果たされなかった誓いによせて
机にボールペンを放り投げ、雑な動きで席を立った龍園翔を担任である坂上は咎めなかった。思い返せば教師に敬語を使うという最低限の礼儀に欠き、決して模範的な生徒とは言えない生活態度である龍園に対して、この担任は注意はすれども本気で行動を制限してこようとしたことはなかったように思う。何よりもCクラスの益を一番に考える教師だ。多少柄が悪い程度、問題ではないと判じたのだろう。龍園の有能さを見抜き、彼がクラスのリーダーとしてその方針を固めることを坂上は良しとし、期待もしていた。己がCクラスの長として自由にやれていたのは、この担任であったことも大きな要因の一つだろう。そのリーダーという地位も、つい昨日下りてしまったのだが。
進路指導室を出て行こうとする龍園の背に、冬休みは大人しく過ごせよ、とそんな何気ない言葉がかけられる。それを黙殺し、白い廊下を踏みしめながら、これからしばらく世話になることはなさそうな部屋を後にした。どこか安堵した様子の担任と、不要となった退学届を置いて。
「おつかれ、リーダーだった龍園」
教室を出てすぐ、龍園を呼び止めたのは、今の彼があまり会いたくない男だった。窓により掛かるようにして立っているのは視界に入っていたが、あえて無視していた。呼びかけに応えることなく、一瞥をくれることもせず、龍園は長い廊下を歩く足を止めもしなかった。そんな彼に当たり前のように並んだ少し小さい制服姿の青年は、「学校、やめてきた?」とどこか楽しげに問うてくる。
「おまえわかって言ってんだろ、潰すぞ」
「潰されたくせに」
「それとこれとは話が別だ」
「もうそういうの、やめたくせに」
「おまえに何もしないとは、言ってねえがな」
こちらの顔を覗おうとするナマエの額を、手の甲で軽く叩く。いて、と小さく零して、直後に苦笑する音がした。
「ひどいね」
「どっちがだよ」
「それ、おれもおまえに何かしたみたいな言い方だ」
「しただろうが」
現在進行系で、している。この学校に入学し、過ごしてきた八ヶ月間。は一度だって、自らの意思で龍園の元へ会いに来たことはない。それがよりによって、このタイミングで。の"正体"を知った今では、最悪としか言いようがないだろう。
には、憧れ従う"誰か"がいる。そしてその誰かはこの学校に在籍している──入学して間もなく、龍園が何気なく知った彼の深いところ。整った容姿を持ち、文武両道なこのクラスメイトが上へ立つことに一切の興味を示さないのは、その存在のせいだと龍園は解釈していた。支配されることが当然となっているから、支配する側に回れないのだと。ただし誰の下にでもつくというわけではなさそうで、事実ナマエは龍園の支配からは少し外れた位置にいた。端から争いや他人の支配を嫌って龍園に従わない者ならともかく。優秀なくせに奴隷根性のようなものがあって、そのくせそれが自分に降ろうとしないのが何だか生意気で腹が立って。その"誰か"を潰してやるなどと息を巻いていた頃もあったけれど。
「一応言っておくけど。おれは、何もしてないよ。おまえとあの人の戦いに、一度も口を挟んだことが無ければ、情報一つ流したこともない。本当だ」
「そんなことはハナから疑ってねえさ。おまえが俺たちの勝負に手ぇ出してくる気がないってことくらい、口振りでだいたいわかってたからな」
「そうか」
それくらい、ナマエはあれを信用していて、龍園の負けを確信していたということだ。非常に気に入らないと言えばそうだけれど、対峙した今なら理解はできる。あれはどう足掻いても自分が敵う相手ではなかったのだと。思考の方向性、容赦のない手段を取る辺りは、似通った二人。その二人の勝敗を分けたのは、きっとたった一つだ。持っているか、持っていないか。前者が龍園で、後者が──今回の勝者、綾小路清隆である。龍園が捨てきれなかったもので、それを逆手に取って一度こちらを負かした相手にも勝利してきたと言える感情の一切が、どうやら綾小路には無いらしい。
「強かっただろう、"清隆様"は」
「清隆様、な。気色悪ぃことだ。ありゃまともじゃないぜ。あれを讃えるお前も含めてな」
「そうだな。あの人はまともではないね。おれはまともだけど」
「言ってろ、変態」
「へんたい……」
全てを知って尚、あんなものと親交を深める奴は、まともな神経をしていない。ううんと唸りながらわざとらしく困ったように眉を下げてが苦笑いをした。
「龍園、一つ勘違いしてるみたいだ。おれは、あの人を崇拝しているわけではないよ。すごいとは思う。憧れはあるが、おれがあの人を清隆様と呼ぶのは、ただの立場上の都合。おれの趣味じゃない」
「どこぞのお坊ちゃんかよ、あいつは」
「本人から聞くといい」
「聞かねえよ。そんな気色悪い仲になった覚えもない」
「じゃあ、今からなるといい」
「は?」
「利害関係が一致した時だけでいい。あの人と、話をしてやって」
気負いのない軽さで、彼は続けた。それでいてどこか祈るように、悔やむように。
「おれはあの人の兄で友人役だったけど、もうお役御免を食らってる。彼はおれが嫌いなんだよ。不義理を働いたからな」
「……なんだそりゃ。おまえの独りよがりな感傷に、俺を巻き込むな。面倒は御免だ。俺はもう、何かをするつもりはねえし、おまえに関わるつもりもねえからな」
「まあうん、巻き込まれてくれなくてもいいけど。こうなった以上、無関係でもいられないだろうからさ」
ぽんと龍園の肩を叩いて、まるで友人に向けるかのような微笑みを、初めて彼は龍園へと差し向けた。見上げるでも見下すでもない、対等な目線。その穏やかさは彼の余裕の表れに他ならず、つまり龍園にしてみれば馬鹿にされているのに等しかった。無理難題を言う龍園によく困った顔を見せていただが、察するにあれだけが真の姿ではないのだろう。
「これからもよろしく、ただの龍園。今のおまえとなら、仲良くしてやってもいい」
「うるせえよ。今すぐ消えねえなら本当に潰すか?」
「頑張って」
あくまで小馬鹿にしたような態度のままで去っていく後ろ姿にもう二、三言文句をぶつけてやろうかとも思ったが、そんな気分にもなれなかった。
今だって、を潰すだけならそう難しくないと龍園は踏んでいる。でも彼をどうにかしたところで気分が晴れないことも、わかっている。が真っ直ぐ、なんのフィルターも通さずに龍園を見ることがないからだ。以前は綾小路の敵として、今は綾小路に負かされた一人、あるいは彼の利用できる駒として龍園翔を認識していることは言動の節々から感じ取れる。綾小路という存在がの中のヒエラルキーのトップに君臨し続ける限り、同時に彼の弱味が綾小路であり続ける限り、龍園はに対し満足に恐怖を与えることすらできそうにない。その事実がまた、気に入らないのだ。──もうどうでもいい、関係のないことだが。
どいつもこいつも勝手にしろ、と心中だけで吐き捨てながら、無意識に零れた舌打ちは、やけにはっきりと耳の奥に響いた。