Introduction05
その日、部活を自主練まで終えたら、すっかり日は沈んでいて、辺りはいい感じに暗かった。当然身体は疲れているが、心地のいい疲労だ。気持ちは今日も全力で練習に打ち込んだ達成感と充実感に満ちていた。香純は更衣室で剣道着から制服へ着替えると、友人や先輩たちに元気良く挨拶をして、学校を出た。
香純の所属は剣道部だ。県内でも優秀な成績を修めて続けている部活だけあって練習は決して生温くはなく、付いていくのに必死にならなければいけなかったが、それだけにモチベーションも能力も高い部員が揃っている。そんな人たちと厳しい環境の中で共に練習出来るのは、一層気合が入るし自分を高めるのに最適というものだ──というのは、ストイックな香純らしい意見である。幼馴染の司狼辺りが聞いたら「暑苦しい」と評するだろう。彼女は典型的な体育会系だ。
剣道は昔から続けてきたスポーツで、月乃澤学園に入っても剣道を続けることは、香純の中ではずっと前からの決定事項だった。その決定通り、彼女は入学してから間もなく、剣道部へと入部届を出した。この学園の剣道部が強いのも、練習が厳しいのも、以前から知っていたので入ってから困惑することはなかった。ただ一つだけ、知らず驚いたことがある。副顧問として紹介された教師が、知った顔であったことだ。
「先生!」
学校を出てから少し歩くと、香純は例の副顧問──・の後ろ姿を発見した。 ほぼ反射的に、小走りで追いかけながらその名前を呼んだ。夜道でもよく目立つ人だった。背が高く、線の細いひょろりとした印象の後ろ姿。金髪にスーツ姿という、そんなアンバラスな組み合わせでこの近所を歩く人を、香純は今のところ以外知らない。
今年の四月から産休を取った元々の副顧問に代わって、臨時で任命されたのが常勤講師の彼だ。指導のためのコーチを雇っている月乃澤学園剣道部の顧問の仕事は、主に試合の引率や他校とのやりとりなど雑務が大半らしい。剣道の基礎的な知識があればどの教員でもこなせる。顧問ではなく副顧問という補助的な立場なら、尚更だろう。とは言え、本来は講師であるが任命されている辺り、人手不足が垣間見えた。全国クラスの剣道部の顧問は仕事が多く、忙しい。水面下で押し付け合いがあったのかもしれないと、部内で先輩方が密かに邪推していたのを香純は知っている。
「綾瀬か」
立ち止まり、こちらを振り向いた男は予想通りの人物。特に笑顔もなく、彼は淡々とした音でおつかれ、と続けた。香純が追い付き、の隣に並ぶと、自然とそのまま歩き始める。一緒に帰りませんか、なんてやりとりはお互い何となく意味がないと悟っているので、交わされない。部活に入ってから、こうして帰り道を共にすることが何度かあったからだ。教師と一緒に帰るというのはどうなんだろうと香純なりに一応考えないでもなかったが、そもそも住むアパートが同じ、つまり帰り道も全く同じである。変に気を遣って後ろを歩くのも気持ち悪いし、挨拶を交わし追い越して歩くのも違うだろう。無視なんて礼に始まり礼に終わる部活に所属する香純にしてみれば、以ての外である。だからこうして会ってしまったら、声をかけて一緒に帰るのが一番自然な形だと香純は結論していた。後ろめたいことはない。相手も同じように考えているから、何も言わないのだろうし。
「今帰りか。部活は結構前に終わってたろ」
「自主練してたんです」
「熱心だね。えらいよ」
声は無感情だったが、香純を横目に見下ろす薄い碧の瞳は、優しげに細められていた。当たり前のことをしているつもりでも、褒められると素直に喜んでしまう。形の良い横顔に向かって、テンション高く礼を言った。苦笑された。
隣を歩く人が笑った直後、するりと美人という感想が出てきたことに香純はこっそり感心した。は中性的な顔立ちという点では香純の幼馴染、藤井蓮に共通するが、国や年齢が違えば印象も変わる。彼女の蓮に対するそれは、見た目に長年の付き合いとあの素直じゃない性格も相俟って、"可愛い"に落ち着いているけれど、に対しては”綺麗"だ。隙のない動作や身のこなしも含んだ評価である。彼は何をするにもスマートだ。大人らしい落ち着きと、ゆるりとした物腰は、新しく出来た友人や先輩たちの間でかっこいいと評判になるのもわからないでもない。わからないでもないが、香純には好きな人がいるので、彼を異性として意識することはないのだけれど。
「今日、おれが練習見に行った時、三年相手に一本決めてたな。驚いた」
「結局あの後二本取り返されて、負けちゃってるんですけどね」
不意に、が夕方に練習を見に来た時の話を切り出した。学年関係無く、くじで無作為に選出された者でチームを組み、団体戦形式で行われた練習試合の時間。次鋒として試合に出た香純の相手は、何故か三年生の川北という剣道部の副主将だった。格上なのはわかりきっていたことで、だからこそ彼女は開始の合図が始まった直後に全てを賭けた。全力のスピードをのせ、面だけに的を絞り、頭の中でシミュレーションした通りの流れで、綺麗な一本を勝ち取ったのだ。審判全員が躊躇いなく香純が背中に結んだハチマキと同色の旗を上げた瞬間は、気分が良かった。その後は、呆気なく二本取り返されて逆転されたのだが。一本取られてからの相手の動きは格段に変わった。同じ手が二度も通じるわけもなく、それから二本取られるのに、そう時間はかからなかったと記憶している。さすがは三年生といったところだろう。当然の結果だったのかもしれない。"一本取っただけで十分"、"まぐれでもすごいこと"だと周囲は言う。それでも、香純の心情としては。
「……先生、あたし結構本気で勝つ気で挑んでたんです。三年生相手ですけど、傍から見たら勝てるわけない試合なんですけど……それでも、負ける気はなかったですし、気迫でも押されてなかったつもりです。負けるかもって思いながら試合するなんて、相手に失礼じゃないですか」
「うん」
「それで、やるからには、勝ちたかったんです。だから……」
「だから?」
「あたしはいま、すーっごく、悔しいっ!」
少し声を張ったら、思いのほか住宅街に自分の声が響いたので、香純は慌てて口を押さえた。あくまで自分が一本取れたのは、先輩が一年生相手だと油断していたから。それ以上の理由はないと、彼女がこの一本に対して驕ることはなかった。残ったのは負けず嫌いの彼女らしい悔しさと、まだまだ実力が足りないことを教えてくれた先輩への感謝だ。
うん、と再びは緩く頷いた。ただ悔しかったという想いを、彼は静かに受け止めてくれている。言葉にしたら、胸の奥底で燻っていたものが僅かに落ち着いた。まさか先輩たちのいる部室で声に出すわけにもいかず、けれどもこの学園の剣道部に入って最初の試合が、練習とは言えども黒星に終わったのだ。このやり切れなさを誰かに聞いてもらいたくて、聞いてくれるなら相手は誰でもよかったのだが、彼はとりわけそういう役割に適しているのかもしれないと香純は思った。生徒に親身になって、寄り添いながら答えを出してくれるようなタイプではない。恐らく人生相談には向いていないだろう。しかし、年齢が近いことや深い仲ではないものの一応教師として知る以前からの知人であることに加え、の纏う落ち着き払った、けれども人を拒まない不思議な空気は、どうも口を軽くさせるのだ。何を話しても、どんな愚痴をこぼしても、彼ならきっと拒まずにじっと耳を傾けてくれそうな気がする。重く受け止めず、話を聞いてもらうだけの相手としては、これ以上なく合っていた。
「って、自分でも生意気言ってる自覚はあるんですけどね。あたしはまだまだ実力不足で、今回は先輩が油断してたから偶々勝ち取れたまぐれみたいな一本だって、ちゃんとわかってるんですよ」
「……ふうん」
「わかってるから、もっと頑張らなくちゃ……次は──あ、これ先輩たちには内緒にして下さいね。生意気だって怒られちゃいますから」
いつまでもうじうじと湿っぽくなっているのもらしくない。人に話して、気持ちの整理はつけたつもりだ。切り替えの早さは彼女の美点の一つだった。香純は話を聞いてもらった礼を言おうと、隣を歩く教師を見上げる。
「綾瀬。油断をつく、というのは、案外簡単ではないよ」
と、正面を見据えたまま、がおもむろに口を開いた。感情の読めない声音が、耳に届く。
「あんな馬鹿正直に向かい合って始まる競技なら、尚更な」
「ば、馬鹿正直って」
「手を抜いたって、勝つ奴は勝つ。 それには、相手の力量を見誤らないことが前提にある」
どこを見ているのかわからない彼の目が、再び香純を捉える。存外に穏やかな色が、浮かんでいた。目を離せない、人を惹きつける色でもあった。素人のおれから見たらの話だが、とはそんな前置きをした。
「六割の力で勝てると踏んでいたら、相手はその予想を遥かに上回ってきた。だから十割で勝ちに行った」
「ええと……?」
「それが今日の川北」
「そう、なんですか?」
「おれから、見たらな」
あくまでは、自分でも言うように素人だ。ほんの一ヶ月前に剣道のルールブックを読み始めたような新参で、まだ基本のルールも怪しいくらいである。しかし彼の言うことは、そう的を外しているわけでもなさそうに思えた。そう思いたかっただけなのかもしれないけれど。何故なら、そもそもこの話は剣道のルールではなく、心構えの問題に近いのだ。
「あいつの十割を引き出したのは、きみの実力と勝ちへの貪欲さだ」
「先生……」
「勝利を求めない者に勝利はない。綾瀬は、求めたろ」
今日の一本、手放しに喜べるものではない。驕ってもいない。けれど、なんとなしに、その一言で燻りが消えていくのを感じている。まぐれでもすごいと言われた一時間前の光景が、薄ぼんやりとして──本当に引っかかっていたのはこれだったのだと、自覚した。全力でやった。負けるものかと戦って、必死で取った一本を偶然だと片付けられたのが、もやもやの根底だったのだ。そこをが見抜いていたのかどうかは定かではないが、気持ちが軽くなったのは本当だ。気遣いから絞り出したようなものではなく、感じたままをそのまま口にしているようなストレートさで讃えられ、香純はむずがゆいような感覚に囚われて、つい顔を俯けた。
「まあ負けたけど」
「せんせぇー……」
そして彼は落とす時も直球で容赦がなかった。即座に顔を持ち上げたら、薄く笑うの顔が視界に広がっていた。
「結果は結果。実力不足も揺るがない事実だ。精進しろ」
「……はーい」
「面倒だが、ついでにおれも精進する。顧問として」
香純には香純の、にはの目標がある。互いに目指すところも、そのレベルも、かける時間も違うけれど、場所は同じだ。真剣に向き合っているという点も、きっと。 四月の始めのまるきり無知だった頃に比べると、随分専門用語を使えるようになったのは、そういうことだ。それが、何だか無性に嬉しくなった。気怠そうにしていても案外真面目なこの人が副顧問で──身近で応援してくれる大人で良かったと、心からそう言えるから。
「で、次は勝てよ」
「……簡単に言ってくれちゃうなぁ」
「なに、負けるつもりか」
「まさか! 勝ちますよ!」
「ならいい。綾瀬は、強くなるかもね」
彼が言うならそうなのかもしれないと、妙な自信が心を弾ませた。そして、強くなります、と香純が柔らかく笑った直後に。「強くなって、見てもらえよ、藤井」、なんてからかい始めるものだから、煽り耐性のない彼女が間もなく爆発したのは言うまでもない。