伝えられない
音が、身体に沁み込んでくる。侵食される。久瀬の、音に。彼らしい、澄んでいて真っ直ぐな音だ。以前、聴いた時よりもずっと、柔らかく伸びやかな音になっている気がする。
久瀬のヴァイオリン演奏を聴くのは久しぶりだった。最後に聴いたのは、一年くらい前だったか。――もうそんなになるのか。昔は、よく彼が気分転換に外でヴァイオリンを弾きに行くのに連れて行ってもらっていた。冬の海は人が居なくて、そこで久瀬は自由に、自分の思うままに楽しそうに演奏していて。観客は、私だけだった。彼はそれでも満足そうにしていたのを覚えている。いつからかそんなことも少なくなって、そして、久瀬が高校一年の時に初出場して初優勝を飾ったコンクール。彼がこのコンクールに出場するなんて私は知らなかったし、久瀬自身も一言も言わなかった。それからのコンクールも、久瀬が一度も私を呼ぶことはなく。それどころか、「来るな」と本人からはっきりと言われてしまい。
“コンクールには来るなよ、お前が見ても面白いもんじゃない”
今思えば、彼に明確な拒否を示されたのはこれが初めてだったかもしれない。そんなことを思い出した。
「優子?」
ガタン、と、唐突に大きな音を立てて優子ちゃんが立ち上がった。演奏が止まる。私が見上げた先に居る彼女は、泣いていた。その綺麗な顔に悲愴を滲ませて。火村の呼びかけにも答えず、程なくして優子ちゃんは教室から駆け足で出て行った。
「優子っ!」
立ち上がり、優子ちゃんが出て行った扉を焦ったように見つめてから、火村は久瀬に視線をやる。火村と目が合った久瀬は、すぐに顎で「行け」と示していた。それに片手を上げて応えた火村が優子ちゃんを追うべく走り出す。二人が出て行った後の教室は、妙に静かで、不思議な沈黙が広がっていた。やがて、沈黙に耐えられなくなった私が先に口を開く。
「ど、どうしたんだろうね、優子ちゃん」
「さあ。彼女なりに何か思うところがあったんだろ」
後は火村が何とかしてくれるさ、と軽い口調で久瀬は言った。「泣くくらい感動してくれたんだ」とかは思わないのだろうか。それとも、そうではないことを、彼はきちんと知っていたのかな。何となく、訊ねられない。
「それより、約一年ぶりに聴いた俺の演奏はどうだった?」
「演奏? ああ、うん、良かったと思うよ」
「それだけ? もっと気の利いたこと言えないのか?」
「素人にそんなこと期待しないで下さい」
突き放すように言うと、久瀬は不満そうな声を上げた。昔はもっと、とか何とか。それは、私が言いたい科白だ。最後の演奏の感想が「良かった」だけではさすがに寂しいので、少し考えてから、私は素直に感想を伝えることにする。
「音が、変わってた、と思う。昔より……硬くなくなったというか何と言うか…。真っ直ぐなのは、相変わらずなのにね」
「感想下手」
「う、うるさいな! まあとにかく、上手くなったねってことだよ!」
「当然だ」
いつかの時のように満足そうに目を細めて、久瀬はそう呟く。自信過剰、と言ってやりたかったけど、でも自信過剰でも許せるくらいに彼の演奏は素晴らしかったので、そこはつっこまないでおく。
「昔からよく聴いてたから、久瀬のヴァイオリンの音は耳に慣れちゃってるなあ。私の前ではあんまり弾いてくれなくなっちゃったけど」
「お互い忙しくなったからな」
「うそだ、忙しいのは久瀬だけでしょー。主に女の子とか女の子とか女の子関係でね」
「そりゃごもっともです」
冗談混じりの嫌味を、彼は苦笑しながらあっさりと肯定した。それはそれでつまらない。まあ、この人に否定する余地なんてないんだけど。
「……だから、せめて堂々と演奏が聴けるコンクールを見に行こうと思ったのに」
恨みがましげに言ってやったら、久瀬は小さく溜め息を吐いてからこちらを見据えた。
「本当に、コンクールなんてが見ても面白いもんじゃないと思ったんだよ。あれは順位を決める為の演奏だ。選曲も弾き方も、いつもお前の前で弾いてやってた、お前の好きな俺とは違うよ」
何やら語弊があると言うか、言い回しにちょっと引っかかる部分があったが、とりあえず気にしないでおくことにする。やや間を置いて、久瀬がぼんやりと窓の外を見つめた。ひどく真面目な顔をして、口を開く。
「いつの頃からか、半端な演奏を見せたくないと思うようになった。別にコンクールで半端な演奏をしてるつもりだったわけじゃない。ただ、本当に俺が自分で納得出来るものを聴かせたかったんだ。お前と、火村には。それぞれ、その理由は違うけど」
その理由というやつを問う権利は私には無いのだろう。その後、何か考えるようにして彼は黙り込んだ。そしてヴァイオリンをケースに置くと、急に真面目な顔をして、彼は話を切り出す。
「火村たちが来る前に話してたことだけど」
一瞬だけ、動揺に顔が強張ったのが自分で分かった。あれは自分で振った話題なのに、何をこんなに驚いているんだろう。小さく深呼吸して、動揺を悟られないように「あれがどうかしたの?」と笑みを作って返した。それでも、彼は笑わない。
「怖いよ、惨めになるのは」
冷ややかさすら感じる声音で、はっきりと久瀬は告げた。
「だから言うけど、確かに俺は凪が好きだよ。でも、告白するつもりは無い」
「――久瀬、」
「これはお前に関係無い話だ。これ以上、どうこう言われる筋合いはないよ」
その言葉は、どこか現実味が無かった。あまりにも分かりやすく、何の容赦も無い突き放し方だったからだと思う。分かりやすい、拒絶。今こうやってショックを受けているのは、こんなことがある筈無いと心のどこかで自惚れていた証拠なのだろう。コンクールに来るなと言われた時よりもずっと、心が沈んでいくのが分かった。一つ、理解したのは、踏み込み過ぎたのだということ。何故、踏み込もうと思ったんだろう。自分なら大丈夫だと、思い上がっていたのだろうか。久瀬修一は他人に踏み込まれるのが嫌いだと、私はよく知っていた筈なのに。
ふと、真面目な顔をしていた久瀬が口元を緩ませた。いつもより少しだけ硬い笑みで。
「それに、だって俺と同じだろう。違うか?」
私も、同じだ。惨めになることを恐れているのは、私も同じ。踏み込まれたら、逃げたくなるところまで一緒だった。分かっていたから、お互いに距離が出来たのだ。
「……そう、かもしれない」
「ほらみろ」
色々なことに対して、目を覆い、耳を塞いでいられたらどんなに良いかと思う。しかし。そんなことばかりしていたらいつか唐突に現実の前に引き摺り出され、全てを目の当たりにさせられた時に苦痛が増すだけだと私は知っている。心の片隅で、確信していた。だから、その”いつか”が来なければ良いのに、と私はひっそり何度も願っていたのに。単純に、恐れていたのだ。その恐れを取り除くには、一刻も早く忘れてしまう外無く。忘れて、終わりにしてしまいたかったんだけど。それでも、現実は甘さなんて見せず、都合良く忘れるということを私は出来ずにいた。――ああ、認めるよ、私は久瀬修一が、好きだ。彼もこれを恐らく気付いている。気付いているのは彼だけではないかもしれない。しかし私が久瀬に告白することはこの先、無いと言っていい。久瀬が凪に告白することが無いのと同じで、私が久瀬に告白することも無いのだ。一生、無い。
これでこの話はおしまいな、と苦く笑いながら彼はヴァイオリンケースに置いていたヴァイオリンを手に取る。
「さて、折角来たんだ。もう一曲聴いていくか?」
「お願いするよ」
私がそう言ったら久瀬は満足そうに頷いて、ヴァイオリンを構えた。