あざやかな狂気
正解を知らない方が良いことも、世の中にはあると海江田信輔は知っている。
「おーじょう、そんなところで何してるんです?」
そう問いかける海江田の声はどこまでも軽薄で、聞く者が聞けば彼の人間性そのものだと評しそうな音であった。もちろん本人が意識してそのように見せている節もある。己は行く先を見定めている最中の風見鶏であると、自認するが故に。
表と裏で自身が仕える二人の男を試し天秤にかけるような狡猾さと、それでも相手を心から尊敬して尽くしているからどちらを裏切ろうともそこに良心の呵責は一切ないと言い切れる冷淡さ。そのどちらも併せ持ち、そういった本質を二重三重の軽い笑顔で覆い隠す海江田を、好む奴は好むし、嫌う奴は嫌う。
今、海江田の視線の先にいる"少女"は、彼の本質を察しながら嫌うことをしない一人だった。まだ二十年も生きていない子供であるくせに、彼女は海江田信輔という男のことを、よく知っているような顔をして、彼を嫌うでもなく、好くこともしない。
「──海江田?」
新宿の中心に存在する、街の守り神。花園神社の鳥居の前でその少女を地回り途中の海江田が見つけたのは、ほんの偶然だ。制服ごと全身夕焼け色に染められた東儀が、静かに男の名を口にしながら、感情を示さない瞳だけを不意に向けてきた瞬間、どきりと胸の中心が僅かに騒がしくなったのを感じた。自然と人の心の裏の裏まで見通してきそうな、真っ黒な飴玉のような大きな目に見つめられるのが、海江田は少し苦手だ。その理由もはっきりしている。"よく似ている"のだ。海江田の属する青池会の若頭でありの養父である、東儀衛に。
「ここで、あなたと会うのは初めてでしたね」
鈴を転がしたような声音が男の鼓膜を震わせた。形のいい横顔が傾いて、人形然とした、欠けのない完璧に近いうつくしい顔が、口元を綻ばせながら彼に向き直る。あと数年としない内に文句のつけようのない美女へと育つだろうと、"組織"の者らを時折色めき立たせる容姿に、あくまで気安い様子で近付きながら、内心落ち着かない部分はあった。どんなに大人びていようと、将来有望であろうと、所詮子供は子供だろうというのが気の早いオヤジたちの期待に対する海江田の主張である。だから、関わり合いたいタイプでもないのに目が離せず、つい惹かれ寄せられるように声をかけてしまうのは、ただの仕事で、頭への忠誠心故だということにしている。今日のような、もうすぐ門限が近いと知りながらもまだこんなところをほっつき歩いている不良娘の回収も、あくまで仕事の延長なのだ。見かけてしまったら、見なかったことにするのは構成員として難しいというものだった。
は組織の人間ではないが、東儀衛の娘であるということは、当然構成員にとってただの一般人以上の意味を持つ。彼女に危害を加える者がいれば守るし、危険に自ら赴こうとしているのであれば、警戒を促すのが当たり前のルールであると彼らの中に根付いていた。それはもちろん、海江田も例外ではなく。
「そうっすね。お嬢のお散歩コースに花園神社が含まれてるなんて、俺知りませんでしたもん」
肩まで伸びた絹のような黒髪が夕日の光を照り返すのを眺めつつ軽い口調で返して、海江田は制服姿の少女の前で革靴の動きを止める。
「 頭は知ってるんですか? もうすぐ門限でしょう?」
「そんなものもありましたね」
「あー困るなァ、こんな不良娘みたいな真似されちゃ。あんた一般家庭の人じゃないんだからさ、"なんかあったら"、の確率が段違いに高いのわかってます? いい子だからそういう冒険は、もう少し大人になってからにして下さいね」
値の張る腕時計を確認した海江田は、整った顔に苦味の混じる曖昧な笑みを浮かべた。相手が汚職にまみれた女警官であったなら、己の微笑み一つであっさり言うことを聞かせることも出来たのだろうが、生憎目の前にいるのは大人の色気なんてさっぱりわからなさそうな上に、何を考えているか読めない子供だ。
「不良の父親を持っているのですから、これくらいはね。見逃して下さいな」
「父親の付き人にそういうグレーなジョークは勘弁して下さいよ、コメントに困っちゃうんで」
そうでしょうね、と笑うに、どうも自分が遊ばれているような空気になってきているのが正直言って気に入らない。
「見逃してあげたいのは山々なんですけどねえ、そうもいかないことくらい、あんたには察しがつくはずでしょう。早く帰んないと、 頭に怒られても俺は庇いませんからね」
「あら、海江田なら庇ってくれますよ。ここでわたしに会って声をかけてしまったのですから。残念ながら、あなたにはわたしを安全に連れて帰る責任が発生してしまいました。ご愁傷様です」
「……勘弁してよ」
「ありがとう、海江田」
ひとたび捉えれば離さない、そして有無を言わさないような圧を、彼女の底知れぬ瞳から、そして可憐な声から、ひしひしと感じ取る。確かに彼女の言い分は尤もではあるのだけれど、それ以上の剣呑さがそこかしこにへばりついているような感覚が消えてくれない。は海江田が自分を絶対に裏切らないと信用しているのではない、裏切らないように強制されているのだと思った。我、人に背けども、人、我に背かせじ──曹操の言葉を体現しかねない佇まいの、女。
「と言ってはみましたが、たぶん門限には間に合いますよ。少し神社でお参りをしたら、タクシーに乗って帰ります。どうです、あなたも一緒に、お参り」
「俺も? まあべつに付き合ってもいいっすけど、お参りってまたなんでこんな時期に。正月はもう過ぎたし、そんな熱心にお願いしなきゃいけないようなことってあります? 受験とかそういうガキっぽいやつ?」
「──あのひとの、無事を」
「────」
「衛のお仕事が上手くいくように、定期的にお願いに来ているんです」
細められた目に熱っぽさと湿り気が宿ったことに、海江田は気付いてしまった。同時、ただ無機質に綺麗なだけの"少女"が、肉欲を持ち男を求める生身の"女"に見えたのだ。彼女は男を知っている──そんな風に思わせて止まない。
うつくしい人形に、妖艶な穢れが混ざると、美しさのベクトルががらりと変わる。男を誘うような艶めかしさなど持ち合わせるはずのない幼い少女の視線一つで、海江田の身体がぞくりと震えた。狂気に近い、まともではない何かに触れて、己の平常心が潰れそうな錯覚を見た。あまりにも気味が悪いのに、そのまともではなさそうなものに惹きつけられて、どうしようもなく目が逸らせない。
嫌なプレッシャーが背中を駆け上がってくるのは、この眼前の少女のせいだと、彼はどうしても認めるわけにはいかなかった。余計なプライドは持たない主義だが、こんな子供相手となると、話は変わってくるだろう。男として最低限の自尊心が己に残っていることに、ぼんやりと自嘲しつつ、海江田はやや強引に口を釣り上げた。
「なにそれ。もしかして、デキちゃってんの?」
頭の娘に向けるものにしてはあまりにも軽く俗な言葉に、少女は果たして嬉しそうに微笑みを深めたまま、何も言わなかった。
東儀は、東儀衛が拾ってきた血の繋がらない娘であるというのが、公然の情報だ。彼女は東儀衛の好みそのものの容姿をしているとは、昔からいる構成員の弁。光源氏と紫の上の如く、は東儀に囲われており、彼の好み通りに育てられた少女はいずれ慰み物にされるのだとも、既になっているのだとも。そういう噂が定期的に浮いては消える。
あらゆる噂はともかく、海江田は真実の中に一つの虚偽を直感していた。恐らくそれを感じているのは自分だけではないはずだが、他人とこれを答え合わせする術はない。一度たりとも口にはしないと、誓っているからだ。暗黙の了解というやつで、言葉にしたその瞬間、自身が積み上げてきたものは足元から崩れ去ると彼は確信していた。
「行きましょうか、海江田」
──東儀と、東儀衛は"血が繋がっている"。
「……ウス」
これからも、飲み込み続けなければならない、異常。あるいは狂気。もしかすると自分はその禁忌のようなものの危うさに惹かれているのかもしれないと、そんな仮説が頭に過ぎって、溶けた。