終わらせたくない

 分かっていたいとは思うけど、分かって欲しいとは、考えた覚えが無い。しかし、現実はそう上手く思い通りにはならないものである。現に、私は久瀬を理解し切れていないのに、久瀬は私をよく理解していたのだ。
 廊下の真ん中には、不自然に長机が置いてあった。その上に、誰のものかは知らないが、服やら靴やらフィギュアやら、多種多様な私物が載せてある。新品にしては、どれも少しくたびれているようだった。まるでフリーマーケットだ。その持ち主は不在であるようで、放課後だからか、持ち主どころか人の姿自体がほとんど見受けられない。学校の廊下にこんなものを広げる人間なんて、大方、予想はつくけれど。机の上の綺麗に畳んであるセーターを手に取り、目の前で広げる。確かに見覚えのあるものだった。これを着ていた人物を、私はよく知っている。
「お買い上げになります?」
 すぐ後ろ、耳元で囁かれた科白に私は思わず、ひっ、と声を上げた。耳を押さえて振り返れば、よく見知った幼馴染が必死に笑いを堪えている姿を視界に捉える。
「お前って、ほんと耳弱いよなあ」
「………っ、久瀬っ!」
 すっかり見慣れてしまったポニーテールを揺らしながら、彼は堪え切れずに笑っていた。ここでうっかり怒ってしまえば、完全に久瀬のペースに巻き込まれてしまうことを学習しているので、今は睨むだけに留める。私の睨みなんてモノともしない彼は、ひとしきり笑い終えてから、探してたんだけどな、と言った。
「探してた? 何でまた」
「フリーマーケット、手伝ってもらおうと思ってさ」
「やっぱりこれ、久瀬だったんだ。授業にはもう出なくて良いのに、わざわざ学校に来てこんなことして」
「授業に出なくて良いからこそ、だろ?」
「暇だね」
「別に暇じゃねえよ、失礼な奴だな。火村にも言ったが、俺には色々と片付けなくちゃならないことがあるんだ」
「……それって、女の人?」
 久瀬は一瞬だけ目をまるくした後、静かに笑みを深くした。こういう大人っぽい笑い方を彼がするようになったのは、いつからだっただろうか。
 久瀬修一という私の幼馴染は、もうすぐドイツへ留学する。彼は、ヴァイオリニストになるらしい。私は音楽のことは詳しくないけれど、彼のヴァイオリンは綺麗だと思ったし、彼がヴァイオリニストになるのは当然だとも思っていた。ただ、想定の範囲外だったのは、久瀬がドイツへ行ってしまうことだけだった。幼少の頃から、一年前のあの日まで、私は久瀬と離れることなんて考えたことも無かったのだ。今思えば、馬鹿な考えだ。ずっと一緒に居るなんて、出来ないのに。一年前のあの日、久瀬を拒んだのは、私の方なのに。
「妬いたか?」
「っ、誰が!」
 ぐっと顔を近付け、そんなことを言ってきた久瀬に不覚にも動揺を隠せなかった。
「冗談だよ。そういや、火村にも言われたな、同じこと」
「久瀬、イコール女の人っていう方程式が私たちの中にはあるからね」
「それは光栄なことで。その火村も、さっき後輩の女の子連れてどっか行っちまったけどな」
「火村が? 女の子って、凪じゃなくて?」
「後輩って言っただろ。まあ、火村が連れて行ったと言うよりは、彼女の方が火村に付いて行ったと言う方が正しいか」
「……何それ」
「さあ、俺もよくは知らん」
 きっぱりと言い切った久瀬は、私が手にしていたセーターを取ると、畳直して机に置く。それから、机の向こう側へと移動し、机を挟んで私と向かい合った。
「それはそうと、何か買っていかないか? 服はにはちょっとデカいかもしれないが、そういうのを着たお前が好きな奴も居るかもしれないしな」
「何、どういう意味?」
「分からないなら良い」
 何なんだ。訊いたところで教えてはくれないだろうから、訊かないけど。
「俺の匂いがする服を持っていたい、っていうのでも良いぞ? 格安で売ってやろう」
「いらない」
 即答してやると、彼は、そうか、と態とらしく残念そうに視線を落としていた。そんなことをされても買わないから、と念を押しておく。
 時々、と言うか、色んな場面において、彼が何を考えているのか分からなくなる時がある。昔はその都度、不安になったものだが、今では少し慣れてしまった。他人の全てを分かっていたいなんて、無茶な話だったんだ。
 しばらくこちらを眺めていた久瀬が、盛大に溜め息を吐き出す。
「全く、授業のほとんどをサボっておいて、少しは友人のフリーマーケットの売上に貢献してやろうという優しい心も持てないのか、お前は」
「何でサボってたって、知ってるの」
「何度も教室に見に行ったんだよ。手伝ってもらおうと思ってたからな。でもお前、いつ教室行っても居ないから。何処でサボってたんだ?」
「色んなとこ、転々としてた。授業、出るの面倒で」
「丸一日サボるなんて、大した度胸だな」
「そうだね、今日は、どうかしてた」
「何だ、今日はやけに素直―─……」
 ふと、彼は黙って、私を見つめる。その意図が掴めずに、とりあえず私も見つめ返してみた。そして、眉をひそめた久瀬から何の前触れもなく伸ばされた手を、拒否出来ずにその手の動きを無意識に目で追った。久瀬の右手は迷い無く私の額に触れる。ああ、冷たい、な。
「久、瀬?」
 舌打ちが私の耳に入った瞬間には、もう歩き出していた。彼も、私も。つい数秒前まで額に触れられていた手は、今は私の右手を掴んでいる。その手は、やっぱり冷たかった。
「嘘吐き、早く言えよ」
「え? 何?」
「何が転々としてた、だ。お前、熱出してずっと保健室に居たんだろ」
 正確には、昼から学校に来て、来たは良いけどやっぱり体調が戻らなくて保健室に居た、なんだけども。そんなことは、言い訳にもならないだろう。昔から、体質なのか、時々熱を出していて、何度か学校を休んだことがある。それは笑って誤魔化すことが可能な程に何てことはない(と言うか、慣れた)ものなのだが、久瀬だけはいつも、誤魔化されてくれなかった。
「嘘が上手いなんて、何の自慢にもならないぞ」
 分かってる、なんて、反論は出来ずに黙り込んだ。「上手い」と久瀬は言うけれど、結局見抜かれてしまったのだから、意味の無い褒め言葉だと思う。”久瀬だから”見抜けたというのはあるけど。私を知っていて、何においても聡い彼だからこそ。
「フリーマーケットは、」
「今日は店終い。片付けは後でする、を家に送った後で」
 また学校に戻って来るつもりでいるらしい。そんな面倒なことはさせたくないし、申し訳なくて仕方がないから止めて欲しい。が、それを彼に伝えたところで決定が覆るわけがないことは経験上、想像に難くなかった。
「私、一人で帰れるよ」
「だからどうした」
 ほら、ね。聞く耳を持っちゃくれない。いつもよりも、余裕が無いように見える。
 こうやって、私は久瀬を分かっているつもりだった。けれどそれはやっぱり、一年前のあの日までの話だ。あの日から、何も分からなくなった。昔と今の共通点を探して分かったつもりで居ても、それだけだ。一方の久瀬は、いつだって私を理解していて。それが悔しくて、悲しくて、寂しかった。何故こうも子供みたいな寂しさに駆られるのか。私は私自身すら、理解出来ていないのかもしれない。
 前を歩く背中に向かって”修一”と小さく呼べばごく自然に、何だよ、と返ってくる。そのことに今は、酷く安心させられた。この日々は、もうすぐ、終わる。


(20081101)
→back