在りし日の夢
自ら成長を止め、既に百年以上を生きてきた吸血鬼――千堂伊織にとっての十年など、なんてことはない。彼の命が永遠であり尽きることが無いという事実を加えれば、その内の十年なんて大海の一滴とも言える年数である。その程度の年月で自分自身に劇的な変化が起こるわけもなく、寧ろそんなものはこの先自分で外見年齢を変えようとしない限り二度と訪れない。恐らく未来永劫、彼は十代後半の美青年の姿を保ち続けるのだろう。つまり十年では何も変わらないし、変えられない。
しかし普通の人間にとっての十年とは、人を変えるのに十分な年月だった。それだけの時間で人は変わる。精神的にも身体的にも成長し、すっかり変わってしまうのだと、自身が成長することのない伊織は他人のそれを見守ることで実感させられていた。例えば、自身が十年程前に入り浸っていた東儀家。その当時まだ幼かった現当主と、その従妹などは、すっかり変わってしまったいい例だ。
現在生徒会室でPCに向かいつつこちらを睨んでくる東儀の約十年前を思い返すと、思わず溜め息が零れた。今日何度目か分からない溜め息である。
「先輩、人を凝視しながら溜め息吐かないでくれませんか?」
「これは失礼。ちょっと思い出したことがあってさ」
「なるほど。では仕事して下さい」
「冷たいねえ。何を思い出したんですか、とそこは興味を持つところなんじゃない?」
「興味ありませんね」
一蹴した直後に、は伊織から視線を外していた。いつものことながら仕事に集中し始めるとこちらを構おうとしてくれない。生徒会は、地味な仕事を嫌う上にサボり気味になっている伊織への風当たりが強く、も例外ではなかった。けれど誰が見ても彼女はやや伊織に甘い傾向にある。本人は絶対に認めようとしないが、本人以外は認めている事実。とは言え、いつでもどこでも構ってくれるほど甘いわけでもなく。
今の生徒会室には役員六名の内四人が出払っており、と伊織の二人しか残っていない。彼にしてみれば退屈もいいところだった。彼女が構ってくれないのなら、仕事か考え事に耽るかの二択しか選択肢が無いのが現状だ。ちなみに、後者の”考え事”は気が付くと今朝見た夢の内容へとシフトしている。
あくまで冷ややかな対応をする少女と、伊織は記憶の中にある十年前の彼女とを比べ、再び出かかった溜め息を飲み込んだ。今朝見た夢とは、彼女の年齢がまだ二桁にならない頃の記憶である。まだが伊織を「お兄ちゃん」と呼んでいた頃。彼女の従兄であり許婚でもある青年――東儀征一郎もまだ幼く、二人して伊織の後ろ付いて回っていた頃の夢。今でこそ冷たい態度を取ってくる二人だが、当時は本当に彼に懐いていた。
「なあ、」
「なんでしょう」
「俺、いつからおにいちゃんって呼ばれなくなったんだろうね」
「……は?」
キーボードを叩く音が止まった。怪訝そうに伊織を見る目はそっと細められる。
「いつの話をしているんですか」
「前は”大きくなったら結婚しようね、おにーちゃん”とか言ってくれてたのに」
「大昔の現実と妄想が混同してるようですが」
「いやいや俺の記憶は確かだよ? ただそっちが忘れたがってるだけ……んん、実は思い出しているんじゃないのかい?」
「さてなんのことやら分かりませんね」
呆れ気味に言って、彼女はPCのディスプレイと向かい合う作業に戻る。伊織はその様子を眺めたまま、紅茶を啜った。昔はそれこそこんな憎まれ口をきくことなどなかった筈で、彼女がいつからこうなったのかはよく思い出せない。征一郎が今のような態度を取るようになったのは彼が東儀家当主となった頃だと記憶しているが、の場合は、どうなのだろう。征一郎を許婚とした時辺りだろうか。何にしろ、伊織にしてみれば最近のことだ。
「たった十年、なんだけどねえ」
すっかり変わっちゃって、と返答を期待していなかったぼやきに対し、は再び動きを止めた。冗談とも取れない雰囲気であることを察したのか、彼女は伊織が何を言わんとしているのか読み取ろうとするようにじっと見つめている。その瞳が十年前のそれと重なって、伊織は思わず苦笑した。幼い少女では無くなってしまったが、確かにその頃の面影が残っているのだ。現に、不思議そうに首を傾げるその仕草は古い記憶そのままだった。
「たった、と言えるのは、生きている時が違うからなのでしょう」
が窓の外に視線を向けながら穏やかな、しかしどこか寂しそうに少しだけ微笑む。十年前は、絶対にしなかった笑い方だなと思う。
「それもあるだろうし、それだけでもないだろう。生きる時が同じでも、感じ方は人それぞれだからね、一概にどうとは言えない。俺の場合は――お前の言うことも一理あるだろうけど」
「……うん」
長い時を生きてきた。そのせいで感覚が麻痺している部分があるのだろうと自覚している。彼女が人間で、彼が吸血鬼である限り、この感覚の差が埋まることは無い。どうしようもないことであり、そこから生まれる弊害は今のところ無いのだから気にする必要も皆無だ。問題は無いが、時々思い知らされてしまうと、慣れたと言えど少しだけ寂しくもなる。加えて、目の前で少女に悲しそうな顔をされてしまったら余計に。
「とりあえず私にとっては、とても長かったみたいです。今思い返せば、あっという間だったような気もしますけどね」
「――――」
「それでも…私があなたを兄と呼ばなくなる程度には、年月が経っている。たった、なんてとてもじゃありませんが言えません」
そうあった時代を慈しむように、羨むようには言った。何故彼女がそんな顔をするのか――伊織は理解出来ず、ただ探るように見据える。戻りたいと願う時が彼女にはあるのだろうか。変わってしまったことを嘆いているのだろうか。変化以前に、戻りたいと願うのか。
「戻りたいの?」
「いえ、戻ってどうにかなるものでもないでしょう。今更です。今の自分の在り方に不満を持っているわけではありませんから」
「へえ? じゃあ例えば、戻ることは出来ないけどこれ以上の変化を止める方法があったとしたら、どうする?」
過去には戻れなくとも、これ以上は変化が起こらないようにすることは出来る。成長を止め、永遠の時を過ごす自分の眷属とすることで、そうなった人間も吸血鬼同様身体的変化が無くなる。そうさせる能力が、吸血鬼には備わっていた。このことはもよく知る事実だ。伊織が暗に眷属のことについて話しているのだと察するのは彼女にとって容易だろう。さして間も空けず、は失笑する。
「自分自身だけが不変になることに意味を見出せません」
「おや、それは俺たちに対する嫌味かな?」
「あ、いえ……そんなつもりでは」
「冗談。良いんだよ、お前がそうあってくれると俺としても安心だね」
永遠を生きるとは、良い事ばかりではないから。現にこの姿で長く過ごすことに慣れてしまった今でも、決して不変が至高だとは思わない。勿論、不老不死である現状に不満があるわけでもなく今を楽しく生きているが、それは彼だからそう生きられるとも言える。人によっては、耐え難いものがあるかもしれない。少なくとも目の前の少女は、そういうものに耐えられるとは伊織には考え難かった。彼個人としても、東儀という人間には普通にごく一般的な幸せを掴み平穏な人生を全うしてもらいたい。恐らく、それは征一郎も同じ考えだ。だから、が僅かでも永遠を望まないでいてくれることは、安堵すべきことだった。
「先輩は、どうですか? 戻りたいと思います?」
少し意地悪そうに笑いながら訊ねてくるに、それはどうだろうと考える。随分長い間生きてきた。戻りたい瞬間はある。あの時ああしていれば、という後悔も勿論ある。けれど彼女が恐らく問いたいであろう十年前に戻りたいかと問われると、どうだろう。いつの間にか立ち上がり、空になった伊織のカップに紅茶を注ぎ始めたを見上げた。
「時間だけ戻って、今更十年待つのは歓迎出来ないね」
「はい?」
「いや、何でも。俺は基本的に過去を振り返らないから、戻りたいとも思わないな」
なるほど、と納得したようにが頷く。自身の分の紅茶も淹れた彼女はポットを置き、テーブルを挟んで伊織の正面に腰掛けた。休憩するつもりらしい。カップに口を付けてから、彼女が再び首を傾げる。
「でしたら、何でまた今日は昔の話を?」
「昔の夢を見ただけだよ」
「昔の夢?」
「がまだ俺をお兄ちゃんって呼んでた頃の夢」
「道理で。そういえば珍しいですね、先輩がそういう話をされるのは」
「それは夢の話のかい? それとも昔の話?」
「どちらも、です。起きたら現実との差に落胆したんじゃないですか?」
あの頃は懐いてましたからねえ。のんびりとそう言う彼女には、過去に自分が伊織に懐いていた自覚が確かにあるようだった。今がその頃とは違うという自覚も。あの頃の懐き具合が惜しくないと言えば嘘になるが、夢の中、あるいは十年前から成長したに対して本気の落胆なんてことは有り得ない。
「――そうでもないよ」
食堂で見かけたを思わず上から下まで眺めてしまったことは記憶に新しい。今朝、夢を見た後の話なので。じろじろと見過ぎた為か、その直後彼女に睨まれたのは言うまでも無い。そして、しみじみと思った。
「成長は良いことだね、うん、とても良いことだ」
「先輩が言うとなんかやらしい……」
「はは、それはそう受け取る方に問題があるのさ」
鋭い視線を受け流しながら、まだ温かい紅茶を口にする。まだ何か言いたげなからの視線には、気付かないふりをした。