離れ行く者、寄り添う者
珠津島において東儀家とは百年以上前から代々島の名主、加えて祭司を務めていた由緒正しい家柄だった。敷地内に本家と分家が存在し、後者が複数あることがその証拠の一つと言ってもいいだろう。過去、東儀の先祖はこの島で様々な功績を残しているし、珠津島神社の社家という地位に就いていたこともある、島一格式の高い名家だ。とは言っても、明治時代に一度神職の世襲制は廃止されており、それが再認された現在の珠津島神社の社家は東儀ではなく外部の人間である。当然、島の祭事もその社家が取り仕切るわけだが、伝統ある大事な祭事は東儀家が主となって行っていた。古くからの島民にとっては現在の地位がどうあれ東儀家が神職であるという認識は変わらないらしく、現に今も一族内で信仰が篤い者も少数だが存在している。そういう、普通とは違う家だ。
東儀征一郎は、まだ学生の身でありながら七年前からそんな東儀家の当主だった。東儀の人間として恥じぬようにと、彼は文武共に、優秀な成績を修めている。端的に言えば祭司を務め、代々伝えられてきた東儀の”しきたり”を守るのが当主の役目だ。”しきたり”と一口に言ってもこのような家なら多種多様、例えば二つ年下の妹――東儀白の結婚相手が分家の中から選ばれるというのもそれに当たる。彼にとっての”しきたり”とは尊敬の対象となる者たちの守ってきた生き方であり、それは単純に良い悪いで片付けられる話ではない。だから、妹の幸せを願いながらも彼女が東儀とは関係無い青年と恋に落ちることは許し難いものがあった。約一ヶ月前までは。
「寂しくなりますね、征一郎様」
「――か」
夕方の縁側は、やや肌寒かった。もう十月であることを思い返せば、この肌寒さも頷ける。背後から声をかけてきた少女には振り返らずにだけ呼ぶと、彼女はやがて静かに征一郎の隣に腰掛けた。甘い匂いが鼻孔をくすぐるのを感じる。恐らく花の香りであるが、その種類までは判別がつかない。
「此処は少々冷えるでしょう。もう十月です、夕涼みなんて時期ではありませんし、縁側にあまり長く居ればお風邪を召されますよ」
「大丈夫だ。それより……しばらくは誰も来ないだろう、いつも通りでいい」
念の為辺りを一度見回してから、そう告げる。今居る東儀の離れは場所柄、人の出入りが極端に少なく、問題無いと判断していた。征一郎は、東儀家においての彼女の振る舞いに未だに慣れ切っていない。恐らく普段の彼女を見ている方が長いからだろう。つい一時間前に共に両親の墓参りへ出向いた従兄妹、東儀を横目で盗み見ると、彼女は周囲を落ち着きなく見回し、ぎこちなく笑った。
「この敷地内で征一郎にタメ口呼び捨てなんて、勇者のすることだよ。まあお言葉には甘えておくけど」
「大袈裟……でもないか」
「私にも征一郎にも立場ってものがあるからね。そういえば、孝平君は此処での私の態度には驚いてた、のかな」
「普段とは百八十度違うからな、無理もない」
一時間前の墓参り及びその後の東儀家でお茶をする支倉孝平を思い出し、征一郎はひっそりと苦笑する。支倉孝平とは、征一郎の妹である白と交際している青年だった。東儀の人間で無ければ、ずっと島に居たわけでもない、完全なる外部の者だ。しかし白は彼を好いていて、彼もまた白をとても好いていた。互いを理解し合っているし、自身を除けば白があそこまで気を許した人間を征一郎は知らない。けれど守るべき”しきたり”があった。当然、二人の交際を反対せざるを得なかったのだが――結果的に、彼は認めることになる。東儀家当主として、兄として、白と孝平が付き合うことを認めたのだ。征一郎は出来る限りの最善の方法で、白を応援することに決めた。
「もう、白ちゃんとこの家で会えなくなるのかと思うと寂しいね」
「白の卒業後の話だ。まだ二年ある」
「二年なんてすぐだよ」
二年後、白が修智館学院を卒業すれば、彼女がこの東儀家を訪れることは無い。彼女は分家の養子に入り、東儀家とは縁を切ることになるからだ。分家から選ばれた結婚相手と共になるという古くからの”しきたり”を侵し別の者と結ばれる以上、そうすることが周囲を納得させる一番の方法であり、それぞれに折り合いがつけられると征一郎は思う。”しきたり”を破るとはそういうことだ。考えに考え抜いた、これは彼なりの最善の方法である。
そしてそのことを二人に告げた日から二日後の今日、四人で征一郎と白の両親の墓参りに行った。主に報告を目的とした墓参りだ。その後、東儀家でお茶を飲んだのだけれど、本家の空気に呑まれたのか孝平はやや緊張気味で、白はずっとその様子を楽しそうに眺めていた。今は二人で学院の寮に戻り、のんびり過ごしている時間だろう。
「お前は寮に戻らなくて良かったのか?」
「征一郎こそ」
「俺は良いんだ」
「じゃあ私も良いんですー」
あからさまに子供っぽい言い回しだった。彼女がこういう物言いをする時は大抵何かを誤魔化したい時である。こちらを心配しているのだろうと、すぐに分かった。
事実上、白が妹ではなくなる。たった一人の妹と縁を切ることになるのだから、全くつらくないと言えば嘘になるのだ。勿論、この感情は自分の胸に仕舞っておくべきものだ。表に出すべきではないと心得ている。しかし表に出さずとも付き合いの長いは勘付くし、元よりこんな状況を考えれば付き合いの長さなど関係無く誰でも征一郎の心情を想定することはそう難儀なことではないだろう。それからの対応は人それぞれであるが。とりあえず、敢えて征一郎を一人にしておくという選択肢は彼女に無いらしい。寧ろ彼女が一方的に征一郎から離れることを不安がっている節がある。
「伊織じゃあるまいし、妙な気を回さなくていい」
「彼ならもっと上手くやると思うよ」
「それは、そうかもしれんな」
得意気に笑う千堂伊織の姿を一瞬だけ思い浮かべ、征一郎は失笑した。それは確かに言えている。軽口を叩きながらも、の瞳は不安の色を帯びているように見えた。彼女は口元を緩め、今度は遠慮がちに口を開く。
「大丈夫」
「……?」
「私は、傍にいる。多分、ずっと」
私じゃ不満かもしれないけど一応、立場的に、と自信無さげには付け足す。
「だからね、征一郎は安…その、うーん……ええと…あれ?」
「安心して東儀に居ろ、と言いたいのか?」
「あ! いや、そういうわけじゃ……今のは忘れて、ダメだこれ」
難しい顔で黙り込んだが言わんとすることはすぐに察しがついた。伊達に幼馴染兼従兄妹をやっているわけではない。
――私が傍に居るから、征一郎は安心して此処に居て。
彼女が言いかけたのはこういうことで、大方、言いかけた時点でその言葉が彼を東儀へ縛るものにならないかと危惧し始めたというところだ。当主である征一郎さえも自由に生きていいのだと、彼女は思うだろう。その言葉の意味することの重さから、軽々しくは口に出来ないけれど。矢張り要らない気遣いをするを微笑ましく眺めながら、征一郎は小さく笑った。優し過ぎるところが長所であり欠点である少女だ。何をするにも不器用であるくせに、いつも必死でこちらを追いかけてきて心配してくる。その優しさの理由が”征一郎が本家の人間であるから”ではないことが、彼にとっての救いだった。同時にそれは、彼女を縛っているのではないかとも考えてしまう。
「、分かっているのか。お前が今言おうとしたことは、お前自身がずっと東儀に居続けるということだ。それは、俺と…」
「何言ってるの。それが前提にあるのは当然でしょう。良いも何も、私は――征一郎の許婚なんだから」
ごく自然に、且つどこか照れたように、は言う。この幼馴染の口から、”許婚”という単語を久しく聞いていなかったことを彼は思い出す。征一郎もも、互いにこの話題には触れなかった。学院生活を過ごす中では、不必要な話題だったので。
東儀は東儀征一郎の従兄妹にあたり、分家の人間であると同時に、征一郎の許婚だった。許婚とされたのは彼が東儀の当主となった日だ。その時点で征一郎とは十分過ぎるほど互いを見知っていたし、だからこそ戸惑いもした。征一郎にしてみれば全く見知らぬ親戚を宛がわれるより喜ばしいことではあったが、相手がどう思っているからは分からない。こちらも、そして彼女も、まだ幼かったあの頃は突然の婚約に対して拒否する理由は無く拒否する術も持たず、何のアクションも起こせなかった。けれど、今は違う。彼女には道を選ぶ権利があるのだ。当然のように許婚だと言った彼女は、その可能性をまだ知らないだけなのではないか。そんな疑問が浮かび、彼は視線を庭の地面に向けたまま、恐る恐る口を開いた。
「俺が分家の人間と結婚するのは”しきたり”だが、それはあくまでこちらだけの都合だ。分家から選ばれた第一候補がお前であって、お前が俺に付き合って結婚することは絶対ではな、」
い、と最後まで言わせてもらえなかった。唐突に、ぺち、と弱く額を叩かれる。驚きに顔を上げると、目と鼻の先にの顔があり、思わず仰け反りそうになる。征一郎の新緑の瞳を見据える彼女は、やや不機嫌そうに見えた。
「此処に風紀シールがあったら間違いなく貼ってたよ、征一郎。減点。分かってない」
「……なんのことだ」
「私にとっての征一郎は、許婚である前に従兄妹で、幼馴染で……子供の頃からずっと大切な人だった。それは、白ちゃんもだけど。とにかく、征一郎との結婚は、私にとって不本意なものではないってこと。微塵も嫌だなんて思ってないんだから……そういうこと言って欲しくなかった、とか、思うよ」
段々と語尾が小さくなり、詰められていた顔同士の距離も離れていく。
「東儀家当主の妻となること、それがどういうことか分からないほど私は馬鹿じゃない。覚悟だってしてるよ。正直、これが征一郎で無くとも、私はこの縁談を呑んだ。そうなると相当不本意だけどね、両親には逆らえないから」
「――――っ」
「だからこそ、当主が征一郎で本当に良かったと、心底思うわけです。一緒に居たい人と添い遂げるのが一番だし……なんて、ああ、結局自分勝手な話だね」
逸らされかけていた黒い瞳が、征一郎を一瞥する。瞬間的に向けられた視線は、驚くくらいに柔らかいものだった。それは彼女の言葉に嘘が無いことを示している。傍から聞けば恥ずかしく思える科白だけれど、それは一分の下心も混じっていないただの本心だ。
に、覚悟が無いわけが無かった。東儀家の許婚候補として幼少から様々な教えを叩き込まれてきたであろう彼女に、征一郎の問いも気遣いも今更だったのだ。一つ年下の許婚は、自分の役割をよく分かっている。失礼な疑問と、不必要な気遣いだった。
「…あ、そっちがどう思ってるのかは知らないけど。もっと美人が良いとか言われたら、私はそれまでだし……征一郎の方が嫌、だったら…」
ごにょごにょと何事かを呟くを見下ろしながら、征一郎は暖かい感情が胸に広がるのを感じた。これは愛しさなのだと、すぐに自覚することが可能だ。妹に向けるそれと違いはほぼ無いと言って差し支えないだろう。彼はこれまで、恋という感情と正面から向き合ったことはない。必要性に駆られなかったからだ。が、何となくではあるが分かる、これは恋愛というそれとは違う。恐らくの方も、こちらに抱いている感情は恋愛の類ではなさそうだ。互いに抱く感情は、親愛に近いものだった。恋などとは程遠い。でも少なくとも、互いに許婚が相手で良かったとは思い合っている。今は、それだけで十分だと思えた。ぽん、と彼女の頭に手を置く。
「すまんな」
「え?」
「軽率なことを言った。――俺も、出来ることならお前が良いと思う、共に時間を過ごすのは」
そう言えば、照れ臭そうに彼女は微笑んだ。つられて征一郎も僅かに笑むと、は一度目をまるくしてから再び笑みを湛え、ありがとう、と返してくる。
妹と同じ感覚で見てきたのに、妹とは立場も関係も違う少女。いつか、彼女を一人の女性として見られる時が来るのだろうか。それは、喜ぶべきことなのだろうか。自分の中の何かを汚すようで、今は想像することも躊躇われるが。――なるようにしかならないか。が、やや表情を固くしていた征一郎を見上げる。
「妹にはなれないけど、一緒には居るよ。ま、私にとって征一郎は半分兄みたいなものだし、こっちも妹気分ではあるかなー。丁度良いよね」
「それは困る」
こちらが反射的に零した呟きに、は首を傾げていた。そのきょとんとした顔が可愛くて、少し意地悪がしたくなる衝動に駆られる。さり気無く、彼女の耳元に唇を寄せ、征一郎は低く囁く。当たり前で、当然であることを、自分にも言い聞かせるように。
「妹になられては困る。お前は俺の妻になるのだということを、忘れるな」
この時だけ、いつも彼女をからかって遊ぶ伊織の気持ちが分かりかけた気がしながら、征一郎はの髪を指でゆっくりと梳いた。