在ろうとしてくれている。
その根底にある理由なんて知らないしどうでもいい。例え、向けられる興味の量が他者とほんの僅かな差だったとしても、とにかく自分はこの人の特別であることに変わりはなく、それが少しだけ、密かに誇らしかった。なので、この気持ちもどうしようもないものなのだろう。
「良いこと教えてやるから、機嫌直せ」
「べつに悪いつもりはないけど」
「藤井蓮」
「……なに?」
いつの間にか顔に出ていたのか、は玲愛の機嫌が良くないと判じたらしい。玲愛にはそんなつもりはなかったが、人の話を聞かない節のある彼はその否定を適当に受け流し、且つ可笑しな方向に気をきかせ始めた。
「おまえのタイプの方の名前。可愛い後輩の名前だ、覚えといてやったら」
「あっちは私を知らないよ」
「でもおまえは知ってる」
「知ってても、話しかけないから」
「向こうが、話しかけてくるかもな」
「有り得ない」
「わからないだろ。先のことなんて」
「……なにそれ」
べつに本気で意識してるわけじゃないし、タイプでもない。だから先なんて、と言いかけて、飲み込んだ。今のこれが大きなお世話だとかそういうことよりも、一瞬もっと先のことを思考してしまったのだ。
「──わけのわからないこと言ってないで、とりあえずはちゃんと食事を取りなさい」
降って湧いたような不安をかき消すように、玲愛は両手で持っていた半分程減ったトマトサンドを、目をまるくするの前にずいと差し出す。サンドウィッチと玲愛を交互に見て、は再び嘆息していた。
「結局その話か」
「ほら。口開けて。はい、あーん」
「ん」
は何の躊躇いもなく、彼女が目の前に突きつけてきた食べかけのトマトサンドを、当たり前のように彼女の手ずから口にする。存外大きい一口だった。手元に残ったサンドはあと一欠片といったところで、それを玲愛はそのまま口に放り込む。その距離は兄妹として適切ではないんじゃないかしら、とはいつかのシスター・リザの弁だが、二人が気に留めたことはない。口の端を親指で拭って、はどうもと短く言った。
「美味しかった?」
「そこそこ」
「ってなにを食べてもそうよね」
「そこそこって味しかしないんだ」
「それ、作った人に結構失礼だと思うの」
「おまえが作ったわけではないだろ、玲愛」
ごくごく自然に名前を呼ばれて、思わず目を見張った玲愛の様子に、は気付かなかった。名前を呼んだという意識自体、無かったのかもしれない。その証拠に、今は窓の外の豪雨に目を向けて、うんざりしたような顔をしている。
「……」
「ん、どうした?」
彼を呼ぶ声が、動揺のせいか掠れた。再度玲愛に戻った視線はどことなく柔らかく、まるで妹を気遣うようなものだ。何だか、ほっとしてしまう。直後、制服のスカートのポケットから携帯端末を取り出したのは、その控えめな笑い方が、不意に写真立ての中の彼を思い出させたからだった。
「ちょっと、そのまま」
「何故」
「いいから」
端末の背面をに向ければ、起動したカメラのフレームに収まるきょとんとした彼と目が合う。十数年前に出会った少年のと、今のすっかり立派な青年へと成長したとを頭の中で見比べた。見た目の変わらないシスター。写真を拒む彼女と、神父。一緒に写真を撮ることを嫌がらない。玲愛と同じ速度で年を重ねているように見える、。ほぼ無意識に、玲愛は"そういう意味"でも昔から彼に安心を見出していた。 色んなことを見ないようにして目を背けた先に、いつもがいる。彼は────何だ? "どちら"だ? ふとした瞬間に、何度だって不安を煽ってくる自分の中のそれらを、玲愛は何度だって愚問でしょうと切って捨ててきた。
「笑って」
は、カメラ越しに玲愛から目を逸らさなかった。今日も写真を嫌がらない。今日も明日も明後日も、・は氷室玲愛の兄でいてくれるのだから、それでいい。うるさい雨音を耳に入れるのを止め、重たそうな黒い雲を視界からシャットアウトして、玲愛は真っ直ぐだけを見据えた。