きみのしらないかお

 忘れられないひとがいる。その男は決して強く刻み込まれるような印象を他人に残すひとではなかった。容姿も性格も、どちらかと言えば主張は激しくない方の人種のはずだ。けれども、大勢の中に混じっていてもどこか彼だけが違う空気の中で息をしているようで、その景色の中ですっかり浮いてしまっているのだ。北の果ての雪山のように、終わりの見えない静けさと、厳しい冷たさを覗かせるひと。普段はじっとしているくせに、気まぐれに吹雪で周囲を巻き込んで、己を恐ろしいものであったと思い出させるような、厄介さを秘めていた。人の助言をあからさまに拒みはしないがまともに耳を貸そうともせずに、見えないところで好き勝手やって、立つ鳥跡を濁さずとでも言わんばかりに、跡形もなく消えていったのだ。
──見ててやるから。おまえが、どこまで行けるか。おれの思ったところまで、たどり着けるのか
 そういう男がいたことを、朔間零は忘れられずにいる。関わり方は、この夢ノ咲学院で知り合った人の中では比較的薄かったのだけれど。痛いくらいの爪痕を、残されたわけでもない。ただ踏み込まれたことのない場所に唯一、一歩分軽く足跡をつけられただけ。それだけで、好きだとか嫌いだとか、そんなシンプルに片がつく話ではなくなった。あんたは今でもちゃんと俺を見ているのかと、そんなことを時折考えてしまう程度には、その存在が頭の片隅に漠然と引っかかっている。責任持って、見てろよ、なあセンパイ。



「あぁん? 迷っただぁ? いやどうやったら迷えんだ、学院からそんなに離れた場所じゃね〜だろうが! 送ってやった地図本当にちゃんと見たのかよ?!」
 スマートフォンに向かって盛大に怒鳴りつける少年を横目に見て、零は軽く目を瞬かせた。零が彼と並んで歩くこの通りは夕方、会社や学校から帰路につく者たちがそこそこの量を行き交う。そんな道のど真ん中で声を荒らげれば、悪目立ちは避けられない。まさかスマートフォンを取り上げるわけにもいかず、声量下げろよ、という意味で零は自身の口元に指を持って行く仕草をして見せた。との意図を正確に汲み取ったらしい同行者で通話中の大神晃牙は、片手をあげて申し訳なさそうに眉を下げる。直後、声を潜めて電話の向こう側の誰かに、更に文句をつけ始めた。
「ちげーよ、あんたのせいで朔間先輩に怒られちまったんだよ」
 勝手に人の名前を出さないでくれ、とは思うに留めた。彼の通話相手と直接知り合いである可能性は低いが、大方その親しげな誰かに憧れの朔間零の話を語り聞かせているのだろう。だから何のためらいもなく、会話に名前が出てくる。
 この大神晃牙が、現在大して緊張したようすがないのは、果たして良いことなのか、悪いことなのか。零は判じかねていた。このあと憧れの先輩と同じ舞台に立つというのに、その本番まであと一時間弱だというのに、晃牙ははしゃいだり怒ったりと忙しなく、怖気付くような素振りもない。ここまで来るとその豪胆さは才能と呼んでもいいのかもしれないが。ただ鈍いだけだったとしたら、それは少々期待外れではある。ともかくその本質は、望もうと望むまいとこれから嫌でもわかることになるので、答えを急ぐ必要はなかった。それはそれとして。
「諦めようとしてんじゃね〜よ。今日来ないとかぜってえ許さねえかんな。しばらく飯作ってやんね〜から。……いや自分で作ろうとすんなよ、台所立つの禁止しただろうが。てめーの調味料全部多めの雑料理なんざ食い続けたら塩分摂りすぎで死ぬだろ。緩やかな自殺と同じだっつうのあんなん、この味音痴」
 既にリハも顔合わせも終わり、地下ライブハウスの開場までの時間はほぼ暇と言っていいほどやることがなかったので、同じく暇そうにしていた可愛い後輩を連れ出して、軽食の買い出しなど来てみたものの。その帰り道、突然かかってきた電話が晃牙の意識から零をほぼ締め出してしまったので、結局一人で買い物に来たのと同等の退屈さを持て余している。
「はぁ? チ、めんどくせ〜な。仕方ねえから、この俺が迎えに行ってやんよ。有り難く思え、この方向音痴。ああもう、あんたってほんっと……」
 味音痴に方向音痴とは随分とポンコツな奴がいたものだ。見慣れてしまった代わり映えのしない風景から、なんとなしに同行者をもう一度盗み見て、零はその些細な変化に目を留めた。スマートフォン相手に口悪く文句を垂れ流し続けるだけに思えた晃牙だが、彼の口から出る悪態に反して、その表情は存外柔らかく、もっと言えば鬱陶しそうに尖らせていたはずの唇が、堪えつつも今にもふにゃりと緩みそうになっている。
「──俺がいないと全然だめだよな」
 彼は、つまり嬉しいのだろう。電話相手が、自分がいないと立ち行かないということが、どうしようもなく。そう解釈するとなかなか面白いネタである。口振りからすると相手は年上だろう。しかも相当親密だ。
「あぁ? なに断ってんだよ。俺が迎えに行ってやるっつってんだろ。大人しく迎えられろよ、悪あがきとか見苦しいだけだしよう……あっ、おい……くそっ、切りやがるか普通っ?!」
 一方的に通話を切られたらしい。晃牙は物言わぬ物体となったスマートフォンに向かってあれこれ言う様はなかなか愉快ではあるけれど、人目を集めたくはないので適当に宥めておくとして。零に言われて少し落ち着きを取り戻した晃牙に、改めて意地悪な質問を投げた。
「振られちまったか?」
「そ、そんなんじゃね〜よ!」
「でも女だろ? そういう顔してたぜ〜。案外やることはやってんだなぁ、わんちゃんは」
「誰がわんちゃんだよっ! つうか、あのひとは……そんなんじゃねえし」
 やりきれないといったように再び舌打ちをする晃牙は、未だにスマートフォンを忌々しげに睨んでいる。最早独り言に近いトーンで、彼はぼそぼそと言葉を継いだ。
「あのひとは俺のことなんて、どうとも思ってねえんだよ。俺じゃあ、あのひとが寂しいときに一緒にいてやれねえから。替わりは、いくらだっているみたいだしよう……」
「……なんだそりゃ」
 なんと健気で、可哀想なことだ。相手の女の、彼への扱いが知れるというものだろう。健気で可愛らしい犬に、替わりはいくらでもいるとまで言わせる相手。どれだけの魅力があったら、この犬にそこまでさせるのだろうか。零も彼に相当好かれている自覚はあるが、その"誰か"と好きの種類が異なることくらいはわかる。
「利用されてんじゃねえの、おまえ」
「……そうだったら、幾分かましだったろうな」
 決して相手を擁護するような言い回しではなかった。その科白にはまるで利用される以上の残酷さを相手から与えられているような重量を感じる。想い人を批難するような眼差しに寂しさを滲ませる晃牙は、ただきゃんきゃんと吠えるだけの犬とは違い、ほんの僅か大人びて見える。自分の気持ちが相手に届かないことを知っている。知っていて尚、諦めのつけ方がわからない、そんな苦しいだけの恋を彼はしているらしい。本人がどれだけ否定しようとも、朔間零の目に映るのは紛れもなくたった一人に恋い焦がれる少年だ。
「おまえも案外苦労してんだな〜?」
「わっ、なんだよ急に、撫でんな……っ」
 わしゃわしゃと犬にするように晃牙の頭を掻き回したのは、憐れみめいた感情からだ。拒むように飛んでくる腕を軽々と受け止めながら、零は苦笑をこぼす。
「辛気臭え顔してんなよ、わんこ。その相手が今日は見に来るんだろ? 最高のパフォーマンスで魅せて、その女に余所見させないようにすりゃあいい」
「……朔間さん」
「人の気持ちなんざ、良くも悪くも簡単に変わっちまうもんだからさ。特に女は秋空と一緒だよ、くるくる移り変わる。こっちの都合なんかお構いなしだ。ただ、残念ながら天気みたいに待ってるだけでこっちを向くような都合の良いもんでもない。だからおまえが──自分の手で、そいつの心を自分だけで一杯にしてやれって話だ」
 余所見する隙間もかき消すように。ぽかんとして零を見上げる瞳が、ヒーローを見つめる子供みたいに煌めいた。
「かっけえ……」
「まあ俺様が持って行っちまう可能性もあるけど。その時は恨むなよ〜?」
「なっ……ああいや、たぶんそれはねえ」
「うわすげえ自信」
「そうじゃねえよ、単にあんたはあのひとのタイプじゃ……って……あ?」
 ふと、顔を上げた晃牙の顔が強張った。耳を澄まして、何かを探しているのかきょろきょろと辺りを見回していたが、やがてある一点に視線を縫い付けられたかのように、彼の目がすべての動きを止める。その視線を辿っていった先にいるのは、なんてことはない、こちらに向かって歩いてくる一組の男女だ。遠目に見ただけなら、ありふれた彼氏と彼女のようだった。 女の方がずっと喋り続け、男の方はそれをどうでもよさそうに流す声が聞こえた。大学生くらいの背格好からしてどちらも年頃は大学生くらいだろう。それだけなら、よかったのだが。彼らが段々とこちらへ近づいてきたとき、正確にはその女の隣が誰なのかを頭が理解した直後に、零もそのまま固まった。この夕焼けの中でも浮いてしまう、冷めきった空気感を背負って、整った顔には愛想の欠片も仕込まずに、ただただ気だるそうに歩く男の存在に思考が鈍くなる。なぜ、このひとがここに。
「ん? あれ、あの子……」
 先に顔を上げて零たちを見たのは女の方で、不躾にも指を差してきていた。彼女の指の先にいたのは、茫然として立ち尽くす晃牙だ。あ、とか、う、とか声にならない声をつぶやく彼の表情は徐々に険しくなっていったし、太ももの横で握られた拳は震えている。目の前まで来た二人組は、そこで足を止めなかった。歩くスピードを緩めることもない。晃牙と二人組の間が、なんとも気まずややこしそうなうねりで満ちているのは第三者から見てもわかる。女はずっとなにか言いたげに晃牙を見ていたけれど、男は晃牙や零に一瞥もなかった。ただそのまま興味なさげにこちらを横切っていこうとしている。
「ちょっと待てよ! なんなんだよ、気付いてんだろ?!」
 ついに我慢がきかなくなったとでもいうように、生の感情をのせたような荒い声が、二人の足を強引に引き止めた。晃牙はそのまま二人に向かって吠え続ける。
「なんで……っ」
 切なげな響きを含むその声に、再び零は彼の健気さに感心した。晃牙のそれは、察するに女の方に向けられているのだろう。先程彼が話していたその相手が、彼女と見て間違いない。電話越しの会話を聞く限りでは迷子になっていたはずなのに、まさか男と一緒だったとは。そう勝手に結論し、同情しかけていたのだが──
「わけわかんねえ女と一緒だし、そんなの聞いてねえし、俺のこと無視しようとするしさ……な、んでそういうことすんだよ、あんたって奴は、なあっ!」
 その結論は間違っていたのだと、すぐに判明した。晃牙が男──に向ける目の必死さは、少し前の想い人を語るそれと一致している。電話の相手は、彼だ。晃牙の想い人は女だという前提から、間違えていた。であればこの女は誰だという話だけれど、彼の言う通り"わけわかんねえ女"なのだろう。このふたつ年上の男のそういう適当さは、昔から変わっていなくて笑いがこみ上げてくる。おまえを目標にしてる奴は全員時間を無駄にしてる、とに言われたことがあるが、それなら零だって言いたい。──あんたを真面目に追いかける奴は、全員時間を無駄にしてる。大神晃牙も、その一人らしい。
 ともあれ今回の件、女と一緒なのはともかく、晃牙を無視した件についてはほぼ間違いなくその理由が自分にあると零は踏んでいる。そうなると、可愛い後輩のためにフォローくらいはしてやらなければならないので。何も言わないに向かって、零はひらひらと手を振って見せながら。
「悪い、たぶんそのひとがおまえを無視したのは俺のせい。俺がいるから声かけたくね〜んだよ。そうだろ、センパイ?」
「だれおまえ」
 長い前髪の間から覗く瞳は零を見ようともしない。そんな彼らを晃牙が目を瞬かせながら見つめていた。
「往生際が悪過ぎるんじゃないですか。まあ昔から意地も性格も悪いひとだって知ってるけどさ。目に入れても痛くない可愛い後輩の名前を、あんたが忘れるわけないもんな」
「おれはおまえを可愛いと思ったことは一度もないよ」
「あはは、あんたはほんとに素直じゃねえなぁ」
「意地が悪いのはどっちだ、朔間」
 やっと、まともにと目が合った。冷たい静けさを宿した黒い瞳に自分が映り込むのを確認すると、懐かしい感覚に包まれる。朔間零を前にして、否、誰の前でも、の感情は正にも負にも大きく振れることがない。あの頃と同じく。
 あんた朔間先輩のこと知らなかったんじゃ、と首をかしげる晃牙の方へとの視線がすいと移動する。彼の双眸が柔らかく細まっていくのを見たのは、初めてだった。彼の視界には誰の姿も留まらないのだと思っていた。人の記憶の中から消えないくせに、誰も己の中に残そうとしない、一方的で手酷い男だったはずなのだ。それ以外の側面を、零は知らなかった。自分より四つも年下の少年に、どことなく優しげに声をかける彼を。
「──晃牙」
 人前でそんな顔が出来る男だったのか、あんたは。
(20181016)
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