不透明なままで

 穂坂ケヤキ、という大きな木が中庭、修智館学院の学生寮廊下から見える位置にある。”鬼に見初められた女の子の魂が、このケヤキに宿って願いを叶えてくれる”なんて奇妙な七不思議がある木だ。特に恋愛の願い事を叶えてくれると女子の間で専らの噂で、人の少ない夕方になると女子生徒がケヤキに向かって何かを願っている姿を見ることが出来る。言い伝えの真偽はともかく、樹齢百年と言われるケヤキが寮生から大事に思われていることは確かであり、その世話は代々寮長に受け継がれていた。
 しかし、昨年の八月、穂坂ケヤキは伐採されてしまった。樹病を患い、根元から腐りかけていたからだ。台風の時期が迫る夏、ケヤキが倒れ寮生に怪我をさせてはいけないという生徒会長の判断で、木は切られることになった。寮長含め多数の生徒が反対したけれど、生徒の安全にはかえられない。そして、支倉孝平の案により穂坂ケヤキ伐採記念式典を開催し、集まった生徒達でケヤキを送り出した。式典という形にすることにより、彼らの気持ちの整理もつけやすいと孝平は考えたのだろう。結果としてそれは成功し、後日切られた木でベンチが作られ、ケヤキは別の形で蘇ることになった。
 現在、三月。卒業式を終えた六年生がまばらに学院を後にする時間、東儀はその穂坂ケヤキの切り株がある場所に向かっていた。理由は単純、何となく、だ。恐らく懐かしくなったのだろう。前寮長が大事にし、守ろうとしていたケヤキを彼女が卒業していく今日、見てみたくなった。たったそれだけだったのだが、中庭には二人の先客が切り株を前に立っていた。反射的に息を潜め、彼女は寮の方へ身を隠す。
千堂伊織と、東儀征一郎。制服に付いてたボタンのほぼ全てを女子から取られてしまったらしい二人は、なんだか可哀想な格好になっていた。女の子たちから逃げてきた、と言った伊織に征一郎は「懐かしくなったのかと思ったが」と返す。
「…………?」
 決して立ち聞きするつもりは無かったのだけれど、彼らの話につい耳を傾けてしまう。穂坂ケヤキの話だった。あれを植えたのは千堂伊織本人で、百年以上前に彼は見晴らしのいい丘でツキと名乗る少女に出会ったこと、彼女の血を吸い損ねたこと、彼女はもう先が長くなかったこと、自分の眷属になれば不死になれると誘ったが断られたこと――それからツキは姿を現さなくなり、気紛れで伊織はその丘に彼女と同じ名前を持つ木を植えたこと。
「……伝説の正体なんて、しょーもないことだったりするんだけどね」
「まったくだ」
 伊織にしてみれば、その木が今では”願いが叶う木”になっているのだから不思議で仕方が無いのだろう。鬼に見初められた少女、の鬼とは吸血鬼である伊織で、少女とはそのツキであるのだとは納得する。なんだか、すごい話を聞いてしまった気分だ。昨年、願い叶うと噂されるケヤキに対して何の興味も示さず、「願いなんて叶うわけないじゃないか」と言った伊織の姿が頭に浮かぶ。彼にしては突き放す言い方だなと思った覚えがあるけれど、あのケヤキの始まりを知っていたとなれば当然の反応だと考えられる。
「でも、かわいい子だったな。タイプではなかったけど」
「そういう細かいところは覚えてるんだな……」
 呆れながら、征一郎は息を吐いている。二人から視線を逸らしつつ、はゆっくりと空を仰いだ。吸血鬼である伊織は百年以上生きており、あの性格にあの美麗な容姿だ、色んな女性と出会い、色んなことがあって当たり前である。その伊織が血を吸わず、居なくなった彼女を思って植えた木。彼にとってツキは、他の女性と何かが違っていたのだろう。何が違っていたのだろう――否、伊織にとって彼女に抱いた感情は、そう特別なものではなかったのかもしれない。何故なら、彼は”本当に好きになった女性を眷属にすることを拒否している”のだから。
「――――」
 あまり考えていたら、不思議と少し気分が落ちそうだった。左右に頭を軽く振って、気持ちを切り替えようとする。何故こうも伊織に振り回されるのか。孝平や悠木かなでが居るところへ戻ろうと一歩踏み出した時だった。
「さて、そろそろ出て来たらどうかな。盗み聞きなんて趣味の悪いことしてないでさ」
 明らかにこちらへ向けた台詞が耳に入った。思いっきりバレていたらしい。伊織達が居る場所から此処は死角の筈なのだが、どうやら吸血鬼にはばっちり気配を悟られてしまうようだ。それでも二人の前に姿を現す気にはなれず、聞かなかったふりをしてその場を後にしようとする。
「なーんで逃げるの、ちゃん?」
 が、その瞬間に伊織が真横に立っていて、はぐっと息を呑む。吸血鬼は異常に身体能力が高く、少し離れていた位置からここまで一瞬で移動してくるなど、造作も無いことだった。伊織曰く、オリンピックで金メダルを取ろうとしたら、それらしいタイムになるよう手加減しなければならない、だそうで。人の限界を越えているのだ。人では無いから。
「聞き逃げは感心出来ないね」
「……別に、そんなつもりでは」
 何故か、隠れなきゃいけないような気がしただけだ。何か言い訳を考えなければならないのだけれど、何も頭に浮かばない。壁に追いやられると、心臓の鼓動が早くなった気がした。にやにや顔がやたら近いのが気になって、思わず目を逸らす。この綺麗過ぎる顔は間近で拝むのに向いていない。
「今の話、聞いてたんだろ? もしかして嫉妬でもしてくれてた?」
「日本語で喋って下さい」
「ドゥーユーラブミー?」
「殴りたい……」
「伊織、いい加減にしろ。顔が近い」
 卒業証書が入っている筒で征一郎が伊織の頭を小突く姿が視界に入った時、「いてっ」と眼前の伊織の顔が僅かに歪んだ。渋々といった様子で彼が離れると、はほっと胸を撫で下ろす。危機一髪だった。叩かれた箇所をわざとらしくさすって見せる伊織が、眉を下げながら言う。
「乱暴だなあ、せーちゃんは」
「その呼び方は止めろ。それより、お前はどうして此処に居るんだ、
「え、いや、特に大した理由はないよ。ケヤキを一番大事にしてた悠木先輩が卒業する今日、少しそれを見たくなっただけだよ」
 深い意味は無いことを伝えれば、征一郎はそうか、とだけ返した。一方の伊織はふうんと相槌を打ってこちらを探るように見てくる。
「切り株にお願い事したかったんじゃないの?」
「違います」
「なら、何で隠れたんだい? 今更俺たちに遠慮する必要なんかないだろうに」
「まあそれはそうなんですけど……と、それなら私からも一つ聞きたいんですけどね、先輩、私が此処に隠れてること知っていたでしょう。何ですぐに声をかけなかったんですか?」
「質問に質問で返すとは良い度胸だね。いいよ、俺から答えよう」
 伊織がどこか意地悪そうに笑って、を見据えた。その顔にどことなく嫌な予感を覚えながら、彼女は伊織の答えを待つ。
「黙っていてもその内出てくるかなと思ったのが一つ。話の流れでが嫉妬とかしてくれちゃったりするのを期待したのがもう一つ」
「しません」
「おや? 顔が赤いね?」
「赤くありません!」
「うそうそ、顔色は至って正常だよ」
 卒業式の日まで面倒臭い人だなとは心中だけで呟く。伊織、と呼んだ征一郎が咎めるような視線を彼に向けていた。さすがは頼れる従兄兼婚約者である。征一郎の視線を軽く受け流す伊織は、さも呆れたように肩を竦めた。
「独占欲の強い旦那は飽きられちゃうよ、征」
「何の話だ」
 自分と征一郎をからかう伊織は本当に生き生きしているなと彼女は思う。を使って征一郎をからかったり、征一郎を使ってをからかったりと伊織は本当に二人をからかうのが好きらしい。からかわれる側にしてみれば、いい迷惑である。
 本当に止めてくれないかな、とは考える。伊織の一挙一動に、彼女は確かに振り回されている節がある。つまりこの釈然としない感覚は彼の言う通り、嫉妬なのではないかということ。認めたくない。認めたくはないが、まだ初恋を引き摺っているのだろうかと自問してみた。まず伊織を初恋であること自体を認めてはおらず、しかし伊織自身は完全にそうだと思ってからかってくるところが問題だ。そしてそれに動揺する自分自身も問題だった。は定められた婚約者が居る身であり、本来こんな感情を持て余しているのは褒められたことではないのだけれど。
 加えて、伊織の方は恐らく本当にこちらの反応を見て遊んでいるだけだというのがまた何とも言えず。確かめていないが、彼は彼で昔母親に壊された恋を引き摺っているのだろうとは推測していた。だから、自分にちょっかいをかけるのはあくまで冗談の範疇なのだと。
沈黙していると、伊織がの瞳を覗き込みながら訊ねてくる。
「それで、が隠れた理由は?」
「なん……となく、話しかけ難い雰囲気だったから。それだけです」
「そう、分かった」
 素直にそう返した伊織は、ぱっとしない表情を浮かべるを見下ろして嘆息した。としては別に嘘を吐いたわけではないのだが、隠し事をしているような気分だ。一度征一郎に視線をやった伊織は、口元を緩めながら制服をつまんで見せた。
「それにしても、残念だったねえ。第二ボタンどころかボタン自体が俺も征も売り切れで」
「ボタン、ですか?」
 何のことだと訊き返し掛けて、よくある伝統行事の話をしてたのだと気付いた。
「そんなもの頂かなくとも、二度と会えなくなるような関係じゃないでしょう」
「でもさあ、こういうのって理屈じゃないだろ? 一種の行事みたいなものだと思うけどね、君はその行事に参加したいとは思わないのかな」
「……例え参加したいと思ったとしても、もう無いものを今更欲しがっても意味無いですよ」
「素直でよろしいね。そんな君に、ご褒美をあげよう」
 不意にぐっと近寄ってきた伊織から左手を掴まれ、何か小さくて硬いものを握らされる。征一郎の位置からはそれが何であるかを確認出来ないような角度で渡してきたのは、恐らく故意だろう。はゆっくりと左手を開いて、視線を落とす。そこに転がっていたのは、制服の襟に付ける校章だった。
「ええと、これ」
「征一郎の」
「えっ!?」
 思わず征一郎――訝しそうにこちらを見ている――の方を見れば、確かに彼は校章をしていない。まさか征一郎の校章を盗んで――と、伊織の行動の意味が分からず首を傾げていると、耳元で囁かれた。
「うそ」
「えぇ、」
「どっちだと思う?」
「なんですかその質問……」
 呆れ気味に伊織を見上げる。彼は悠然と笑っていた。それに見惚れていた自分に気付き、は慌てて目を逸らす。制服の襟を盗み見てみたが、彼の校章も無かった。
「さて、はどっちの方が嬉しいのかな」
 そんなことを呟いて、彼は片目を瞑って見せた。どっち、か――それはあまりよく考えてはいけないような気がしている。は校章を握り締めて、それをポケットに仕舞った。
やがて、何か言いたげな征一郎を伊織は手招きで呼び寄せる。直後、彼は征一郎との肩を同時に、思い切り抱き寄せた。征一郎はバランスを何とか保ちながらも眉間に皺を寄せて伊織に鋭い視線を送っている。
「……伊織、放せ」
「さあ、謝恩会までには時間もあるし、三人で昼食に行こう」
「私、お金持ってませんよ」
「後輩に払わすわけないだろ。大丈夫、せーちゃんの奢りだから」
「…………」
 途端、伊織の笑顔が固まる。
「……いや、やっぱり二人で割り勘にしよう、征。だから背中を思い切り抓らないでくれないかな、痛いからね。吸血鬼だけど痛いからね」
 それは少し申し訳無いと思いつつ、は素直に甘えておくことにする。これからは、三人で食事をする機会はそう何度も無いかもしれない。それこそ来年自分が卒業して、正式に征一郎の元へ嫁いだら。まだ時間はある。結婚まで、あと一年。少なくとも一年は、関係が変わらない。だから一瞬過ぎった嫉妬とかそういう類の感情は全て奥に閉じ込めて無かったことにしようとは思う。その方がきっと楽で、気分良く過ごせるから。
 伊織の腕から逃れようとする征一郎と、彼を逃すまいとする伊織を眺めながら、は言い知れぬ心地良さを感じる。ケヤキの切り株の方を一瞥して、ずっと一緒に居られますように、とそんな叶わないと知っている願いを呟いた。


(20100623)
→back