切ないのは、酷く愛しいから

「お願いが、あるんです」
「俺はお前を眷属にはしないよ」
 まるで思考を読んだかのような、先回りされた返答に東儀は言葉を詰まらせた。まさか頼むことすらさせてもらえないとは完全に想定外で、何も言えずにただ険しい顔で千堂伊織を見つめる。後に続く言葉は無く、彼は静かにこちらを見据えていた。表情こそ穏やかであるが、どこか悲愴を含んだような碧い目は笑っていない。はっきりとした感情は読み取れない、否、読み取らせないようにしているのだろう。伊織は、よりもずっと大人だった。一般的に見てそのビジュアルからは分からないが、単純に歳の差だけ数えれば二人のそれは軽く百歳は越えている。千堂伊織はヒトではなく、吸血鬼だった。
「どうして」
 長い沈黙の後、か細い声が生徒会室に響いた。それは相手を問い詰めるものにしては酷く弱々しい。自身、それを分かってはいるけれど、だからと強気に出られるものでもないのだ。断られることを想定していないわけでは無かった。しかし、ここまで明確な拒否を示されてしまうとあまりにも救いがない。
“私をあなたの眷属にして下さい”――これを伊織に願うことは、にとって容易なことではなく、何度も何度も悩み考えて出した結論だった。生半可な覚悟ではない。眷属となることによって起こるであろう苦悩と、”伊織たち”とずっと共に人生を歩むこと。この二つを天秤にかけた末に、は彼らと共に居ることを選んだのだ。
「どうして、ですか。眷属になればどうなるか、きちんと心得ているつもりです。覚悟もあります。血を吸われたって、先輩になら、私は…」
「それ以上は言うな」
 普段の伊織からは想像も付かない、冷たい声。突き放されたような錯覚に、は一瞬だけ身体を震わせる。けれど直後にかけられた言葉は口調も声音も柔らかいものだった。
「お前はそれ以上言っちゃいけないし、俺は聞いちゃいけない。お互いの為にね」
 俯きかけた顔を上げれば、寂しそうに微笑む顔がそこにある。いつだって強引に物事を押し進めてきた彼とはまるで別人のようだとは思う。いつもと違うということが、たったそれだけのことがこんなに心を突くものである筈無いと彼女は何度も強く押し寄せる虚しさを否定した。言葉も表情も彼の全てがあまりにも自分に優し過ぎて、気を遣っているのが分かって、余計につらくなる。その優しさの意味も、いつもとの違いも、全部認めて受け入れるには勇気が足りなかった。
「だったら、どうして征一郎は先輩の眷属なんですか? なんで、いつの間に…」
「――――」
「ずっとおかしいと思っていました。征一郎、いつからかすぐ体調悪くするようになったし、でも病気じゃないって言います。少し事情を知ってる東儀の人間なら、まさかって考えもしますよ。でも本当に」
「そのことについて、詳しいことは俺からは何も言えない。征がに話さないと決めたのなら、俺はそれに従うだけだ。腑に落ちないのなら、どちらでも好きな方を好きなだけ責めるといい。俺としては、出来れば征は責めないでやって欲しいところだけどね」
 吸血鬼の血を飲んだ者はその吸血鬼の命令には絶対服従となると同時に不老不死にもなる――それが眷属。他、身体能力の向上や強制睡眠等、メリットとデメリットの両方が少なからず存在する。そのメリットすら、人によってはデメリットとなり得るものである。とにかく、吸血鬼同様ヒトでは無くなるのだ。吸血鬼に従い、血を捧げ、吸血鬼と共に在る者。伊織はこれまで、眷属というものを作ったことがない筈だった。不必要であったし、不仲である母親に命令されて作るというのが彼の癪に障っていたからだ。
「そんなこと、出来るわけありませんよ。誰を責めても何も変わりません」
 二人の様子から、互いに歓迎出来る形で眷属にし、されたわけではなさそうだと見当をつけている。つい最近、伊織の母親と彼の妹が和解した。そして母親は兄妹に吸血鬼から人間に戻すことが出来ると伝えたのだ。妹――千堂瑛里華は人間に戻ったが、しかし伊織は戻ることを拒否した。つまり、吸血鬼のままだ。恐らく、眷属とされた征一郎を思ってのことだろう。俺には俺で責任がある、とその時伊織は言った。それを聞いた上で、には誰を責めることも出来ない。
「伊織は、征一郎の為に吸血鬼であることを選んだのでしょう。それはきっと……彼の身内として、あなたに感謝すべきことだと思います。ですから、私は、ただ」
 そんな事情は今更だ。責めようと考えているわけではなく、伊織に何故征一郎を眷属にしたのかと訊ねることはただの八つ当たりに過ぎない。伊織と征一郎の両方から、大切なことを何一つ話してもらえなかったことへの八つ当たり。蚊帳の外であった自分自身への苛立ちも多分に含んでいる。けれどそれすら本当はどうでもよくて、の想いはたった一つだった。
「ただ……寂しいんだよ、伊織。私は、寂しいだけ。いつか、置いていかれそうな気がして……二人が、どちらも消えてしまったらどうしたらいいんだろうって、思うから」
 寂しくて、虚しくて、一人になるその時を想像するのも嫌で、は伊織を、征一郎を繋ぎ止めたかった。眷属になれば征一郎と同じ立場に立てるし、二人とずっと一緒に居られる。例え離れることがあっても、眷属で居れば主とはいつか必ずまた会える保証がある。
 一言一言、自分の本当の気持ちを伝える度に、込み上げてくるものがあった。は俯いて、泣きそうになるのを必死で堪える。伊織の前で無様な姿は見せたくなかったので。もう十分に情け無いところを見せている気もするが、ここで泣いたら負けだと彼女は自分に言い聞かせた。
「眷属になれば、一緒に居られる。同じ時を歩める。身勝手だって自覚してるけど、それでも私は…私、は……」
 何を言おうとしたのか、自分でも分からなくなる。次の言葉を何とか繋げようと口を開きかけた時、不意に優しく身体が抱き締められた。背に回された手が、ぽんぽんと軽く、小さい子をあやすように背中を叩いた。硬直したは、一瞬何が起こったのか分からずに居る。やがて、伊織が耳元で囁く。
「――そんなこと、分かってるさ」
「伊織…?」
がそれを不安に思って眷属になると申し出てきたことくらい、お見通しだ。小さい頃から見てきたお前のことを、俺が分からない筈無いだろ?」
 そう訊ねられて、は反射的に腕の中で小さく頷いた。自身を抱き締める腕の力が一層強くなるのを感じる。少し苦しいが、泣き顔を見られないことは今のにとって何よりも救いだった。
「俺も征も、が眷属になることを望んでいない。普通に生きて欲しいんだ。俺の為なんかじゃなく、自分の為に生きて欲しい」
「……分かってる、つもりだった。伊織も征一郎もそう言うって。ずっと一緒なんて無理だって、理解して納得もしてるつもりだったのに、それでも……ごめんなさい、こんなの、わがままだよね」
 いいんだ、と伊織は呟く。が何かを言う前に、彼は更に言葉を継いだ。
「俺たちはお前の前から消えないよ、絶対に」
「――伊織」
「最後の時まで、俺はの傍に居る」
 ずっと疼いていた不安が解けていくような感覚があった。頬を伝う涙を止める気にはならず、声を殺して泣く。情けなさと嬉しさがない交ぜになっている。手放しで喜ぶことは出来ないけれど、どうしようもない不安に駆られることはもう無いような気がした。いつか、遠い未来、大切な二人を置いて自分は一人逝かなければならないことを思えば虚しくはあるけれど。そんなことまで延々と考え、これ以上伊織に心配をかけることはしたくなかった。
 小さく息を吐いた伊織は、ゆっくりとの身体を離す。泣き顔を見られるまいとは俯いていた。そんな彼女に伊織はポケットからハンカチを取り出し、差し出して言う。
「だから、頼むから、血を吸われてもいいなんてもう二度と言わないでくれ」
 灰色のハンカチを受け取りながら、は上目遣いで伊織を見上げる。彼は困ったように苦笑して見せて。
「俺にとって、お前のその言葉は一番の誘惑なんだ」
 は首を傾げるが、その言葉の意味するところは教えてもらえない。伊織の表情を見ているのが何故か苦しくなって、今度はが遠慮がちに彼の背中に腕を回した。やや間を置いて、彼はそれに応える。伊織の妹である千堂瑛里華がかつて吸血鬼だった頃、恋人である支倉孝平と離れることで抱く不安、彼の血が他のどの血よりもとても魅力的に思えたこと、そして伊織がそれに近いものをに対して感じていることを、彼女は知らなかった。


(20100715)
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