Introduction02

 正座をする機会というのは、案外ない。しかも幼馴染三人で並んで、なんてもっと有り得ないだろう。その有り得ない状況を、蓮が見上げた先、こちらを見下ろす人形みたいに出来過ぎた容姿をした男が作り出してくれていた。「座れよ。ジャパニーズ正座、得意だろ」などと淡々と言われたら、どんな偏見だよとつっこむ気も失せる。そもそも見ず知らずの男を部屋に上げるというところから良くないことなのはわかっているが、そうも言っていられず、止められなかった。警戒も何も、全面的にこちらが悪い。壁の穴を今すぐ大家に訴えられたら非常にまずい事態になるとよくよく理解している三人は、大人しく従うしかなく。めんどくせえの入れやがって、とぼやく司狼を小突いておいた。もう喋らないで欲しい。男は、一つ下の階の住人であることを前置きして、言葉を継いだ。
「壁に穴を空けていい時間か。今。狂ってるな、日本人」
「いや狂ってるのはこいつだけなんで。こいつを日本人の基準にするのは間違ってると思いますよ」
「そ、そーですよ!」
「おいおいそりゃないだろうよ。オレたち何をするにも一緒だったろ?」
「そんな気色悪い仲になった覚えはない」
「仲がいいね。でも、勝手に喋るな、ガキども」
 穏やかな声で、冷ややかな視線を送られた。その威圧に、全員が黙る。自身の顎に細い指をやって、男が壁の穴を見やりながら、ふうんと呟く。彼の碧い目が、司狼を真っ直ぐ見つめた。
「きみ、破壊衝動でも?」
「いや? 単に玄関通んのがまどろっこしかったんだよ。遠回りすんのが時間の無駄に思えてね。何度も行き来すんなら、直通の方が何かと便利だろ? レースゲームで言うところの、ショートカットみたいなもん」
「目の前の正規ルートは、無視なわけだ」
「そういうこと」
「お前もう黙れよ……」
「一理ある」
「正気ですか馬鹿ですよこいつ」
「なんだ話わかるじゃん、おにいさん」
「司狼、あんたちょっとは反省しな、さい、よ……!」
「おいこら、頭押さえんなって、お前だって騒いでただろうが!」
「ジャパニーズ土下座。いいね。べつにしなくていいけど、見せてくれるのなら、見るよ」
「あんた怒りに来たんですよね?」
 あまりにも緊張感が薄れている現状に蓮が恐る恐る訊ねると、男が少しだけ、口角を上げた。意地が悪そうな笑い方は、大人であるはずの彼から邪気を薄め、幼く見せた。不気味さとはやや違う、微笑みだ。
「そう。夜は騒ぐな。近所迷惑だ。ガキでも知ってる常識を、教えに来てやった」
「……はあ。あの、穴は」
「穴は知らん」
「そっちも十分非常識なんですけど」
「どうでもいい。おれの部屋じゃない。好きにしろ。ただ、やるなら昼に、静かに、やれ」
「そういう問題ですか?」
「ああ。あともう一つアドバイスするなら、ハンマーは、どうかな。思いきりの良さと発想は認めてやってもいいが、仕事は、雑だ」
「急ごしらえだったからな」
 穴に顔を寄せて、壁の向こう側を覗きながら、ダメ出しを始めていた。床に落ちたハンマーを拾い上げるなり、こんこんと崩れかけた壁を軽く叩いて、穴をほんの少し広げていた。止めてくれ。
「次にやるなら、そうだな、電動カッターがいい。下に敷くものがあれば掃除も楽だ。マスクも。たぶん身体に良くないもの、撒き散らしてる」
「次なんてないんで」
「どうかな。一度あったら、二度あるかもね」
 予言めいた、蓮にとって嫌過ぎる言葉を放って、愉快そうに目を細めていた。何が可笑しいのかわからない。多少面倒な展開ではあれども、司狼たちにとって灸を据える結果になればという蓮の小さな小さな思惑は、見事に外れた。どころか、非常識な行為を助長するような言動をされた。隣のもう一人の馬鹿が、何やら考え込んでいるのは恐らくそのせいなので、つまり正直勘弁して欲しい。
「夜は静かにしろ。わかったか。返事」
 はい、すみませんでしたの次に、はーいと呑気な謝罪が耳に入り、蓮はいい加減にしろと司狼を睨んだが、彼は懲りていなかった。舐めた態度に今度こそ怒りが振ってくるかと思ったが、男は満足したのか、最早興味が無さそうにしている。一体何なんだ。
「以上。解散」
 男は偉そうに告げて、床にハンマーを放り投げると、もう用は済んだとばかりにあっさりと背中を見せる。そこで何を思ったのか、ちょっと待って下さい、と香純がその細い背に声を投げた。男は足を止め、腰を上げる香純を不思議そうに見据える。
「あの、あたし、綾瀬香純っていいます。こっちの馬鹿二人が藤井蓮と、遊佐司狼です」
「馬鹿二人って」
「あんたたちは黙ってて。最近越してきたのに、挨拶も出来てなくて、今更なんですけど」
「こんなアパートで挨拶なんて必要ないだろ。興味もない。日本人は律儀が過ぎる」
 香純が肩を強張らせ、たじろいだ。その気持ちが蓮には何となく理解出来る。あの容姿にあの切れ長の目、向かい合うと、どことなく緊張が生まれるからだ。妙な間があったのち、次に言葉を発したのは、男の方だった。
だ。そう呼んで。ファミリーネームは好きじゃない」
 よろしく、と続けた彼は意識的なのかそうでないのか、うっすらと柔らかさを伴った笑みを湛えていた。ほっとしたように香純が身体から力を抜き、笑い返す。悪い奴じゃなさそうだ、と今更ながらに蓮は男を見上げて、香純と同じくこっそり安堵した。悪い奴じゃないだけで、だいぶ変わっているとも思うが。国柄というやつだろうか。軽く手を上げて、ナマエと名乗った男が今度こそ玄関へと向かう。
「またね。バカ三人」
 悪い奴ではなさそうだけれど、嫌な奴だった。



 翌日、香純がホームセンターで買ってきた電動カッターとブルーシートとマスクを駆使し、昼間に、出来るだけ静かに、蓮と香純の部屋の間に穴を空けた。なんて傍迷惑な後押しをしてくれやがったんだと下の階の住人に文句を言いたくて堪らなくなった。けれど、そういう時に限ってなかなか会えないもので、あれから三日、ナマエとは一度も顔を合わせていない。香純も司狼も、彼には会っていないらしい。 わざわざ会いに行くほどでもなく、悪い人ではないとは言えども、あまりよく知らないアパートの住人と仲良くご近所付き合いをしていく気など毛頭ない蓮は、学校の準備に意識を割かれていたこともあり、やがてその存在を気にかけなくなりつつあった。
 そしてその二日後、学園の入学式を迎えた。満開の桜にはしゃぐ香純の後ろを、蓮は司狼と二人で呆れたような眼差しを向けながら、暖かい太陽の下を歩く。校門をくぐると、ぱりっとした制服を着用し、堅い面持ちの新入生たちに、案内係であろう在校生や教師が慣れた様子で話しかけている姿がちらほらあった。その中で一際目を惹くスーツ姿を、蓮は視界に捉える。朝日を反射させる金髪に、色素の薄い碧い瞳。一度会ったら忘れられない、やけに強く印象に残るビジュアルは、遠目でもすぐに気付いてしまった。香純と司狼も同様だったようで、目を見張って、うそだろ、と零す。両腕を組んで何やら在校生らしき女と話し込んでいた男が、こちらを見た。ひらひらと手を振って、隙のない動作でこちらに歩み寄ってくる。三人に向けて、にんまりと笑んで、声を潜めた。
「入学おめでとう、クソガキども」


(20160927)
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