天使の住処
そのビルには、天使が住んでいる。
ビルの持ち主である坂井大輔は、IT業界における所謂ビジネス・エンジェルとして名を馳せていた。事業を始めたばかりの会社に投資、その見返りとして投資先の株式を受け取るのがビジネス・エンジェルであり、ベンチャー・キャピタルとの大きな違いはあくまで彼は会社ではなく、個人であるというところだ。彼はたった一人で未来を先読みして才能のある者たちを見出し、資産で投資をし、現在成功を手にしている。
そして彼の住居兼仕事場であるこのビルは、その成功の証の一つであると言えた。十階建ての建物は見た目こそ美しいとは言い難いが、中身は拘り抜いた大リフォームがなされている。仕事部屋からシアタールーム、露天風呂から果ては日差しが入る公園まで、彼は自分が欲しいものを全てここに詰め込んでいた。必要だから金をかけ、形にしたのだ。投資先であるヘッジホッグの職場も、職員である彼らの寝床も、同じくだ。仕方なく用意してやったものではない。坂井はそうすべきだと判じたから用意した。要らないものは、そもそも手元に置かない主義である。
八階はその階まるまる坂井の家だ。十階には大浴場と露天風呂があるが、八階にも風呂を付けているし、キッチンやダイニングを備えているそこは一人暮らしには広すぎるくらいのスペースが確保されている。プライベートスペースであるここは当然階下のヘッジホッグの面々は許可なく立ち入ることを許されておらず、けれど一人だけ無許可で訪れることを許されている少女がいた。ビルの住人の中で明らかに浮いている彼女は、この朝も慣れた様子で坂井のベッドサイドまで近付く。けたたましく鳴り続けるスマートフォンのアラームを指先一つで止め、やれやれと息をつきながら眠り続ける坂井を見下ろした。これでもかというほどの金属音が鼓膜を震わせているはずなのに、彼の寝顔は穏やかだ。
「朝ですよ。起きて下さい、大輔くん」
が、が声を発した直後、あのアラームをもってしても堅く閉じられて開くことのなかった瞼が、ぱちりと持ち上がる。涼やかな声音が耳を撫でた瞬間、坂井の意識が浮上した。目を開いて制服姿の彼女を目にした瞬間、眠気はごっそりと取り去られ、頭の中がクリアになっていくのを感じた。肩にかかる程度の長さで切り揃えられた黒髪と、やや大人びた雰囲気はあるがまだ幼さを残す顔立ちと、耳にするりと馴染むソプラノの声は、坂井にとって朝一の寝ぼけた頭で目にして耳に入れるには、どれも心臓に悪いものだった。だからこそ、自分の目を覚ますのにこれほど適任な者もいないと毎朝思う。苦笑しながらおはようございます、と口にする少女は、今日もこの目に眩しく映っている。彼女のビジュアルや声には個人的に思うところがあるが、それを除いても、という少女が自分の傍に居て、朝声をかけに来てくれる事実に我ながら普通の人間らしい幸せを見出しているようだと都度再認識していた。これを一般的に父性と呼ぶのかもしれない。
なんて、爽やかな笑顔を浮かべた裏で色んな考え事をしていることはおくびにも出さず、上半身をベッドから起こした。
「おはよう。やっぱ一日の始まりはこれだな」
「……その感覚よくわかんないなあ」
「お前もわかるようになるさ。二十年後くらいに」
「結構かかりますね」
「すぐわかるようになられちゃ困る」
「困る? 大輔くんが?」
「そう、俺が」
「はあ。よくわからないですけど、しばらくわからないでいます。困らせたくないですし」
「よしよしいい子だな、お前は」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でてやると、やめて下さいとわりと本気で嫌がられ、少女の身体が遠のく。反抗期だろうか。昨日よりもざらざらしている己の顎を撫でながら、坂井はおいでおいでと手招いてみたが、乱された髪を整え直すことに夢中になっている彼女は再び近寄っては来なかった。年々距離が離れている気はしている。
坂井大輔は、の顔を見て一日を始めることを日課としていた。自分の娘のように可愛がっているこのは、亡くなった恩人夫婦の娘で、生前の約束を果たすために坂井は彼女を引き取ったのだ。一度離婚してから再婚を考えたことのない彼は自分の子供を持つなんて選択肢すら頭に一切なかったが、本人も予想しない形で子供を育てることになった。引き取った時点で戸惑いもしたけれど、後悔はなく、もう長い間帰っていない実家の父親に現状を話した日には「結婚に失敗したくせに」と罵られることは間違いないだろうが、正しい選択だったと今でも胸を張って言える。今の坂井大輔の生活の充実に、は不可欠な存在だ。
「そもそも大輔くん、もっと早く起きてて下さいよ。アラームうるさいし。実はわたしが来る前から起きてたんでしょ?」
「いや、これがお前の声聞くまで全然なんだよ。昨日は夜更かししちまったからなー、寝る前から起きられん気がしてたんだが、その通りになったな。つうか携帯のアラームって、俺が止めたのか? 全く記憶ねえわ」
がしがしと頭に爪を立てながら、サイドテーブルの上に置いたスマートフォンで時間を確認する。当たり前だがアラームを設定した時間はとうに過ぎていた。首を傾げる坂井を見るは、納得がいっていなさそうだ。黒い瞳に心なしか呆れたような色が混じる。
「アラーム止めたのは私です。なんて言うか、いまだに大輔くんのシステムには謎が多いですね」
「俺のシステム?」
「私の声ってアラームよりうるさいですか?」
つまりアラームほどボリュームがないはずの自分の声が坂井大輔の中で一体どういう処理をされ、アラームよりも確実な起床を促せるのかということだろう。問いは存外真剣な面持ちで行われたが、生憎坂井はこの件に関して彼女を納得させるような答えを持ち合わせていない──訂正、"彼女に話せる答え"がない。
「あー、いや、そうじゃないんだが」
「じゃあ何の差ですか。私の声と、アラーム」
「……愛?」
「わたし学校行きますね」
「待て待て待て待て、すまん、俺が悪かったって」
今年17歳になる微妙な年頃の娘は最近対応が塩の如くあっさりとしていて、付き合いが悪いように感じる。しょうもない冗談を投げて返ってくるのは大概が冷めた視線か妙にキレのいい言葉だ。少しさみしい。
「もういいです。朝食出来てますよ。早く来ないと、ほんとにすぐ家出ちゃいますから」
「わかった、すぐ行くよ」
坂井家の決まりごとの一つは、"朝食は一緒に食べる"だ。がこの家に来てすぐに定めたルールで、家を空けることの多い坂井が一日に一度は家族団欒の時間を作ろうと考えた結果こうなった。どんなに前日遅く帰っても、朝食の時間には必ず起床する。正確には起床させてもらう、だが。
引き返していく制服の後ろ姿を坂井はぼんやりと眺めて、ありがとうとその背中に向かって礼を告げる。独り言のようなトーンではあったものの、静かな室内でそれは相手へと確かに届いたらしい。
「どういたしまして」
にこりと控えめに笑っては坂井を一瞥し、機嫌良さそうに今度こそダイニングへと引っ込んだ。時折されるその品のある笑い方がまた坂井の心臓を一際強く叩いていることを、彼女本人は知らない。知らせるつもりもない。気が付いた時には、は二十三年前の坂井大輔が憧れ焦がれた、一人の少女の生き写しのように成長していた。起き抜けの頭も一瞬で覚醒させるくらいにはそっくりで、つまり良い目覚ましとなっているのはそのせいだ。ダイニングで自分を待つ少女は確かに娘のような存在に違いなく、別人と重ねてどうにかしようだとか、おかしな性癖を増やしたつもりもない。それでも昔を懐かしんでしまうことは簡単に止められそうになくて、いつか彼女がここを出て行く未来を考えたくない程度には大切で、父性と、父性とは異なる別の何かが複雑に入り組んだ感情がふとした瞬間に彼を悩ませる。 彼女の幸せを第一にしようという結論に持って行くことで、深く考え込まないようにはしているが。
「大輔くん、遅い」
「……悪い、もう行く」
どうかが健やかに過ごせるように──父親ではないけれど、彼女が望む父親で在れますように。そう自分に言い聞かせるように心中に落として、ベッドから抜け出た坂井は大きく深呼吸をしてから、自分の天使が待つダイニングへ足を向けた。