どうにもならない
最早ポニーテールがトレードマークである私の幼馴染は、私より一歩大きく前に出た。そして、ヴァイオリンケースを持っていない方の手で教室の扉を開ける。久瀬主催のお別れ会の会場になっている教室だ。カーテンが引かれていないそこは、廊下に負けず劣らず赤い光が射し込んでいた。夕方の教室でヴァイオリン演奏か――悪くない。彼がヴァイオリンを持って来ることは実はかなり想定外だったが、自ら持って来たということは、そういうことなのだろう。今朝、教室にヴァイオリンを持ち込んでいた様子は無かったので、恐らく、一度取りに帰ったんだろうな。御苦労なことだ。
何故か、久瀬は自分で扉を開けておいて入ろうとしない。何か問題でもあったのかと久瀬を見上げると、彼はにこにこしながら私を見下ろし、片手で室内を示していた。
「お先にどうぞ、お姫様?」
「……鳥肌ものだね」
悪い意味で。失礼だな、と不機嫌そうに呟く久瀬の横を通り抜け、私は先に教室に入った。中には、椅子が四つ、教室の真ん中辺りに横一列で並べられている。他の椅子や、机は全て撤去されていた。私は一番窓に近い椅子の横に立つ。教卓の前に立った久瀬は、こちらを振り返った。
「好きなところに座って。あ、床以外で頼むよ。折角用意した椅子が泣いちまう」
「これ、久瀬が用意したの?」
「ああ。ヴァイオリンを取りに帰る前にちょっとな」
「そう……ていうか椅子全然足りなくない?」
後は皆立ち見? 私の問いに彼は一瞬だけ目をまるくしてから、すぐに細める。
「火村、凪、優子ちゃん、 。人数ぴったりだと思うけど?」
「四人しか、呼んでなかったの?」
「そういうこと」
自慢気に、久瀬が微笑んだ。これは意外だったな。もっと、たくさんの人を呼んでいるんだと思っていた。主に女の子……には限らないか。久瀬は社交的で、人気がある。女子人気が目立ち過ぎているだけで、男子の友人もそれなりにいた。呼びたい人も、呼ばれたい人もたくさん居ただろうに。
「呼んでみたけど、フラれちゃっただけだったりして」
「きっついなあ」
先程まで廊下で話していた火村を思い出す。久瀬は彼の数少ない友人の一人だ。すごく正反対な二人なのに、何故か妙に仲が良い。親友、と称すると二人が――と言うよりも火村が嫌がる様が目に浮かぶようだ。悪友、が正しいかな。そして、私は少しだけ火村が羨ましかった。
「あ、そうだ。火村は、優子ちゃんを迎えに行ってから来るって」
「そうか。あいつも優しくなったもんだな」
「好きなのかもね、優子ちゃんを」
「……珍しいな、お前がそういう話をするのって。気になるのか?」
僅かに、真面目な面持ちで訊ねられる。そんなに珍しかっただろうか。まあ確かに、あまり久瀬に恋愛関係の話をしたことは無いような気がするけど。そんなの、当然だろう。寧ろしてたら気持ち悪い。
「まあ、火村の数少ない友人の一人としては」
そうだな、と彼は軽く笑いながら言った。私と、久瀬と凪と…火村の友人関係全てを把握し切れているわけじゃないが、とにかく彼は友人が少ない。気難しい性格のせいだと思うけど。
「でも、火村が”君を好きだ”とか言ってる場面、想像つかないね…」
「ははっ、それは確かに」
あの無愛想な顔でそれは怖いものがある。ツボに入ったのか、久瀬は笑い続けていた。そんな彼を見やりながら、ふと思う。久瀬は、どうなんだろう。どうしたいんだろう。ぐるぐると頭の中を色んな考えが駆け巡る中、気が付くと声に出していた。
「久瀬は?」
何を訊いてるんだ、自分は。止めればいいのに、分かってる筈なのに。
「俺? 俺だって火村の恋愛は気になるさ。こんなに面白いことはない」
「違う、そうじゃなくて。久瀬自身の、話」
一度踏み込んでしまうと、後には引けなかった。瞬間的に目を見開いた久瀬は、もしかすると動揺しているのだろうか。しかしそれを読み取る前に、彼は気の抜けた笑みを顔に貼り付け直していた。
「俺は、見ての通りだよ。自由に恋愛を楽しんでる。知ってるだろ?」
「だから、違うって! そうじゃ、ないでしょ…」
あくまで誤魔化そうとする彼に、無性に腹が立った。違うんだよ、そうじゃない。久瀬は、本心を隠そうとする人間だ。努力も見られないように。つらいのを知られないように。自身がかっこ悪いと判断した部分を、見せないように。
「今日は、凪、来られないんだって」
我ながら、何の脈絡も無い話の飛び方だ。久瀬はそこには触れず、そうか、としか返さなかった。どうして。理由が知りたいなら、訊けばいい。来て欲しいなら、呼びに行けばいい。なのに、どうして。
傍から見ていれば分かってしまうものだ。特に、長く一緒に居れば、嫌でも分かってしまうこともある。分かっているのに、隠されるのは、嫌だ。例え、知りたくない事実であったとしても。
「いいじゃん、フラれたって。手が届かなくても、いいじゃない。手を伸ばしてみるのは、悪いことじゃないのに」
久瀬の顔から、笑みが消えた。
「そんなに、かっこ悪いとこ見られたくない? 自分が負けると分かっているのは嫌? 怖いよね、惨めになるのは」
「どうしたんだよ。今日のお前、おかしいぞ」
久瀬の言葉に苛立ちが含まれていることが聞き取れた。彼はそのまま言葉を続ける。
「……いや、最近ずっと、か」
「おかしいのは、久瀬の方だよ。なんでそんなに……」
顔を顰めた久瀬は、真っ直ぐ私を見つめていた。自分じゃ、どうにもしてあげられないことが悔しかった。一年前の私なら、何かしてあげられただろうか。久瀬を救ってあげられただろうか。拒絶しなければ、良かったのかな。昔を悔やんでも、今は変えられない。分かっているのに、昔の自分を恨んだ。今の自分じゃ、駄目だ。今の久瀬は、もう――
「凪のこと、好きなんだよね?」
これは、確認だった。沈黙が降りてくる。久瀬は表情を変えなかった。やや間があって、彼が何か言おうと口を開く。けれど、それが確かな言葉になるのを、扉の開閉音が遮った。久瀬は私の向こう側へと視線を向け、私は静かに振り返る。後ろの扉から入って来たのは、火村と、優子ちゃんの二人だった。美男美女で、並ぶと絵になる二人だ。私を視界に入れた優子ちゃんにこんにちは、と丁寧な挨拶をされてしまい、思わずこちらも「こんにちは」と慣れない挨拶で返してしまった。
「なんだ、メンツこれしか集まらなかったのか?」
「いいや、俺が呼んだのは最初からお前らだけだよ」
明らかに、先程とは声のトーンが違っていた。さすが、久瀬だ。彼は机にヴァイオリンケースを置くと、それを開けた。
「今から始まるのはお別れ会と言うより、久瀬修一の演奏会だったりするんだよ」
「演奏会?」
「まだ火村には、一度も聴かせてなかったろ?」
ケースからヴァイオリンを取り出すと、左手でそれを見せるように持つ。
「置き土産に披露してやろうって言うんだ、有難く聴いとけ」
「あら? 火村先輩の為だけに弾くみたいな言い方ですね」
火村の隣に立っていた優子ちゃんが、楽しそうに言った。ナイスツッコミだ。
「おおっと、失礼。今日は我が親愛なる友人、火村夕と雨宮優子、そして――三人の為に」
す、っと、慣れた様子で左手に持ったヴァイオリンを左肩と顎の間に挟み、右手に持った弓を振り上げる。不覚にも見惚れてしまうくらい、優雅な動作だった。
「この国で最後の、そして最高の演奏を送ろう」
私達が席に座ったのを確認すると、久瀬はゆっくりと頷く。一瞬だけ、彼と目が合う。間もなく逸らされてしまったけれど。
「思い出が詰まった、この場所でね」
この音羽学園の教室で、最高の演奏を、彼は奏で始めた。