Introduction04

 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴る。これ運んどいて、という抑揚の薄い声が振ってきたと思った時には、遊佐司狼の机の上には一クラス分──にしては随分多いノートが置かれていた。先の英語の授業で、目の前の教師が回収したばかりのノートであることは考えるまでもなく、クラス分より多いのは、その更に前の授業で別のクラスから回収した分も含まれているからだろう。運ぶ先は職員室までであることも、察するに容易い。何故なら、これが初めてではないからだ。席に着いたままの司狼を見下ろす講師──は、美しく繊細そうな容姿をしているくせして、人使いが荒い。司狼に好き好んで頼み事をする強者なんて、幼馴染を除けば教師どころか同級生にだっておらず、この講師兼副担任くらいのものなのだ。
「人に物を頼む態度がなってないんじゃねえの、センセ」
「教師への口の利き方がなってないね、遊佐。罰としてこれ職員室のおれの机に置いとけ」
「何が罰だよ。どっちにしろ運ばすんじゃねえかよ」
「そう。きみに選択肢はない。諦めろ、少年」
「今オレ忙しいんすけど」
「残念。おれの方が忙しい」
 頼んだぞとにこりともせず言い置いて、さっさと教室を後にするを、司狼は頬杖をついたまま見送った。そして視線をずらせば、山積みのノート。そして幾つもの、好奇を含んだ目。そこにいるだけで注目を集めると、彼とはまた別の意味で目立つ司狼。その二人の取り合わせが、皆の関心を惹いてしまうのは自然なことだった。つまり居心地が悪い。くそ、と呟いてノートを両腕で抱えると、視線を振り払うように司狼もまた教室を出た。何だか間抜けだ。だせえ、あいつのせいだ、あの性悪教師、と口内で文句を並べ立てながら。ノートがいつもより重いのがまたむかついた。
 既に自分がクラスで浮いているという自覚が、遊佐司狼にはある。それは遠い昔の行いのせいか、わりと続けている"危険なアルバイト"のせいか、そもそもこの危ないことに首を突っ込みがちな自分の抑えられない好奇心のせいか。どちらにせよ、自分の目線、価値観、それら全てがこうして机を並べて共に勉強しているクラスメイトたちと異なることは確かで、浮いてしまう原因はそこだろう。"普通"というものはよくわからないが、恐らく彼らから見た自分の言動は、"普通"ではないのだ。他人の評価など意に介さない司狼からすれば、些事でしかないが。他人に対して無関心というわけでもないので、気まぐれに人助けみたいな真似をしてみることもあるけれど、結局のところ司狼自身が求めていないから、幼馴染の二人から友人の数が増えることはなく、親密になる人間もまた同じだ。 そんな中、は、幼馴染以外からは距離を置かれがちな司狼に、久しぶりに臆することも蔑むこともなく気安過ぎるくらいの態度で接してくる奴だった。同じアパートに住んでいるから──というのはあるだろうけれど、本当にそれだけなのだろうか。
「失礼しまーす、と」
 一年の職員室の扉を足で思い切り開いたら、入り口に近い席の教師に鋭い目つきで睨まれた。見たことはあるものの、名前は思い出せない。両腕が塞がってるんだから仕方ねえじゃん、という言い訳は心の中だけに留めた。これも全てのせいだ。文句の一つも聞いてもらわないと気が済まないところだが、当の本人は不在ときている。タイミングの悪い男だ。職員室の少し奥にあるの席に、慣れた足取りで向かう。彼の椅子にはスーツのジャケットがかけられていた。授業時には着用していたはずなので、あれから一度職員室に戻って来たのだろう。机の方は数冊の参考書が並べられているだけで、いつも通りすっきりと片付いていた。そこに、持ってきたノートをどかりと下ろす。嫌がらせに何かくすねていってやりたいけれど、隣の席の教師がじろじろと不躾にこちらを見てくるので、さすがにこの状況ではお手上げだった。折角目が合ったので、ダメ元で居場所を訊ねておく。
先生、どこ行ったか知りません?」
「知らん」
「……そっすか」
 ──クソ教師。役に立たねえ。
 今度は喉まで出かかった。無言且つ速やかに、腹の立つ要素しかない職員室から退散した。
「どこ行きやがったんだよ、あいつ」
 廊下に出るなり、司狼はあの目立つ金髪を捜そうと見回した。さっきまで職員室に居たということは、まだそう遠くには行っていない、はずだ。ていうか職員室に戻るんだったら自分でノート持って行けよとまた文句が増えた。やはり、一言言わなければ気が済まない。これまでも何度か頼み事をされはしたが、いつもの手伝いと違って今日は雑に丸投げされたせいか、職員室でのことが単純に不快だったせいか、余計に腹が立つ。しかし多少移動しても金髪は見つからず、居場所の見当はつかない。いよいよ詰んでいる。無意識に舌打ちが出た時、よく知った声が司狼を呼んだ。
「司狼? 何か探してるの?」
 俯きかけていた顔を持ち上げたら、幼馴染の一人であり隣のクラスの綾瀬香純が目をまるくしていた。栗色の髪はスポーツ少女らしく短く切ってしまっているが、小柄な身体と愛嬌のある顔は女の子らしい愛らしさがあって、入学からそう経たずしてファンがついているとかいないとか。司狼に言わせれば、外見に女も色気も感じないし、中身は凶暴な幼馴染だ。
「よう、バカスミ」
「当たり前みたいにバカスミって言うなぁ! あんたって奴はなんで出会い頭に喧嘩売んのよ!」
「おまえはなんで出会い頭からそんなうるせえんだよ」
「あんたのせいでしょー! 今から引き返して先生に言い付けてもいいんだからね!」
「おー、言え言え……って、今なんつった?」
「え?」
 今、聞き逃せない言い回しがあった。首を傾げる香純に、司狼は続けて訊ねる。
「引き返して、つったか? さっきに会ったのか?」
「会ったけど……ていうか司狼、学校ではちゃんと先生って付けなさいよ」
「どこ行きやがった?」
「えぇ、わかんないけど、あたし図書委員の友達に用事があって、図書室行って出てきたら先生に会って……」
「図書室? あったかそんなもん?」
「あるわよ、ほら」
 香純が指差した方向を見やる。廊下の奥、突き当りにある教室の扉の上には、図書室と表記されたプレートがかかっていた。普段用事がなく近付かないので、馴染みのない場所だ。
「ナイス。ありがとよ、バカスミ」
「またバカスミってー!」
 幼馴染の背中をぽんと叩いて、怒号を背に受けながら司狼は途中いくつかの教室を横切り、まっすぐに図書室を目指した。がらりと扉を開くと、勢いが良すぎたのか、大きな音が室内に響き渡ってしまい、入り口付近の生徒と教師数人に睨まれる。デジャブである。
 しかしあの金髪が見当たらない。そう広い図書室でもないが、探し回るのは手間だ。入り口正面、カウンター内でPCに向かう、香純の友人と思わしき図書委員に目を留めた。眼鏡をかけたいかにもといった文学少女は、司狼が近付いただけで、びくりと肩を強張らせる。そんなに人を怖がらせる見た目をしているつもりはないのだが。
「なあ、先生知らねえ?」
「さっき出て行かれました、けど……」
「……まじで?」
 まさかのすれ違いだった。その後どこへ行ったかは何度聞いても知りませんの一点張りだ。当然と言えば当然である。更に問い詰めると泣きそうな顔をされたので、一時撤退することにした。
 再び詰みだ。アパートへ戻れば、明日の授業を待てば、会えるには会えるがそういうことではない。今、自力で見つけ出して一言物申してやりたい。珍しく意地になっていた。おーい性悪教師ー、と声を張ってみても返事はなく。適当に聞き込みでもするかと次の行動に移そうとした瞬間、左隣の教室の扉ががらりと動いて、またも見知った顔が現れる。中性的な顔立ちをした青年は、 白いビニール袋を右手に提げて、目を見開いていた。
「やっぱり、今の声司狼か」
「……今度は蓮かよ」
「今度はって何だよ。それよりおまえ、今図書室から出て来たのか?」
「出て来ちゃ悪ぃのかよ」
 もう一人の幼馴染である藤井蓮は、訝しそうに司狼とその背後の図書室を見比べていた。余程意外だったらしい。
「似合ってないぞ」
「お前さ、図書室に来る奴全員が本読みに来てると思ってんのか? んなわけねえだろ、目的は人それぞれだろうが」
「本を読む目的で作られた教室から出てきて何言ってんだよおまえは」
 確かに、と頷くしかないくらいの正論だった。
「で、何してたんだ?」
「人捜しだよ。あの人使いの荒い性悪教師が図書室にいるって聞いたから、わざわざ来てやったわけ。結局入れ違いになっちまって、まだ見つかんねえんだけどさ。あの一瞬の間に……忍者か何かかよあいつは」
先生か? 先生ならここにいるぞ。なんだ、司狼も買い物頼まれたのか。ほんと人使いの荒いよな、あの人」
「……は?」
 じゃあ俺行くな、と去っていく蓮の後ろ姿を茫然と眺めてから、のろのろと目線を上げる。教室名が表記してあるはずのプレートには、よく見ないと気づけないくらいの薄い文字色で、資料室とある。扉の向こう側では、煙草を咥え、窓を背にして、背面ロッカーの上に腰掛けた男がひらひらと手を振っていた。
「ようこそ、おれの秘密基地へ」
「……なんだそりゃ」
 あまりの緩さに、どっと気が抜けた。早く入って扉を閉めるように指示され、司狼は大人しく従っておく。埃っぽい教室内は、図書室のように木製の本棚がいくつか並んでいたが、その全てが空っぽであった。プレートに資料室とあったけれど、それは随分前の話なのか、中身は全て移動し終わった跡地のようだ。窓枠のすぐ下にはこちらもまた木製の背面ロッカーが丁度いい高さで収まっており、これも本棚として使われていたのだろう。が腰を下ろしているのは、そこだった。手招きされるままに近付くと、何かが司狼に向かって投げられる。反射的にキャッチしたら、よく冷えたペットボトルだった。
「報酬。おつかれ」
「オレンジジュースって。ガキかよ」
「ガキだろ、学生」
 緩慢な動作で、の隣に座り、ペットボトルの蓋を捻る。ガキかよとつっこみを入れてはみたものの、爽やかな甘さが喉を通ると、案外悪くないと思った。これで満足したと思われるのは悔しかったので、口には出さない。隣で煙草の煙を燻らせながら薄く笑うのすぐ横には、煙草の箱と、百円ライターと、缶コーヒーがある。缶コーヒーと今自分が手にしているオレンジジュースは購買で見かけたことがあるものだ。先程蓮に買いに行かせたのだろう。缶コーヒーは自身のために、オレンジジュースは、司狼のために。後で持って来るつもりだったのかもしれない。こういうところは、如才がない男だ。
「見つかっちまったな」
「これのどこがおれの方が忙しい、なのか説明してもらいたいもんだね。しかも何なんだよ、この教室」
「旧資料室。現秘密基地。別名、おれの喫煙所」
「サボり場の間違えじゃねえの」
「そうとも言うかもな」
「認めんなよ」
 秘密基地、とは言っているけれど、蓮があっさり出て来た辺り、あまり秘匿性は無さそうだ。
「ホイホイ生徒入れてちゃ、秘密も何もあったもんじゃねえな」
「普段ここに生徒を入れることはないよ」
「へえ? つまりオレらは特別ってことか」
「今が特別ってことだ、自惚れ屋」
 の細い人差し指の第二関節が、司狼の額を軽く叩いた。何故か避けるのという思考をすっかり忘れていて、呆気無く額を取られたことは自分でも意外だったのだが、そんなことはおくびにも出さず、司狼は話を切り替える。
「そういや、なんで蓮はパシられてた?」
「図書室に本返しに行く途中で会ってな。購買に行くって言うから、買い物頼んだ。礼はした」
「あんた人使い荒過ぎんだろ」
「きみらが使われ過ぎるんだよ」
 どんな理屈だ。まるで断ればいいだろうという雰囲気だが、頼み事を押し付け有無を言わせないくせにどの口が言うんだという話だ。きみらが頼みやすくてな、と付け足された。そんなこと言うのはあんたくらいだ、と返した。が頼めば喜んで引き受ける生徒なんて、たくさんいるだろうに。
 上へ上へと昇っていく煙草の煙は、時折窓の外から吹き込む弱い風に揺られて、司狼の方へと寄って来る。喫煙者である司狼もさすがに学校では吸わないが、こうも目の前で吸われたら、さすがに欲しくなってしまうのも道理だろう。少し埃っぽくはあるけれど、煙草を吸うには良い場所だ。
「センセー、相談なんですけどー」
「なに」
「頼み事を快く引き受けた可愛い生徒に、一本恵んでくんない?」
 がちらりと横目で司狼を一瞥し、煙を細く吐き出した。司狼の勘が正しければ、この男は生徒の喫煙なんかで動じたり激怒したりするような、真面目な教師なんかじゃない──それはある種の信頼だった。
「断る」
「はあ? ノート運んでやったろ?」
「ジュースやっただろ」
「ケチ臭いこと言うなよ。今更真面目ぶっても無駄だってわかれよ、性悪教師」
「わがまま言うな、クソガキ」
 コーヒーが入っていたはずの缶に灰を落としながら、は司狼が腰掛ける方とは逆側に置いていた煙草の箱とライターを、司狼の隣へ置いた。碧い瞳は煙を追っていて、こちらを見向きもしない。
「ガキにやる煙草はない。でも、馬鹿が勝手に盗んでいくのは、どうしようもない」
 そんな理由付けでいいのかと呆れたが、折角貰えるのだから黙って貰っておくことにする。慣れた仕草で煙草に火を着け、普段通りに煙を肺に送り込んだら、普段より重い煙に思わず咽た。咳き込みながら箱を確認すると、いつもよりずっとタール数の高い、所謂重い煙草だった。平然とそれを吸うが、何気なく問う。
「煙草、いつからやってるんだ」
「二年前? いや三年前か? あんまはっきりとは覚えてねえけどさ、多分そんくらいだよ。は?」
「おれは五十年前くらい」
「は、なにそれ、 今のもしかしてギャグのつもりかよ? しかも真顔で。 全っ然面白くねえし、あんた笑いのセンス無さ過ぎんだろ。間違っても授業では言わない方がいい」
「そうだな」
 勝手に二本目の煙草に火を着けた頃、昼食はいいのかと訊ねられる。確かに昼食はまだだが、司狼は空腹で死ぬような思いをしたことはないので危機感もない。煙草もあるしいいわと答えておく。も、いつからここにいるのかは知れないが、ここで食事を取ったような形跡はなかった。
「そう言うあんたも、飯食ってねえんだろ」
「まあな」
「バカスミにどやされるぞ」
「それは困る」
 以前、蓮の部屋で香純と司狼との四人で夕食を共にしたことがある。はあまり食事を取らないと聞いた香純が、世話焼き精神を発揮させ、深夜に騒いだ詫びも兼ねて夕食に誘ったのだ。出されたものはきっちり平らげていたので、特別胃袋が小さいということでもないらしい。ただ食べることに執着がないだけのようで、その点は司狼も共感出来た。
 が突然ごそごそとスラックスのポケットを漁り、青い粒が入ったプラスチックの箱を取り出す。手のひらサイズのそれから二つほど粒を出すと、一気にそれを口に入れ、咀嚼している。
「なんだそれ」
「今日の昼食。きみも食っとけ、念のため」
「は?」
「口開けろ。あーってしろ、早く」
「あ、あー……?」
「よく噛めよ」
 なんでそうなったという疑問を挟ませないくらいの自然さで、は司狼の口に青い粒を放り込んでいた。それらは、噛むと強いミントの味がした。口臭を消すためのものだろう。だが生憎、司狼はもう一本吸いたかった。そろりと三本目を頂いてもは怒らなかったが、ジャケット脱いどけよ、と注意を受けた。教室に入ってくる日差しは春らしい暖かさで、上着を脱いでも丁度いいくらいだ。
 天気が良い、風も気持ちがいい、煙草が美味い。男の隣の居心地も、意外と良い。文句を言うためだけにこの教師を捜していたはずなのに、いつの間にかそんな気は失せていた。ジュースも煙草ももらったし、チャラにしてやることにして。煙草盗ませてくれるならまた頼み事聞いてやってもいいぜ、と笑ったら、調子に乗るなと小突かれた。決して、悪くない時間だと思う。


(20160930)
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