Introduction03

 藤井蓮が住む部屋の、一つ下の階の住人であるは、英語講師という一般の教師とは立場が異なる役職に就いているらしい。教師と常勤講師の違いなど、蓮を含め大半の生徒は大して興味を持たず、ごっちゃに認識していたが。その辺り本人からは何の説明もなく、知ったのは教職員紹介だ。日本人離れした、冗談みたいに整った容姿で流暢に日本語を操り挨拶をする姿は、新入生に多大なインパクトを与えていた。初対面ではなくともやはりアンバランスに感じてしまうのだから無理もない。恐らく日本に来て相当長いのだろう。でなければ、あの淀みのない口の悪さに説明がつかない。
 何にしろ、教師と同じアパートというのは居心地が良いものではないな、というのが最終的な蓮の率直な本音だった。後ろめたいことがあるわけではないし、これからするつもりもない。ただ、パトカーを見かけると身構えてしまうのと同じ心理。何かをやらかしそうな司狼の存在も手伝って、ある程度の距離は取っておくべきだと蓮は結論していた。現実とは裏腹に。
「おかえり、藤井」
「……部屋間違えてますよ、せんせ」
「いいや、合ってるよ」
「じゃあ不法侵入ですね、訴えましょうか」
「壁の穴見逃してやってる。でも、こっちは見逃してはくれないわけか。最近のガキはシビアだね」
「………………」
 入学式から数日、香純は新しい環境や新しい友人たちに心を弾ませ、目を輝かせる毎日であったが、蓮はただ何となく見慣れない風景にしばらく落ち着かないだけの日々が続いた。その二週間後には未知だった校舎が既知になりかけ、クラスメイトや先生の顔はほとんど覚えていないし覚える気もないけれど、そこそこ慣れたと言える頃合いになった。
 授業は楽しく仕方ないなんてことはなく、けれど唯一入学式前からの顔見知りであるの授業だけは、妙な感覚に囚われて、自分にしては珍しく退屈していないと蓮は思う。知人が教壇に立っているという特別感にも似た違和感のせいだろうか。簡潔な口調は素っ気ない印象になりがちだが、授業そのものは案外丁寧であった。質問にもきちんと答える。心地いい声は、耳当たりがよく、BGMとしても悪くない。だからつい、聞き入ってしまう。
 ただしそれと近所付き合いは別で、蓮はこれ以上彼と近しくなるつもりもなかった。顔を合わせれば挨拶はする。でもそれ以上踏み込まれても、鬱陶しいだけだ。ただでさえ、学生の一人暮暮らしは良い顔をされないことが大半だ。よく知りもしない大人に邪推も干渉も、されたくはなかった。お堅い教師とは一線を画しているとは言っても、あれだって大人で教師なのだ。これについては、司狼も、香純だって同意見だと思っていたのだが。
 ある日、蓮が帰宅すると、自室に何故かがいた。蓮のベッドに浅く腰掛け、長い足を組んで。 何度目にしても相変わらず会社勤めなんて全く似合わない風貌で、どこか浮世離れしたような空気を纏っている。ジャケットは見当たらないものの、学校と同じスーツ姿だった。ネクタイを緩め、くたびれたサラリーマンのようなだらしない着こなしをして、おまけに自分の味気ない部屋が背景なのに、一枚の絵画のような鮮やかさを錯覚したのは、目が疲れているからかもしれないと蓮は自分の目を擦った。 見慣れぬ新居だった部屋は最近やっと心身ともにリラックス出来る場へと変わってきたのに、という一人の異物が放り込まれただけで、まるで知らない部屋のようだ。そのいやに存在感を放つ異物の潜入ルートはおおよそ予測がついていた。両隣の馬鹿のどちらかだろうと。なんて面倒なことをしてくれたのか。
「帰りを待ってた」
「俺の?」
「きみの」
「無断で俺の部屋で?」
「綾瀬が良いって、言った」
「俺は言ってませんけど」
「じゃあ、今良いって言って」
「言いませんけど」
 努めて堅い声でそう返したら、がややぴりりとした空気を和らげるように、薄い唇を緩めた。こっちは真面目に不快感を表に出しているのに、これではまるで暖簾に腕押しだ。あの顔で微笑まれると、一瞬で怒る気力を持って行かれた。まともに相手をするだけ無駄だと悟らされる。つい嘆息すると、いよいよ雰囲気が弛緩してしまった気がした。一旦この状況を諦め、受け入れるしかなくなった。これだから好きになれないんだよ、とは声に出さずに。こういう状況で、笑って見せるが苦手だった。でも笑わないは、たぶんもっと苦手だ。
 蓮は居心地の悪さを覚えながら、やっと靴を脱ぎ、我が家へ足を踏み入れる。鞄をテーブルに置いた時、がぽつりと切り出す。
「綾瀬がな、夕食に誘ってくれたんだ。彼女は今買い出し」
 夕方、香純から今日は絶対に早く帰って来て、夕食は作るから、といった旨のメールが来ていたはずだ。そういうことなのだろう。
「待ってて下さいと言われたが、おれが女子学生の部屋に一人で居るってのも、なんか良くないだろ。状況的に」
「男子学生の部屋ならいいんですか」
「女子学生よりはな」
「ていうかあんたせめて自分の部屋で待ってろよ」
 の部屋はこのすぐ下だ。ここで待つ必要性は微塵も感じられない。
「そもそも生徒に夕食誘われて、ほいほい来んのもどうなんですかね。教師として」
「ちょっと口が滑ってな。その結果、近所の住人としての、心からの善意で誘われちまった」
「何言ったんですか?」
「おれあんまり食事する習慣ないんだよね」
「……そりゃあんたが悪いよ」
 綾瀬香純はとびきりのお人好しで世話焼きだ。ただの教師と生徒ならともかく、そうなる前段階で知り合った彼は、香純の中で"ご近所さん"というイメージの方が強いのだろう。先日、ダイレクトに迷惑をかけた件もある。そのお詫びがしたいとでも言ったのかもしれない。勿論そこに、妙な下心はない。幼馴染だから、断言出来る。
 食事する習慣がないと言い切った男はなるほど確かに不健康そうな見た目をしており、身長は蓮よりもやや目線が高いくらいだが、身体の線は細い。ひょろりとしていて、大柄の人間がぶつかっただけで折れてしまいそうな頼り無さだ。香純が心配し、世話を焼きたくなった気持ちも、ミリくらいなら理解出来なくもない体型だった。一度そう思うと、青白い肌も不健康な印象に拍車をかけているように映る。
「藤井、病人見るみたいな目をするな。食わなくても、平気な体質なだけだ。食おうと思えばいくらでも、食える」
「いいですよ、そんな強がらなくても」
「英語の評定下げるか?」
「職権乱用って日本語知ってます?」
「おれの大好きな日本語の一つだよ」
 蓮のからかいを含んだ響きを機敏に察知したのだろうが、その切り返しはなかなかどうして性悪教師そのものである。悪戯っぽく笑うと、白い歯が覗く。彼を学校で見かける時の大半の笑い方は、口の端を薄く上げる大人らしいものなのに、初めて会った日にも見たそれは、まるで悪戯が好きな子供ようだ。級友と話すかの如く気負いなく応じられると、ついつい相手が大人で教師であることを忘れてしまいそうだった。彼の持つ性質なのだろうが、一定の距離を保ちたい蓮にとっては厄介なものだ。緩みきった流れを仕切り直すため、蓮は一度咳払いをして、幼馴染の押しの強さを詫びた。
「それはそれとして、すみませんね。幼馴染がだいぶ無理強いしたみたいで。香純はちょっと……いや結構、世話焼きなんですよ。こっちが引くくらい。悪気はないんですけど」
「べつにいい。でも、少し怖いよ。あいつ良い奴だから。壺買わされちまいそう」
「そこは同感です」
「しっかり見といてやれよ」
「俺の役目みたいに言わないでくれますか」
「だってきみの役目だろ。遊佐は、そういうタイプじゃない」
「……そう見えますか」
「なんとなくね。わかるよ。あれは壺を買わせる方だ」
「言えてますね」
が小さく笑んで、スラックスのポケットに手を伸ばした。四角い箱を取り出しながら、彼は気怠げに腰を上げる。
「一度戻るか」
「なんで今更」
「煙草吸いたい。さすがに禁煙だろ」
「もう一つ隣の部屋は喫煙部屋ですよ」
「チクってやんなよ、幼馴染」
どうせ告げ口したところで、この思考回路の読めないふわふわした教師は教師らしい行動に移すことはないはずだ。いつの間にかそんな不用心な信用をしていることに、口に出してから気付いた。どんなに警戒しなければならないと自分に言い聞かせても、そんな気持ちを簡単にふやかしてしまう、嫌な男だ。今だって、こうして、隣の部屋へと続く穴を見つめて楽しげに笑うのだから。
「゛お詫び゛を持ち出されたからな、今回は断れなかったけど、次は断る」
ふと、さま煙草の入った箱を片手で弄びながら、そんなことを呟いた。
「だから、あまり気を悪くするな」
 べつにきみらに干渉するつもりはない、と付け足して、が蓮と向かい合う。真正面から碧い瞳に覗かれると、心の裏の裏まで見透かされてしまうんじゃないかと、そんな有り得ない杞憂が心臓の動きを急かし始めた。
 同時、がこの部屋で蓮を待っていた理由に思い至る。香純がいない場所で、蓮にこれを伝えるためなのだと。蓮の心情を汲み取った上で、彼なりに配慮した結果なのだろう。自分一人で警戒して、自分一人で距離を取ったつもりになって──その実相手に全て読まれて、気遣われていた。自分が急に幼稚に思えて、蓮はその気恥ずかしさに、彼の手元にある煙草の箱へとそっと目を逸らした。
「心読まれたみたいな顔してるところ悪いが、思春期のガキが考えることなんて、だいたい似たり寄ったりだ。パターンなんだよ」
「わざわざ嫌な言い方してくれますね」
「嫌な奴だからな、おれは」
 今はどうしようもなく敵わない相手であることを、そしてそれは自分の年齢なら自然なことであることを、身を以て知らされた。子供みたい、なんて印象をひっくり返すように、彼に"大人"を見せつけられたような気さえした。
「悔しいか」
「正直言って、むかつきますよ」
「どれくらい」
「一発殴りたいくらい」
「それはよかった。でもやったら停学な」
 むかつく、と声に出したら何だか気分がすっとした。返って来た科白には、またむっとさせられたが。一応進学校の教師という位置づけの人間に、入学して二週間程度でこんな口の利き方をすることになるなんて、思いもしなかった。それすらの思惑通りなのではという疑心は消えてくれそうにないけれど、一旦見なかったことにする。
「先生」
 煙草を吸いに部屋へ戻ろうとするに待ったをかけたのは、ほぼ反射に近い何かだった。このまま子供扱いされて、良いようにあしらわれて、主導権を握られたままこの場で彼を帰すのは、自分が大人じゃないと自覚していても尚、蓮のプライドが許さない。苦手な相手には違いないけれど、拒絶するほど嫌いにもなれそうになかったので。
「ベランダに出るなら、ここで吸っていいですけど」
 勢いのまま口から転がり出たのは、引き留めるための言葉にしても少し半端で、蓮は内心反省していた。しかしやっぱりなしでと訂正するわけにもいかず、あくまで涼しげな顔で相手の反応を待つ。はぱちりと瞬きをした直後、意地が悪そうに口角を持ち上げて──「じゃあ遠慮なく」と煙草を一本取り出し銜えながら、ベランダへ向かったことに、少し安堵した。いや安心する必要も全くないのだが。何だか、これはこれで、むかつく。


(20160929)
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