失くしたあの頃

「綾小路、ここ空いてる?」
 まるで友人に問うかのような自然さで、食事の乗ったトレーを両手にしたが綾小路清隆の正面の席を顎で示した。長い前髪がさらりと流れて、清隆を見下ろす穏やかそうな瞳と視線が交差する。学校指定のその他大勢と同じジャージを着用して尚、払拭されることのない上品さは、男の持つ気質ゆえだ。
「悪いな、空いてない」
 食堂に決まった席割りはない。今回の試験のために急ごしらえしたグループや性別といった振り分けはこの場においては何の強制もされず、この広くも古めかしい校舎の中では数少ない息が詰まらない場所と言えるだろう。その証拠に、周囲でわいわいと食事を進める生徒たちの顔は、退学を賭けた試験が迫った状況を一時忘れ去ったかのように、明るくリラックスしているように見えた。とは言え、この場を貴重な情報収集として活用する生徒も少なからず存在していたし、綾小路も分類としてはそちら側だ。今回の試験は男女別、校舎もきっちり分けられている現在、女子側の事情を知る機会は今しかない。
「待ち合わせか?」
 そういった清隆の思惑もすべて読みきった上で今この瞬間に清隆の元を訪ねてくるのだから、彼は質が悪いというのだ。箸を動かす手を止めずに、且つ相手を視界に入れないように努めながら、清隆は平坦な口調で拒否を答えた。
「そんなところだ」
「うそつきだね、綾小路は」
「うそつきはそっちじゃないのか」
 ほぼ反射的に口を割って出てきた嫌味のような返答に一見感情は込められていなかったが、それは紛れもない本音に違いなかったので、困った。清隆と以外には察することのできないもの。この男にそんなものを垣間見せてしまったことを、無表情の下で静かに自省していた。自分らしくもない。まともに相手をして、過去を振り返るような言動をすることが目の前の男を一番喜ばせることだと明白なのだから、清隆に出来ることはなるたけ関わり合いにならないことなのだ。
「そうだった。わるい」
 少しだけ困ったように眉を下げて、結局は清隆の正面の席にトレーと共に腰をおろした。その「わるい」が冗談でもなく、案外実感が籠もっているのがわかってしまうから、清隆は静かな海のように平静そのものである己の中に、小さな波が立つのを感じる。
「会いに来るのはやめろ、と言ったはずなんだが」
 背後の存在を気にかけながら、気持ち声のトーンを抑えて、そう告げた。味噌汁をずず、とすすった後、清隆に視線を向けるの声は、清隆のトーンに寄せてきている。背後の女子グループを気にしていることに彼は恐らく気付いていた。
「あいつがあの状態だからな。もうそこまでこそこそする必要もないと思うけど。真正面から顔を見るくらい、たまには許して」
 あいつ、とは龍園のことだろう。は入学からずっと龍園に目をつけられていたのもあり、下手に火の粉が降りかからないようにと清隆と接触を持つことは出来るだけしてこなかった。それでも、たまに偶然装って会いに来ることはあったが。元々を特別視していたのは龍園くらいのもので、後のクラスメイトはなんでも卒なくこなすがどことなく掴めない変人、程度の認識らしい。それが真実であるかはともかくとして、は黙っていても意外と目立つ。自身が目立つ要素の一切を排除したい清隆としては、度々会いに来られては、この上なく厄介なのだ。更に言えば、そういった状況を除いたとしても、綾小路清隆個人として、二人きりでは会いたくない。口に放り込んだ煮物を飲み込んだ清隆は、小さく息をつきながら、更に拒む。
「生憎だが、オレはに見せたくないし見たくない」
「嫌われてるのかな、おれ」
「違うな、それは好意的な解釈が過ぎる。オレが言いたいのは、好きでも嫌いでもない。無関心ってことだ。わかるか?」
 好きの反対は無関心とは、よく言ったものだ。嫌いという感情は、ベクトルがマイナスに振り切れているとしても、相手の存在を無視出来ていないからこそ生まれるものだ。それはにとってはある意味朗報だろう。ダイレクトに無関心を突きつけられたはずのは、そうか、と苦笑して。
「そうだな、わかるよ」
 意地を張る子供をあやすような言い方が、癪に障った。きみが言うならそうなんだな、と己の言葉を優しく受け入れ肯定した少年が、かつていた日のことが頭の片隅からじわじわと蘇ってきて、不愉快だった。清隆の知らない外の世界の話をして、清隆の膨大な知識を下に繰り広げられる理論に耳を傾け、正解を共に探してくれた少年。
 松雄という名の執事と、屋敷に"偶々"遊びに来るようになったという名の少年と過ごした、一年間。たぶん、悪くなかったのだ。楽しかったと思えたそれすら、父親にコントロールされていた事実が、清隆の中に小さな敗北感を残した。は、父親が寄越した、彼に忠実な、清隆の"友人役"だったのだ。友人一人まで管理され、何一つ自由にはできないという現実を、彼は知った。
「無関心なのに、関わりたくはないと。綾小路くんはそう仰る」
「興味の無い奴に寄って来られても困るからな。おまえだって、だから龍園に困っていたんだろう。それと同じだ」
「まあそうだね。似たようなものかもしれないけど。ちなみにおれは今の龍園には、興味があるよ」
 つい、顔を上げて、見ないようにしていたの目を、真っ直ぐに見た。それがどういう感情から来た行動かは、彼自身よくわからない。ただそれが真実か否か、それだけを見極めたかった。
「まあいいさ。綾小路はおれに興味がない。"あなた"が言うなら、そうなんだろう。理解した」
「……理解したって言い方じゃないな」
「いや、ちゃんとわかってる。でもおれは、おまえに興味があるから。また勝手に会いに来ると思うよ」
「迷惑なんだが」
「これからも迷惑かけるけど、よろしくどうぞ」
「おいやっぱり理解してないだろ。おまえは昔からそうやって人の話を──」
 言いかけて、口を噤んだのは、言葉選びを間違えたからだった。にこりとどことなく嬉しそうに笑う男を視界から外し、何事もなかったかのように食事に戻る。がそれから追及してくることはなく。
「満足した」
「……は?」
 彼はまだ器の中に食事が残っているにも関わらず、トレーを抱えるなり、あっさりと席を立った。
「べつの場所で飯食うよ。邪魔したかったんじゃなくて、おまえが話したい人と話せるようになるまでの、時間潰しのつもりだったし。待たせて悪かったな、軽井沢」
 背後の席の気配が、動揺に揺れたのがわかった。いつの間にか、女子グループの大半は去り、その席に残ったのは軽井沢恵だけだ。別段、何かしらのフォローを入れる必要はないだろうと判断した。すぐ後ろの席に座る軽井沢恵に関係くらいは訊ねられるかもしれないが、気にするなの一言で、それ以上探られることはないと確信があった。その辺、軽井沢は空気を読むから助かる。
 となると今問題なのは、そこまで見通した上で接触を図り、かき回すだけかき回して去っていこうとするこの男のみだ。飄々とした涼やかな表情で、本当に満足そうにしているから、面白くない。負けたわけでもなし、そもそも勝ち負けなんて彼との間にはないにも関わらず、何を言ってもの良いように解釈されて傷一つ付けられないという現状を、気に食わないと感じてしまう。だから、その顔を別の色に染めてやりたいと思って、傷付けたくなって──最後に、清隆が投げかけた言葉は。

 久しぶりに声に出して呼んだ""に、彼は予想通り少し驚いたように目をまるくする。二度と起こらないはずの事象を目の当たりにしたように、どこか茫然として清隆を見つめていた。片手でちょいちょいと呼び寄せれば、当たり前のようにトレーをテーブルに置き直したが、そっと強張らせた顔を近付けてくる。彼がかつて清隆に従順だった頃を思い起こしながら、その耳に、過去との決別を響かせる。
「オレは、おまえが"嫌い"だ、
 昔とは違う。もう戻れない。自分はおまえの友人ではなく、おまえもまた自分の友人ではない。この言葉が、無関心よりもを喜ばせてしまう一方で、一番傷付けることができる呪文。
「……嬉しいよ、清隆」
 清隆にだけ聞こえる声量で呟くは嬉しそうで、寂しそうで、先程よりも複雑にその口元は歪んでいた。
 放っておけばいいのに、こうして関わってしまうから、との縁が完全には切れないのだろう。ちょっかいをかけられて迷惑していると態度で示しながら、己もまたこうやって余計なことをしている認識がある。本当に縁が切れないのか、あるいは切ろうとしてないのか──そんな自己分析に意味はないと結論付けて、早くどこかへ行けと清隆はの肩を強く押した。
(20180529)
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