君のいるところがつまりは世界
"島"の夜は暗い。都会のように街中に立ち並ぶビルが光を放ち続ける眠らない街ならともかく、ここは学園と寄宿舎といくつか設置された外灯を除けば、他に光を放つ人工物がないからだ。皆が寝静まれば、島も眠る。つまり基本的には真っ暗だ。しかし夜に出歩くのに不自由することはない。高く眩しいビルの集合体が空を明るくし、星の存在感を希薄にする都会と違って、ここは暗いからこそ空の月と星がよく映える。今も電灯の類は必要ないと思わせるほどの月明かりが校舎や寄宿舎──そして現在三人が佇む廃墟にも、平等に注がれていた。
月の放つ光だけでその姿を闇から浮かび上がらせる廃墟は、不気味とも幻想的とも受け取れる姿だ。窓ガラスがはめ込まれていたであろう位置は夜に見上げるとぽっかりと空いた空洞のようで、外壁の塗装はそこら中皮がむけたように剥がれている。室内も廊下の木材がめくれ上がっているほど朽ちており、天井も所々崩れ落ちた形跡すらある。決して安全な場所とは言えない。極めつけは建物全体を覆う蔦。これがまたこの場所を日常の一部とは異なる位置に押し上げているのだろう。こんなビジュアルだ。気味悪がって近付かない生徒は多い。一方で、人気がないからと逢引の場所として活用する生徒も後を絶たない。
現在この廃墟に存在する三人の内の一人であるは、廃墟の奥から息を潜めて残り二人を眺めていた。傍から見れば逢引そのものだが、彼らがここで落ち合った目的がそんなものではないことを彼女はよく理解している。二人の片割れは、がここいることを知っており、もう一人は知らない。それがこの場において彼女が息を潜める理由だった。廃墟内は安全とは言えない耐久性だけれど、暴れ倒したりしなければなんということはない。夜風が肌を冷やす感覚を心地よく感じながら、二人の会話にぼんやりと耳を傾ける。話題は一つ。いつだって、一つだ。
「彼、もう行ったよ」
どこかからかうような囁き声が合図だった。足音が遠ざかっていく音が完全に消えるのを待って、は先ほどまで二人がいた場所で、一人になった男の前に姿を現す。ここを先に去った、エシカという名の少年と同じ学生服を身に纏って。男は廃れた廃墟の隅に腰掛けているだけなのに、身なりのせいか顔つきのせいか態度のせいか、酷く優雅だ。
「エドワード様」
声を潜めたまま、名前を声に出す。エドワード・アーロン。目の前の男の名であり、彼女の主となる男の名でもあった。
「こうしてゆっくり話をするのは久しぶりだね、。前に来た時は二人の時間を取れなかったから、さぞ寂しかっただろう。泣いてくれたかな。僕を想って」
「涙は一滴たりとも無駄にしていないのでお気遣いなく」
「そうだね。僕のために流す涙が無駄なわけないもの」
エドワードはおっとりとした微笑を深め、は貼り付けたような笑顔を凍らせた。彼は少女の反応などお構いなしに、値の張りそうなコートに通されている両腕を広げて見せる。
「さあ、遠慮せずにこの胸に飛び込んでおいで」
「結構です。それよりご報告を」
「はい飛び込んだ」
「ちょっと、なんでそっちが飛び込んで来るんですか!」
がその場から動かずにいると、エドワードが腰を上げて素早くの身体を案外逞しい腕で包んだ。
「シー、声が大きいよ。いけない子だ」
「……っ、すみ、ません」
ついつい大きくなった声量を、は悔しげに絞る。島の"発表会"である今日は普段より警備が厳しいので、警戒にも気を抜けない。誰かに見つかると問題にしかならない状況だ。ただでさえ夜に寄宿舎から抜け出すのはルール違反であるというのに、外部の人間とのこんな形の接触などもっとご法度だ。
が視界一杯に広がるエドワードのコートからそっと目線を上げると、愛しげに自分を見る青い瞳がそこにあった。今自分を抱きしめるこの腕はとても優しい人のものなのだと、錯覚してしまいそうになるくらい、優しい目。
「いい子にしてたかい、シュガー」
「いい子、かどうかはわかりませんけど。大人しくはしてましたよ」
「誰かに触らせたりしていない?」
「人をこんなところに放り込んでおくヒトの台詞とは思えませんね」
実際誰かしらに何かされていたとしても、彼が何らかのアクションを起こすことはない。起こせる立場じゃない。だからこれはただの確認だとは認識している。
「心配くらいさせてよ。心配しか出来ないけど」
「心配しかしない、の間違いでしょう」
「手厳しいなあ、僕のシュガーは」
何の前置きもなく、額に唇が降ってきた。ちゅ、と音を立ててから、柔らかい感触がすぐに離れる。子供にされるような機嫌の取られ方は好きではなかったが、嫌ではないので受け取っておく。を解放する気配がないまま、エドワードが口を開いた。
「僕のマキは元気にしてたかな?」
「ええ、問題なく。エシカもいますし、そもそも私なんか必要ないくらい」
「そうだねえ。エシカは王子様だから。君が嫉妬しちゃうくらい」
「し、嫉妬なんか……!」
再び声を上げかけるが、の後頭部に添えられた手が、彼女の顔を眼前のコートへと押し付けた。声は大きくなる前にそちらに吸い込まれ、は情けなさに顔を上げられずにいる。
「次は口で塞ぐよ」
「……すみませんでした」
この"島"──ミハイロフ第五寄宿学校は、ミハイロフ慈善事業団が建てた孤児のための音楽学校だ。しかしは孤児ではない。れっきとしたエドワード・アーロンの養女で、本来学校に在籍する権利を持たない子供だ。つまり二人は学校を騙している。一人の少年を見守りたい主のために、は孤児を騙ってここで生活していた。男が大半の、この学園で。
耳元に控えめな笑い声が響いて、そのくすぐったさに思わずは身じろぎした。恐らくそれに気付いているであろうエドワードは、喋る位置を変えることなく苦笑気味に一言零す。
「妬けるなあ」
「だから、わたしは、べつに」
「僕がね」
「……あなたが?」
「君がマキに惚れちゃったりするから」
「盗ったりしません。誓って」
取り繕うのを忘れた。それくらい、ここは主張しておかなければならないところだと思ったのだ。マキは主の大事な人で、自分のようなものが手を伸ばしていいものじゃないとは心得ている。「好きじゃない」と意地で見え透いた嘘を吐くよりも、「盗らない」と心から誓う方が、ずっと誠実だ。けれども、そろりと上目で確認した主の顔は晴れていなかった。
「うーん……」
「確認しますけど、マキと親しくしているわたしに妬いてるんですよね?」
「どちらに妬くべきか悩んでる」
「なんですかそれ。どうしてマキまで」
「マキはまだ書類上僕のものじゃないけど、君は真実僕のものだからね。余所見されるのは面白くないじゃない。男として」
存外真面目にそんなことを言われては一瞬言葉に詰まった。
「まあわたしも今は書類上あなたものではありませんけどね」
「おや、そんな意地悪を言うのはこの口かい?」
両手で頬を無遠慮に引っ張られた。どことなく冷えた眼差しに射抜かれながら、どう言えば彼の機嫌を取ることが出来るのかを改めて思考する。自分は頭からつま先までこの男のものだ。そこに異論はない。でも、マキを、あの無愛想で優しい少年を、異性として好きになってしまったことは本当だ。そんなつもりはなくとも、余所見と彼が感じたのなら、それが真実なのだろう。
「歳が近いっていうのはやっぱり強みなんだねえ。年齢差は金を積んでも埋められないもの。まあ今更君たちと並びたいとは思わないけど」
だって、と続けた背中に回されているエドの左手が、何気なく制服のセーターを弄り、その中に進入してくる。スカートの中に入れていたシャツを乱して、背中に直接冷えた指が触れた。ひ、とつい小さな声が漏れる。
「同い年だったら、こうしていても、いけないことしている気分にならないでしょう」
「変態ですね」
「褒め言葉だね」
溜息が一つ、やはり耳元で落とされた。困った子だ、と彼は独り言のように囁いた直後、耳朶に歯が軽く食い込んできて、は痛みで飛び出しそうになった声をなんとか抑え込んだ。
「わざと会う機会を一回分飛ばしてみたのに、君はマキがいるから寂しくない? それとも、同じ学校の仲間に相手をしてもらえるから? 今日まで、何人の男に触らせた?」
「ち、が……っ」
「いやらしい。どこで教育を間違えたかな」
あなたの教育が正解だったことなんてあるんですか──そんな皮肉は口から出る前に主人の唇に飲み込まれた。大きな手に手際よくブラのホックが外されたのと、その目が楽しくて仕方が無いと語っていたのを理解した瞬間、の中で諦めがつく。この男は本気だ。本気で、ここで自分を抱くつもりだ。こんな、廃墟で。
慣れた手順で、エドワードの言うところの間違えたかもしれない教育通りにキスに応えていくと、彼は満足そうに目を細めた。熱っぽく見つめられたら、自分まで熱が伝染したような錯覚に陥った。やがて唇を解放したエドワードは、ぐいとのセーターとシャツをたくし上げ、にっこりと笑う。
「あぁ、やっぱり。僕がプレゼントした下着だ。いいね、よく似合ってる」
「……ありがとうございます?」
「これを着けてきてくれたということは、やっぱりいやらしい期待をしていたの?」
「わたしの手持ちの下着は全部あなたが送ってきたものじゃないですか」
「君にはサービス精神が足りてないね」
服に隠れていた肌が外気に晒されて、肌寒さに身震いをした。「すぐ寒くないようにしてあげる」と前置き、腰を折りながら胸元に顔を寄せた笑顔のエドワードが白い肌に吸い付いてくるのをはなんとも言えない表情で見守る。彼女の気持ちを端的に言えば、バレる前に終わりますように。それだけだ。
「急かすような目で見られるとやりづらいんだけど。色気のない」
「……一応言っておきますけど。見つかったら非常にまずいです。色気出してる場合じゃないです」
「見つかったら君を連れて逃げるだけだよ」
「そんな財団に喧嘩売るような真似はやめてください」
「愛しいマキと離れることになるのはそんなに嫌?」
「いいえ」
今度ははっきりと、否と伝えた。少し驚いたように目をまるくして自分を見上げるエドワードを真っ直ぐに、強く見つめ返して、迷い無く告げる。
「あなたのためです、エドワード様。疑いますか」
だって、自分はエドワード・アーロンのものだ。マフィアだった父親が、全てを失くしてこの男に頼り、彼の援助と引き換えに一人娘を売ったその日から。決して尊敬できる父親ではなかった。血の繋がりすら恥じたくなるような男の周りには、類は友を呼ぶと言うほかない連中しか集まらなかった。最悪な人間と最悪な場所で生まれ育ったにとって、エドワードは救いそのものだったのだ。例え、彼にどんな趣味があろうとも、倫理観がずれていようとも。自分の父親とその周囲の人間に比べたら、なんということはなかった。彼の傍にいられるためなら、なんだってすると、決めている。
「エドワード様?」
ほんの僅かとの距離を取ったエドワードが、右手で口元を覆い、肩を震わせ始める。笑っているとはわかるけれど、笑いのツボに入るような発言をしたつもりはもちろんなく、は首をかしげて主の発言を促すくらいしか出来ない。
「いや、なんでもない。悪かったね、さっきのはからかっただけだよ。君の忠誠心を疑ったわけじゃない。はは、君は本当に真面目で可愛いなあ、僕の」
何故か、よしよしと頭を撫で回された後、再度額にキスが落とされた。ここにきての子ども扱いに、もしかしたら説得の甲斐があったのかと期待して。
「さ、続きをしようか」
「続きはするんですね」
砕かれた。
「もちろん。東の言葉で、据え膳食わぬはって言うでしょ」
「わたしたち西の人間ですけど」
是が非でも最後までするつもりらしい。口元に笑みを形作ったまま、ふとエドワードが空を仰ぐ。つられるようにもまた顔を上へと傾けた。夜空に瞬く星と、自分たちを青白く照らす大きな月。今自分たちを見ているのは、彼らだけだ。この距離間だからこそ互いの姿がきちんと認識出来る程度の、程よい明かり。
「この島の夜は、暗くていいね。暗いのに、君の顔はちゃんとわかる」
だから誰にも知られることはないと言い含めて、エドワードがの頬に手を這わす。その手つきのいやらしさに、最悪のシチュエーションだとわかっていながらも期待して反応する身体に、自分は骨の髄までこの男の教育が染み付いているのだとは嫌でも再確認することとなった。