知りたくない

「好きだ」
 嫌だ、と思った。彼の唇で触れられた自身の唇を手の甲でごしごしと擦る。目尻に涙が浮かんできたのが分かるが、これを自ら拭ったら泣いていることを認めることになってしまうので、それは我慢した。認めたくない、でも、涙が止まらない。何故だろう。この感情をはっきりと説明することは出来ないけれど、柄にもなく真剣な顔で好きだなんて言ってくる修一を、私は怖いと認識してしまったのだ。
「なん、で、何で、修一」
「好きだから、だろうな」
「わたし、修一に何かしたかな」
「もしかして、俺が怒ってるとか思ってる?」
「寧ろ怒っているとしか思えない」
「怒ってないよ」
 言いながら、修一は苦く笑った。高校生にしてはやや大人っぽく捉えられる笑い方が、何だか別人に見える。同級生の私よりも、彼はずっとずっと大人だった。
ふと、彼の手が近付けられる。反射的にぎゅっと目を瞑って俯くと、参ったなあ、とぼやく声が聴こえた。目尻に暖かい手が触れ、そっと目を開く。修一はやっぱり苦笑いで、私の涙を拭ってくれている。彼は短いポニーテールを揺らして、少しだけ私の方に顔を近寄せた。
「泣かせちまったな」
「……泣いてる?」
「ああ、十分なくらいに泣いてる。分からないか?」
「分かる、けど」
「認めたくない?」
「そう、なんだろうね」
「頑固だよなぁ、昔から」
 昔。そう、修一は私の昔を知っているし、私は修一の昔を知っている。彼の口から出た昔という単語で、今目の前に居る人物は、私が昔からよく知る久瀬修一なのだと再認識した。それでも、僅かな恐怖は拭い去れない。そのよく知る幼馴染が、私の知らない空気を纏っているから。
 修一に、彼女がたくさん居ることを私は知っていた。街で見かける度に違う女の子と歩いていたし、昼休みになるとよく女の子に呼び出されて告白されている。幼馴染が女たらしになっていく様は見ていて複雑だったけど、いつしかそれが当たり前になると、気にならなくなった。彼女がたくさん居るのにも関わらず、その彼女の一人ではない私を二週間に一回は遊びに誘ってくれるし、火村を交えて三人で遊びに出掛けた時もある。
それで十分、私は満足していた。時々でも、一緒にさえ居てくれれば、久瀬がいつどんな女の子と居ても、どうでも良かったのだ。どうでも良い、筈だった。いつからだろう、それをどうでもいいと思えなくなったのは。どうでも良く、ない?
 今、修一を拒絶したら、彼は離れて行ってしまうのだろうか。そんなことは、修一にファーストキスを奪われてしまったことよりも、もっと嫌だった。
「私、修一のたくさんいる彼女の一人になれば良いの?」
「違うよ」
「じゃあ、どうしたら良いの?」
「何もしなくていい。お前には期待してないよ、何も」
 修一の表情が陰る。何も、ともう一度呟いた声のトーンは、明らかに低い。
「意味が、分からない」
「分からなくていい、そのままで居てくれ。例え、俺はお前が火村を好きだったとしても、構わないぞ。相手が火村という時点で気は進まないが、応援してやろう」
「火村、は、好きだけど。たぶん、修一の言ってる意味の好きじゃないと思う」
「そりゃ良かった」
 そう言ってから、安心したように、溜息を漏らす。彼の言わんとしているところが、全く読めない。そんな私の心中を読み取ったのか、修一は柔らかく笑って、口を開く。
「知らなくていい、分からなくていいさ。俺は、そんなが好きだったんだ」
 嫌な予感が、何度も何度も頭の中を駆け巡る。今、自分は酷く情けない顔をしているような気がした。今更、と言うのも変だけれど、何故、今彼がこんなことを言い出したのか。考えれば考えるほど、嫌な結果しか思い浮かばない。恐る恐る見上げると、修一は困ったように眉を下げていた。
「そんな顔するなよ、決心が鈍るじゃねえか。俺がそんなに我慢強い方じゃないのは、よく知ってるだろ」
「……修一?」
に、言わなきゃいけないことがある」
 言わないで欲しかったけど、言わないで、なんて、言えなかった。いつか聞かなければならないことだ。なら、早く聞いて楽になるべきなんだろう。
一拍、間を置いて、彼は言う。ドイツへ留学するんだ、と。ああ、そういう、ことか。納得だ。
「一年後か二年後か、分からないけどな。行くんだ」
「ヴァイオリン、だね」
「よく分かってらっしゃる」
「じゃあ、お別れだ」
 気が付くと、そう口に出していた。あまりにもさっぱりとした口調で、我ながら惜しむ雰囲気の欠片もなかったように思う。一年後か二年後か分からない、とにかく、今すぐではないと言うのに、もうお別れを口にしているとが不思議だ。妙な諦めが、あった。もうどうすることも出来ないという、諦めが。自分の中のどこかで、絶望が広がっていく。
 目をまるくしてこちらを見つめていた久瀬が、不意に笑う。
「可愛くないねえ」
 呟いた彼にセカンドキスまで奪われ、しばし茫然とした。もう怖いとは感じなくなっていて、その行動は別にしても、纏う空気がいつもの修一に戻ったように思える。
けれど、違和感は胸にずっと残っていて。翌日、私は彼を”修一”と呼ぶことを止めた。


(20081017)
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