きみのいちばんになりたい

 優しい記憶がたくさん詰まった家が好きだった。そしてそこに住まう、雨の匂いのする男を、好きになった。

 夢ノ咲学院と実家のちょうど真ん中くらいに位置する町には、大神晃牙の曾祖母の家がある。実家からも学院からも電車で一本、駅から徒歩3分。新築の洒落たデザインと明るい彩りの家々が並ぶ住宅街で、その瓦屋根の古めかしい一軒家は異彩を放ちながら、そして長い年月を越えてきたことをその風格で主張しながら、そこに建っていた。
 大神晃牙は、幼い頃から何度もこの家を訪ねていた。時には両親と車で、時には一人で電車で。幼い晃牙にとって、両親から離れて電車に乗ってどこか遠くへ出かけるというのは、最早冒険に等しい。目的地が電車一本ですぐに着いてしまう場所であっても、たった一人で行う電車移動は、彼に大人の仲間入りを果たしたような気分にさせた。今思えば、難なくたどり着ける立地であったからこそ、両親は晃牙の短い一人旅を許したのだろう。最初に晃牙だけで祖母の家に向かったのは、10歳の時だ。両親の帰りが遅くなる日だった。
 初めてその冒険をした日の記憶は、何年経っても色褪せずに晃牙の中に残り続け、時折忘れるなとでも言うように、なんでもないふとした瞬間に浮かんでくる。小雨とも言えない量の、雨が降っていたはずだ。一定の間隔で揺れる電車の中で、彼は降りる駅を間違えないかそずっとわそわしていたし、どきまぎしながら老夫婦に席を譲ったりもした。見覚えのある駅名が視界に飛び込んできたのときの喜び。改札を出て、傘の柄を握りしめながら歩き、似たような家が密集する景色に不安が過った。その並びに慣れ親しんだフォルムの家が見えたときの、これ以上はない安心感。渋く立派な門を潜り、石でできた道を歩いて、玄関の前でチャイムを押して。そして──引き戸が開き、そこから姿を見せた、静謐なうつくしさをにじませた制服姿の少年。彼は、上品そうな仕草で、首を傾げる。
「だれ、おまえ。この辺に住んでるガキ?」
 その日は晃牙が初めての冒険を試みた日で、初めてその男に出会った日でもあった。



 祖母のものであった家に、甘ったるい香水の残り香が散っている。
「……おいコラ、
「なんだよ。来るなり機嫌悪いな」
 授業が終わるなり、晃牙は早足に学院を出た。ギターケースを背負って学院を出発した晃牙は、自宅への帰路とは逆の道を進み、電車に乗って、祖母の家までやってきた。この家なら、昼でも夜でも気兼ねなく好きなだけギターを弾けるからだ。実家でも鳴らせないことはないが、アンプを繋がなくともギターという楽器は案外響く。かき鳴らせば、親からは早く寝ろと苦情が来るのが目に見ていた。恐らく、今もここに曾祖母が住んでいたなら、彼女が静かに過ごせるように、ギターを持って来ることはなかっただろう。今この家の住人は、ただ一人だ。晃牙にとって、彼は気を遣う対象ではないし、付け加えるなら自身の奏でるギターを誰かに聴いていてもらいたいという気持ちもある。不必要に耳の良いこの男は、演奏をまともに聴いていないくせに、「いまミスったろ」などとすぐ的確に指摘してくるから質の良い観客とは言えないけれど。
 晃牙の少し遠い親戚にあたる彼は、両親との折り合いが悪すぎて、中学生の頃から曾祖母の厚意でこの家で暮らすようになった。そして一昨年、家主が亡くなってからも、彼は彼女の家族の許可を得て、家に一人きりで住み続けることを選んだ。ここは、晃牙にとってもたくさんの思い出がいたるところに染み付いている家だ。曾祖母との思い出、との思い出。そのどれもを彼は大切にしていて、だからこそがここにまだ残ってくれることに、ほっとしていた面がある。望まずとも変わっていくものが多い日々、変わらないものがあることが、嬉しかったのだ。けれども、彼のその選択は、晃牙にとって良いことばかりでもなかった。
「誰のせいだと思ってんだ? あぁん? てめえまた女連れ込んでただろ。俺の鼻は誤魔化せね〜かんな。気持ち悪ぃんだよ、このきつすぎるべたべたした匂い! 鼻がむずむずしやがる!」
「消臭剤なら、台所だぞ」
「そうじゃね〜よ!」
 あまりに雑な切り返しに思わず吠えながら、晃牙はくそ、と零してから、更に苛立ちをひけらかすように舌打ちをした。の視線は大して興味もないであろうテレビに固定され、晃牙を捉えることはない。そのまともに相手をされていない状態に、また苛々が重なり積もっていく。
 教科書やノートの詰まった鞄は居間の畳に乱雑に捨て置いて、ギターを柱へとそっと立てかけた。教科書は壊れないが、ギターは簡単に破損する。晃牙からしたら、当然の扱いの区別だ。の視界の大半を占めるテレビを遮るように、晃牙はローテーブルを挟んで彼の正面に、彼と同じように畳にあぐらをかいて座った。しらけたような溜息をつくを、テーブルに頬杖をつきながら睨んだ。
 この4つ年上の男は、晃牙がしてほしくないことを、よくする。きれいで汚れのない記憶しかないこの神聖な場所に、不純な目的の下、女や男を連れ込むのだ。最初に彼らを見かけたときには、ただの大学の友人だと疑っていなかったけれど、その内に晃牙は理解し、察した。晃牙が偶に見かける見知らぬ男や女は例に漏れず全員、によからぬ期待と欲望を抱えて、彼の隣に並んでいるのだと。そうしてそれを、はなんでもないことのように、寧ろどうでもよさそうに、受け入れているのだと。
 晃牙がやめろと言い聞かせても、がそれを止めることはなかった。あの手この手でどうにかその回数は減らせたが、今でもこうして、晃牙が知らない誰かが大切な思い出に土足で踏み入り、ご丁寧に残り香まで置いていく。晃牙の一般人よりもずっと優秀で敏感な鼻はそれを必ず拾うし、その後怒りをぶつけられるとわかっていて、はやめることもなければ隠すような真似もしなかった。その図々しさが、晃牙には余計に腹立たしい。おまえには関係ないだろう、と言われているようで、一線引かれているようで、嫌なのだ。
「俺はべつに……あ、あんたが、どこの誰と付き合ってようが、どうだっていいがよう」
「うん」
 涼しげな切れ長の目が、ついに晃牙だけを見つめるようになったものだから、反射的にどきりとした。晃牙の2つ年上の先輩は、人を誰彼構わず惹き付ける魔物のような、蠱惑的な魅力のある美形だと評判だが、は彼の持つそれとはまた違っている。どちらかと言えば細長い体つきに、姿勢の良い立ち姿、欠点なく整った顔は、ぎらぎらしているでもなく派手さこそないが隙もない、洗練された容姿だった。酷く落ち着き過ぎた物腰は、表情が乏しいということも手伝って、12月に吹き込む風のように冷ややかで。人を緊張させちまうらしい、と本人が昔言っていたのを覚えている。けれども尖っているわけでもないことは、一度彼を知れば、わかる。案外来るものを拒みはしないことも。だからこそ、晃牙は困っているのだが。
「待て。お茶が欲しくなった」
「いやてめえが待てよ。今俺が話してんだろ〜が! 聞けよ!」
「のどかわいた」
「俺だってかわいてんだよ!」
「じゃあ入れてこいよ。冷蔵庫に麦茶がある。好きだったろ、おまえ」
「〜〜っ、くそ! 麦茶飲んだあとで殺す!」
 こういうところが、嫌いだ。晃牙なんて相手にもしていないような態度を取るくせに、晃牙の好きなものを覚えて買っている卒のないところ。
 荒々しい動作で立ち上がった晃牙は、勝手知ったる台所で、食器棚からのお気に入りのマグカップと、曾祖母が昔用意してくれた晃牙専用のマグカップを取り出し、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出した。冷蔵庫の戸を閉める手に、つい力が入った。壊すなよ、と居間から飛んできた声は、無視した。誰のせいだと思ってやがる。
「ほらよ!」
「さんきゅー」
 どん、とわざとらしく音を立てて、テーブルにマグカップを置けば、中の麦茶が零れんばかりに大きく波打った。は大して気にしたようすもなく、マグカップに口をつけて、麦茶を思い切り喉へ流し込んでいる。喉がかわいていたのは本当だったらしい。ほぼ一息で八割を飲み干したが、ちびちびと飲み進める晃牙に、それで、と無表情のまま話の続きを促した。最早文句をつけるのも面倒なくらいに、彼はマイペースを地で行く。
「俺が言いたいのは……、なんでここに連れ込むんだっつう話だよ。ばあちゃんに申し訳ないとか、恥ずかしいとか思わね〜のか? つうか思えよこのひとでなし!」
「なるほど。おまえ、恥ずかしかったのか?」
「なっ、お、俺の話じゃね〜だろ! 今は!」
「おんなじだろ。おまえだって」
「うるせえその口閉じろ! 今すぐ黙りやがれ!! 黙るか死ね!」
 ほぼ無意識に、膝立ちになり大きく身を乗り出した。ちゃぶ台越しに手を伸ばし、の口を片手で塞ぐ。それくらい、それ以上を彼の口から聞きたくなかった。言葉として世に出てしまったら、再びそれと向き合わなければならなくなるからだ。何かを訴えかけるようにじっと、の無機質な瞳が晃牙を映し続ける。晃牙だけを見て、晃牙だけに何かを求めるような、うっすらと熱すら感じ取れるそれに、晃牙は、今日ではないいつかのを思い浮かべてしまった自分を恥じた。あの目が、自分を艶めかしく見下ろして、そして。思考が飛びかけた晃牙の手のひらを、不意にぬるりとした生温かいものがゆっくりとなぞった。
「ひっ!」
 の口元から一瞬で手を引きながら、何をされたのかすぐに理解した。
「な、なんなんだよ! 俺なんで舐められたんだよいま?!」
「なんか美味そうだったから」
「俺は食いもんじゃねえぞ?!」
「知ってるけど」
「すぐそういうことすんなよな! びっくりしちまうだろ! せめて許可取れ許可!」
「許可くれよ」
「なっ……、お、お願いの仕方ってもんが、あ、あるだろうが。俺は心の広い男だけどよう、そんなに安い男ってわけじゃ──」
「もういい」
「聞けよ!! つうか簡単に諦めんなよ! それでも男か?!」
「どうして欲しいんだよ、おまえは」
 ふ、とが堪えきれなくなったかのように、口元を指で申し訳程度に隠しながら、目を細めた。の笑い方は、存外慎ましく、無闇に色気があった。彼はそのどうしようもなく雑な人間性に反して、時々上品な家の生まれかのような振る舞いをするが、それは曾祖母の影響に他ならない。綺麗な容姿、綺麗な仕草、汚れた中身。なぜこうなってしまったのかと、晃牙は何度も不思議に思うのだ。
「晃牙」
 に舐められた手のひらを見下ろし、その後に自分の名を呼ぶ男を鋭く見やった。まだ感触が鮮明に残っている。手のひらをなぞったときのことも、あの舌が、生き物のように手以外を這い回ったときのことも、身体が覚えている。徐々に蘇る感覚に、体温が、一度上がった気がした。
「期待させたか」
 薄く笑うは意地悪そうでもなく、ただの事実確認のような口調だ。それでも、晃牙の頭に血を上らせるにはは十分な威力を持った一言であったし、事実彼はまた吠えた。
「んなわけね〜だろ! この痴漢! 変質者!」
「傷付くね」
「傷付いてから言いやがれ! ずっけーんだよ、むかつくんだよ、てめえばっかり余裕ぶりやがってよう……!」
 期待なんてものじゃない。じりじりと内側が熱くなり始めるのは、最早条件反射に近かった。そういうふうな身体に、この男がしたのだ。何も知らなかった晃牙に、彼が教えたのだ。
 のひんやりとした肌がかすめるように接触するだけで、晃牙の頭の中には不健全な記憶がかけ巡るようになった。意識が飛びそうなくらいに気持ちよくて、床の底が抜けそうなくらいに凹んだ夜。その回数は一度や二度ではきかず、最早無かったことにできる理由はない。彼の中で、同性代がチェックしているどんな大人向けの雑誌やサイトよりも、"いやらしさ"を感じる対象は、ただ一人だ。健全ではないという自覚はあるけれど、どうしようもない。
「ごめんな。おいで」
 悪いなんてちっとも思ってないくせに、晃牙を呼び寄せるついでみたいに彼は謝罪して見せた。それが気に食わなかったから、晃牙はあからさまに機嫌が悪そうにかぶりを振る。
「……いやだ」
「嫌なら、いいよ」
「……いいとか、言うなよ」
「おいで、おれのかわいい晃牙」
 ──逆らえない。今すぐテーブルを飛び越えて行きたい気持ちをプライドで抑え込んだ。逆らう気にはなれないが、からの扱いに納得しているわけではない。子供かペットのような可愛がられ方は、晃牙の望むところではなかったので、一旦、今にも挫けそうな意地を張ることにして。
「あぁ? 俺はなぁ、かわいい、なんて甘っちょろい評価は求めてねえんだよ。愛玩用の犬っころと一緒にすんな、孤高の狼の相応の褒め方ってもんを考えとけ」
「はいはい、かっこいい晃牙。ハウス」
「だから犬じゃね〜つってんだろ!」
 てめえはいつもいつも、と文句を吐きながら、晃牙はその場を離れ、座ったままのに掴みかかろうとした。掴みかかったあとのことは、正直何も考えていなかった。だから、無計画に勢いだけで体重をかけた晃牙の身体を特に受け止めようともしないが、そのまま背中から畳へと倒れ込むと同時、晃牙も一緒にその場に横倒しになるのは自然なことだった。畳に両手をついて自身の身体を支えた晃牙は、己が親戚を組み敷いている現状に、数秒思考が停止する。カットソーから覗く鎖骨が、やけに眩しい。
「大胆」
「ち、ちげえよ!」
「狼に捕食される人間の図かな」
「……恐れ入ったか」
「あぁ、参った」
 の綺麗な手が、晃牙のうなじにそえられた。たったそれだけでぞくりと背中が震えてしまったことに気づかれていませんようにと、晃牙は祈る。長い指が髪を束ねるゴムを解くと、灰色の髪が肩へと滑り落ちてきた。それを見上げるは、どことなく満足そうだ。
「髪、切るか。もう少し伸びたら」
「ん、短い方が似合うか?」
「どっちも似合ってるよ。おれはそれ、尻尾みたいで好きだけど。ただ、ずっと伸ばすわけじゃないだろ。切るならおれが切りたいって、思っただけ」
「……仕方ね〜から、切らしてやんよ」
 再び首を触るの手に、何かを促すような力がこもった。正しくその意図を汲み取った晃牙は、それに従うように、少しずつ身体を落としていく。の細身の身体との距離が縮まるにつれ、彼の鼻は不快な匂いを捉えた。胸が潰されるように苦しくなるのを、誤魔化しながら。
「甘ったるい匂いさせてんじゃねえよ。ばーか」
 の鼻をつまんで、その唇をちろりと舐めた。細まっていた目が、僅かに見開かれる。それを確認してから、晃牙は腕と体の力を抜く。に重なって、彼の肩口に鼻を寄せてやった。
「なあ、髪切らせてやっからさ、ここに俺以外を呼ぶの、やめてくれよ」
 大切な家を穢すような行為をやめて欲しいというその願いは本心そのもので、けれどもを責める理由はそれだけには留まらなかった。自分ではない誰かと一緒にこの家にいるを見る度に、胸焼けを起こしそうになる。もっと言うと、場所がこの家でなくとも、彼が彼に欲望を寄せる他者と並んでいるだけで、気分が悪い。彼らを目にしたとき、何故あんな奴らがを自分のものであるかのような顔をして彼の隣に立っているのだと、悔しくなった。どこにも行かないで欲しい。誰のものにもならないで欲しい。この先もずっと、この家と、曾祖母の思い出と、大神晃牙だけが居ればいいと言って欲しかったのに。
 晃牙がどうして自分だけじゃだめなんだと詰め寄ったときに初めて、は晃牙の何も知らない身体に、まだ知らなくていいことを淡々と教えた。驚きはしたが、気持ち悪いとは思えなくて。彼が自分に行う熱を伴う行為をすんなり受け入れた自分に引きはしても、逃げなかったことに後悔は出来なくて。寧ろ──真の意味で最後までしてもらえていないと後ほど知って、なんだかもやもやしたくらいだ。最近買ってもらったスマートフォンで入手した様々な情報は、なにひとつ実践されることなく、知識として蓄えられていくだけ。いやらしいだけの戯れを、幾度となく続けても、は晃牙を抱かなかった。他人の匂いを纏わりつかせる回数はその頃から減ったが、無くなりはしなかった。これ以上、どうしろと言うのだろう。どうやって、自分を差し出せばいいのか。晃牙には、わからない。
「ごめんな」
 聞きたい言葉を、彼はくれない。曖昧に笑って、それでしまいだ。悪びれもしない。制服のシャツをまさぐる手を好きにさせて、晃牙は動かなくなった。あんなに望んだ彼の手なのに、素直に喜んでその気持ちよさに身を委ねられない。自分ではだめだという惨めさが、晃牙の頭も体も鈍くさせた。たぶん、足りないのだ。なんでもないような顔をして、一等寂しがりのこの男の隙間を埋めて繋ぎ止めるだけの、時間も立場も子供である己にはない。子供の必死さなど見ないふりで、どうしようもない事実を平然と突きつけてくる、最低の大人。この子供よりどうしようもない大人を、大神晃牙は諦められない。
 ここは優しい記憶を詰めた家で、泣きたくなるような想いも重なっていく家。今までも、きっとこれからも。甘い香りに邪魔をされながら、雨を思わせる好きな男の匂いを、晃牙は一生懸命に吸い込んだ。
(20180604)
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