知っているのは僕だけ

 生徒会長と生徒会役員、二人きりの監督生室内は、ひどくしんとしていた。東儀は探るように眼前の生徒会長を見下ろす。生徒会長である青年は、テーブルに備え付けられてある椅子の一つに腰掛け、足を組みながら立ち尽くすを見上げていた。同時に、ポケットティッシュから紙を一枚取り出し、赤く血に染まる口元を拭っている。ティッシュによって口元は隠れているが、恐らく彼は笑んでいるのだろうと彼女には簡単に予想がついた。窓から射し込む夕陽に生徒会長の金髪が照らされ、きらきらしている。彼の端麗な容姿に映える髪色だった。万人を魅了するのではないかとも思わせる彼の容姿、それすら今のを苛立たせる要因である。彼がここまで美麗だからこそ簡単に――そこまで考えて、彼へ向ける視線を鋭くした。
 使い終わったティッシュを何の躊躇も無く少し離れた場所にあるゴミ箱目掛けて投げ入れるという生徒会長の行為には眉を顰めつつ、この際彼の行儀は気にしないことにした。それでどころではない。数分前に偶々会った同級生、支倉孝平の怯えた様子と、彼が出て来た礼拝堂で倒れていた少女のことが頭を過ぎると、無意識に舌打ちが出そうだった。
「こういうの、良くないと思います」
「おや、何のこと?」
 呆れと怒りを同じだけ含んだの視線を受け流し、生徒会長――千堂伊織は優雅に微笑んで見せた。彼は腕を組み、わざとらしく首を傾げる。整った顔で綺麗な笑みを向けられても尚、は憮然とした表情から変化を見せない。伊織は彼女のそんな反応すらも楽しそうに眺めており、それがまた彼女の癪に障っていた。にしてみれば、眼前の相手がどんなに美しく、どんな女性からでも求愛されそうな笑みを湛えていても関係が無い。それがあるから、彼に誘われるまま――血を吸われる女性がいる。そう考えるにとって、彼は一瞬たりとも見惚れることはあってはならない相手だった。生徒会長であり吸血鬼でもある、千堂伊織。彼に血を吸われることを危惧しているのではなく、純粋に悔しいのだ。人ならざる者の美しさに自分も他の女性と同じように中てられてしまうことが。
「千堂先輩、わざと食事しているところを見せたんですね」
「さあ、俺には何のことやらさっぱり」
「先輩」
 きっ、と睨みをきつくするが、そんな行為は伊織をますます楽しませるだけで、意味を為していない。それは彼女本人も分かっていることだ。案の定、挑戦的な目もそそるね、とからかい半分に彼は笑みを濃くしている。
 食事、つまるところ吸血だけならまだいい。決して褒められた行為ではないが、吸血鬼の行為としてはごく自然なことである。幼少の頃から千堂兄妹を知るにとって慣れもあるのか、何も思うところが無いと言えば嘘になるが自分が口を出すことではないと心得ている。彼らは血を吸った人間の記憶を消すことが出来た。それによって今現在、目立った害は無いのだから、咎める理由もない。
 しかし今回ばかりは、少し事情が違ったのだ。食事は恐らくついでだろうとは推測している。
「征一郎も共犯ですね? 全く気が付けなかったのは失態でした。瑛里華にも内密に行ったことなんでしょう」
「うんうん、想像力豊かで結構。それで、の妄想内で俺はどんな悪事を働いているんだい?」
「誤魔化されませんよ」
 努めて、感情を表に出さないようにする。取り乱せば、彼の思う壺だった。小さく深呼吸をし、どこか興味深そうにこちらを見てくる碧い瞳を見つめ返す。
「あなたが何をしたいのかも、それが瑛里華の為なのも分かります。そしてそれは、私が口を挟むことでもない。分かってはいますが、瑛里華が望まないことをすべきではないと思います」
 ふと、を見据えていた目がすっと細められる。笑みを引っ込めた伊織は諦めたように息をつきながら言う。
「それでもやっちゃうのが、兄心ってやつだよ」
「…理解出来ない」
「しなくていい」
 する必要が無い。暗にそう言われていた。千堂伊織は妹である千堂瑛里華の為に、支倉孝平を生徒会に引き入れようとしている。今回、伊織が孝平に食事をしているところを見せたのは、その為の布石に過ぎないのだ。本当は、今気付いたところで遅い。けれど、何も言わずにはいられなかった。
「こんなの、瑛里華だって納得しません」
「へえ、は瑛里華の味方なんだ」
「私はいつだって瑛里華の味方です」
「寂しいこと言ってくれるね」
「先輩には征一郎がいるじゃないですか」
 彼女の親戚で生徒会財務――東儀征一郎は、基本的に伊織に従う。頭の回転は速く、味方につければ確実に有利な青年だ。その上、伊織には及ばずとも彼もまた容姿端麗だ。
 伊織が何かを考えるようにして視線を宙にやり、再びその視線をに戻す。まるで試すかのような、それでいて少し冷めた視線を寄越され、彼女は僅かに身を強張らせた。
「瑛里華に邪魔されちゃ困るとは思ってたけどね、お前に邪魔されることは想定していなかったよ」
「………っ」
「だって、は俺たちの邪魔をしない。そうだろう?」
 確信めいた言い方だった。それが当然であると、彼は言いたいのだ。そしてそれを、は否定出来ない。昔から、彼女は伊織に逆らえない。それは何故か、自問自答をすることが時々あるが、結局答えが出た試しは無かった。本能的なものなのかもしれない、とも思う。
 意地悪そうな笑顔がを見上げていた。そんな彼を前に、彼女は先程までの態度を維持することが出来ず、怯む。
、お返事は?」
 ゆっくりと、その言葉を味わうように訊ねられる。いつもの軽い調子とは少し違った雰囲気に、は知らず知らずの内にのまれていた。どうにもならずに、はい、と小さく返事をすれば、その瞬間に伊織は満足そうな笑みを広げた。
「うん、良い子だ」
 の負けだ。顔が熱くなるのを感じ、彼女は俯いて伊織を視界から外す。明らかな敗北を感じていた。しかし。友人の姿を頭に思い浮かべると、このまま引き下がることは躊躇われる。瑛里華は孝平を巻き込む気がない。それは元よりそうだったが、昨日――孝平や瑛里華、そしてその友人たちと一緒に出掛けたことによって、より強くそう思うようになった。
 千堂瑛里華は、この修智館学院の生徒会副会長だ。学院をステージと称し、生徒会である自分たちは生徒たちのよりよい生活の為の裏方、そしてこの学園にいる全ての人に楽しい学院生活を送って欲しい、と彼女は言う。そんな彼女を、は友人としてとても好いている。瑛里華にはいつも、助けられてばかりだ。助けたい。彼女の想いを大切にしたい。その為なら、足掻くくらいはしなくては。
「伊織」
 を呼び、顔を上げる。涼しい顔した男を、再度見つめる。今度は、睨むことはしなかった。
「嬉しいね、そんな風に呼ばれるのは、随分と久しぶりな気がするよ」
 茶化すように言われるが、はそれを意に介さない。
「昨日、瑛里華と出掛けたんです。二人じゃなくて、他にも友達とか先輩とか、そこには彼も、いて」
「それは楽しそうだね」
「ええ。お二人は、本当に楽しそうでしたよ。瑛里華は、孝平くんを嫌っていません。寧ろ、好いています」
 昨日、ずっと見ていて考えたことだ。瑛里華も孝平も、互いにいい友人でいられる。伊織が手を出さなければ、ずっと。
「それがどういう感情であるかは分からないけど……でも、少なくとも瑛里華は孝平くんにも、学院の生徒として楽しく過ごして欲しいと思ってる。好いているなら、より強く。違いますか?」
 泣き落としをするつもりもないが、の悪足掻きはそれに近いものだった。自分の正直な気持ちを全て伝え、彼の良心に訴えかけるしかないと考えたのだ。は拳を握り、言葉を継ぐ。
「孝平くんが生徒会に入ることを拒否すれば、記憶消すおつもりなのでしょう? この二週間の記憶を。私は、瑛里華のこともあるけど、私としてもそれは、」
「孝平くん、ねえ」
 の言葉を遮り、伊織が呟いた。これは面白くないな、とも。何のことかと、訝しげに彼を見やる。彼がこちらを見据える瞳はひどく冷めているように見えた。口元だけを緩めた彼は、片手を上げて小さく手招きする。
「おいで、
「は…?」
「いいから、おいで」
 言われるままに歩み寄り、伊織の前に立つと、すぐに腰に腕が回され引き寄せられた。バランスを崩し、彼の肩を掴む。反射的に片膝は折って彼の膝に乗り上げていた。寄りかかるような体勢であることに気付き、慌てて身体を離そうとするが、腰に回された腕のせいで身動きが取れない。恐る恐る見下ろした先には矢張り微笑んでいる彼が居て、そしてその眼が赤く変化していることに気付き――はぞっとした。赤い瞳は、彼らが食事をする時の、瞳だ。
「そういう、縋ってくるような目も悪くない」
「何、を……」
 顎を掴まれ、顔を近付けられる。間近で見る彼も確かに綺麗なのだが、今はその美しさが逆に恐怖を煽った。
「さて、何だろうね」
 分かっているくせに、と付け足して、伊織が口元を歪ませて笑った。唇が触れそうになるほどの距離まで彼との距離が縮まる。振り払う気力も無く、そして――
「何をしている」
 無愛想な声が静かな室内に響いた。耳に馴染む声は、その姿を確認せずとも誰の者か即座に検討がつく。恐らく、東儀征一郎だろう、と。ここでやっとははっとして、今の状態を見られているのだということに考えが至る。羞恥で身体が熱くなる感覚に襲われると同時に、伊織の手を思い切り振り払う。意外にもあっさりと解放され、は彼と距離を取った。
「し、失礼します!」
 緑の瞳を不審そうに細めて見てくる征一郎の視線を気にする余裕も無く、彼の横を通り抜け、監督生室から駆け出していた。残された二人は、互いに顔を見合わせる。数秒の静寂の後、それは破られた。
「なーんてね」
 肩を竦め、笑ったのは伊織だった。白い長髪を揺らし、征一郎はやれやれと息をつく。
「それにしても随分遅かったじゃないか、征」
「お前こそ、随分な脅し方だったな」
 冷ややかに言って、征一郎が伊織を見下ろす。それに笑顔で返して、伊織は机に頬杖をついた。
「ああ、あれ? まあ、ああいう顔してお願い事されたら、俺も弱いからね。本格的に罪悪感に駆られる前にさっさと気を逸らすのが一番かなと」
「それだけじゃないだろう」
 軽く目を瞬かせてから、伊織は苦笑を滲ませる。征一郎には見透かされている、と。
「あんまり孝平くん孝平くん言うから、ちょっとつまらないなと思って」
「…お前は本当に」
「いつもなら一度説き伏せれば反抗なんてしないのに、珍しく食い下がってきたからさ。ちょっと悔しくなってね」
「あいつは、お前に甘いからな。今回は、余程思うところがあったのだろう」
 周知の事実である。 は伊織に甘いことを他人には気付かれていないと思っているが、実際はそうでもない。生徒会の人間、 と近しい者ならば皆知っていることだ。征一郎はそこまで考え、眉を顰める。
「しかし、あれはやり過ぎだ」
「未遂で済んで良かっただろ?」
「そういう問題じゃない」
「……だよね。うん、悪かったとは思ってるよ。確かに、少しやり過ぎたな」
「一つ訊いておくが、お前は俺が止めに入らなくとも本当に止めるつもりだったのか?」
 伊織にとっては思わぬ質問であり、同時に意味の無い質問だった。それを訊ねてどうしたいのか。征一郎を見やって、伊織は苦く笑って見せる。
「んー、まあちょっとそそられたことは否定しないけどー」
「……伊織」
「冗談、そんなに恐い顔しないで、せーちゃん。大丈夫、食べてしまうつもりは無かったよ。彼女は大事な友人の一人なんだからね。それに、食事なら少し前に済ませたばかりだし。無意味な食事はしない」
「……そうか」
「本気で抵抗してきたら、すぐにでも解放してあげるつもりだったんだけどね。でも彼女は……」
 大した抵抗もせずに、自分に身を任せていた彼女があの時何を考えていたのか、彼には手に取るように分かる。彼女は恐怖を感じながらも、征一郎が来るまで拒否しようとしなかった。それが、何を意味するのか。
 幼少の頃とは明らかに違う顔をするようになった少女。戸惑いながらこちらを見上げていた の顔を思い返し、伊織は堪え切れなくなったように、笑った。
「ほんと、あんな顔しておいて気付いてないっていうんだから、面白い」
 知っているかい、征。君の大事な従妹は、俺のことが好きなんだよ。
 残念ながら、本人は気付いていないけれどね。


(20091120)
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