行きたくない
“天才ヴァイオリニスト、久瀬修一くんお別れ会の巻”当日は、瞬く間にやってきてしまった。こんな本人主催の妙なお別れ会なんかにしんみりしてやる必要も無いし、絶対に、絶対に寂しくなったりはしない。別に、まだすぐにドイツに行っちゃうわけじゃないし。分かってる。けど、やっぱり――嫌だった。”お別れ”を、目の当たりにするのは。
夕暮れに染まる廊下を、お別れ会の会場である教室へ向かって重い足取りで進む。何するんだろう。誰を、何人くらい呼んでるんだろう。やっぱり女の子が多いのか、な。
「いや、だからどうってことないけど!」
「……でかい独り言だな」
「………っ!」
背後からの低い声に勢いよく振り返ると、よく知るクラスメイトが呆れ顔で立っていた。目立つ銀髪が夕日の光に照らされて、いつもより綺麗に見える。見惚れるくらい、夕方が似合うなと思った。名前が夕なだけはある。関係無いか。
「ていうかこんなのに見惚れるって、きもちわるいな自分」
「お前、人を目の前にしてまだ独り言を続けるか」
(見た目は)綺麗なクラスメイトは、性格と言葉遣いは外見と違い綺麗では無いようだった。呆れ顔のまま目を細めた彼に、ごめんごめんと苦笑いで謝罪する。謝る気ないだろ、と間髪入れず返され、否定出来ずにとりあえず笑って見せた。彼は、恐らく諦めが混じっているであろう溜め息を吐き出し、肩をすくめる。
「いや、火村だなーと思っただけだって」
「何だそれ。それと独り言と、どう繋がるんだよ」
「細かいことは気にしないの」
ね! と同意を求めてみるが、火村夕から同意の言葉が発せられることはなかった。それより、と彼はあっさりとこの話題から離れる。
「お前もまだこんなところをウロウロしてたんだな。久瀬のお別れ会、もうすぐだろ?」
「分かってるよ。私は、凪を誘ってから行こうとしてたの。どうせ美術室に篭って、時間なんて見てないだろうし」
その瞬間の火村の僅かな表情の陰りを、私は見逃さなかった。凪の名前が出た瞬間だ。何かあっただろうか。訊ねようとしたけれど、その前に彼は「凪は来ないそうだ」と、何でもないように苦笑した。
「来ない? どうして」
「あいつにも色々あるさ」
「……火村、凪に何したの」
「今なら描けるかもしれないって、言ってたよ」
火村は私の睨みを受け流し、ついでに問いかけも無視して、しれっとそう言った。やっぱり、何かあったような気がする。これ以上は二人の問題なので、訊かないでおくけど。
「いよいよ凪のスランプ脱出ってことか」
「だと良いがな」
「で、火村はこれから教室に?」
「いや、俺は優子を迎えに行ってからだ」
ごく自然にそう口にした火村に、僅かながらに驚かされた。ていうか優子ちゃんも呼んであるのか久瀬。何と言うかすごく、抜かりないな。これは、火村の為かもしれない。久瀬なりに、気を遣ったのだろうか。火村がこれから迎えに行く予定である、一つ学年が下の雨宮優子ちゃんは、火村の昔の知り合いらしい。しかし最初は、彼は彼女をどこか迷惑がっている節があった。今では色々あったようで、前よりもずっと仲が良く見えるけど。彼が優子ちゃんを迎えに行くと普通に言ったことが良い証拠だ。それを本人に伝えるときっと嫌がるだろうけどね。何だかんだで世話焼きな火村の性格から生まれた結果かな。
「お姫様をお迎えに行くわけですね、王子様」
「何バカなこと言ってるんだよ」
「それとも、妹を迎えに行くお兄ちゃんかな?」
「……止めろ」
酷く嫌そうに火村が呟いた。まあ確かに、優子ちゃんはお姫様と称してもいいくらい可愛いけれど、火村は王子様ってガラじゃない。ちょっと無愛想過ぎるな。自分で言っておいてあれだけど、兄と妹――には、個人的にあんまり見えない。
ふと腕時計に目を落として、時間を確認する。始まるまで、まだ少し時間に余裕があった。火村が優子ちゃんを迎えに行ってから歩いて教室に向かっても、十分に間に合うだろう。私は、火村の優子ちゃんのお迎えに付いて行っても仕方無いので、ここで一度お別れすることにする。
「じゃあ、私は先に教室に行ってるから。また後でね王子!」
「だから止めろって、誰が王子だ! こら待て、」
火村の怒号を背に、廊下を走る。どうせ彼は照れているだけだ。久瀬との繋がりで仲良くなった彼は素直じゃないけれど、妙に可愛いところもある奴だと私は知っている。
思いがけず走ることになったおかげで、目的の教室にはあっという間に到着してしまった。扉の前に立ってみるが、中からは人の気配がほとんど窺えない。何故だろう、皆用事か? それともこれはあれか、何かのドッキリ? 入ったら誰も居なくて実はお別れ会の会場は別にあって、という久瀬の最後の盛大な嫌がらせ? だったらどうしよう…。有り得そうで嫌だ。女の子の声が全くしないというのも、たまには不安にさせられるものだ。いや、まず人の声がしないんだけど。
「入らないのか?」
「えええっ!?」
本日二回目の背後からの声に、やっぱり慣れるわけもなくて、例によって勢い任せに振り返った。しかし、そこに立っていたのは先程のクラスメイトではなく。
「……久瀬」
「やあ、よく来てくれたな」
ヴァイオリンケースを片手に微笑む、幼馴染――久瀬修一だった。