その意味を知ったのは
それはいつのことだったのか、明確な時期を宮川尊徳ははっきりと思い出すことが出来ない。しかし、出会った日に交わした会話は記憶している。
優秀な兄や姉に囲まれて育ち、自らも優秀な成績を修めることが既に当たり前となっていた幼少期。彼が試験、実技共に常に一番を維持し、他の同級生よりいくら秀でていようとも両親は我が息子ならば当然として、よくやったと褒めてくれる者など周囲には存在しなかった。出来ることが自然、決して褒められず認められないことが前提の努力。楽しむ余裕などある筈も無く、兄や姉たちに一秒でも早く追いつく為だけのそれはいつからか尊徳にプレッシャーとして圧し掛かっていた。
幼くして満点で返って来たテストに何の感慨も抱かなくなっていた頃。まるめてくしゃくしゃにしたテストの答案を片手に自室へ戻る途中に出会ったのは、屋敷では見慣れない顔の少年だった。制服姿の彼は尊徳よりずっと背が高く、明らかに年上だ。少女とも見紛われそうな容姿の少年は尊徳に気付くと、その顔に笑みを広げて近寄ってくる。久しぶりだな、とか、前はもっと小さかったような、とか。どうやらこちらが知らないだけで初対面ではないらしい。側へ来た少年は、尊徳が持っている紙の塊を見下ろすと、ひょいとそれを取り上げる。返せ、と怒鳴って即座に手を伸ばすが、それが届くことはなく塊は広げられた。そして。
――へえ、お前すごい奴だな、満点だ
満点なんて当たり前だとこちらが返す間もなく、その人は自分のことのように喜び、小さな尊徳の頭をくしゃくしゃに撫でる。この瞬間を、生涯忘れることはない、忘れたくないと彼は思う。その一言が、仕草が、どうしようもなく嬉しかったからだ。
*
「貴様はここを誰の部屋だと思っているんだ?」
「オレの部屋」
「全然違う!」
二階堂彩のボディーガードになってから尊徳の帰る場所となったのは超一流の資産家である二階堂邸。彼が現在立つのは自室の三つ隣にある客室だった。そこは彼の従兄弟の私室でもある。憐桜学園の保健医である従兄弟は、その父が二階堂の主と同級生だったこともあり、そのよしみで職場である学園から近いこの家に居候させてもらっているらしい。尊徳としては何となく合点のいかない話なのだが、今それは置いておくことにする。現在の問題は、何故その従兄弟の私室のベッドを部屋の主で無い男が占領し、本を読み耽っているのかということだ。長時間居座っているのか、ベッドの上には本が積み重なっている。あまつさえ、その男はこの部屋を自分のものだと言う。思わず一度廊下に出て確かめてしまった。この位置は間違いなく従兄弟のものだと確認し、部屋に戻るとすぐにベッドの男をきつく睨み付ける。
「ここは、宮川の部屋だ! それを自分のものだなどと、どこまで図々しいんだ貴様はっ」
「安心しろ、お前ほどじゃない」
「何に対して安心しろと言うんだ」
本をぱたりと閉じた同級生の男、朝霧海斗は気だるそうに尊徳を一瞥し、寝転がっていたベッドから上半身を起こした。彼は端正な部類に入る顔立ちであるが、尊徳に言わせれば生意気で嫌味ったらしさしか窺えない顔。それは海斗の性格が酷く捻じ曲がっていると思い知っているからこそ出る感想であり、黙っていれば女子に好まれそうなルックスであることは確かだ。尊徳も劣ってはいないけれど、如何せんこちらも性格に難有りである。当然、尊徳にそんな自覚は無い。
成績は下から数えた方が早いくせして態度だけは大きく、首席の自分に突っかかってくる海斗が尊徳は入学当初から気に入らなかった。付け加えて、尊徳がずっとプリンシパル――警護対象者――にしたいと思っていた二階堂麗華のボディーガードをすることになった男。益々気に入らない。海斗もまた、彼を嫌っていた。犬猿の仲と称して何ら不自然の無い二人は、同じ二階堂家の娘のボディーガードをすることになったその日から、一つ屋根の下で暮らしている。そうなると少しは良好な関係に変化してもいい筈なのだが、そんな兆しは未だに見えない。
睨み合いも程々に、海斗はやれやれと嘆息するとベッドに座り直して立ち尽くす尊徳を見上げた。
「ノックを十回も繰り返した挙句、鍵がかかってないと分かるや否や勝手に入ってくんだから、お前も十分図々しいに分類される」
「何かあったのかと心配になって開けたんだ。あいつが中で倒れている可能性も無くは無いじゃないか。と言うか部屋に居るならノックされたら出ろ!」
「ま、なんでもいいけどな。なら麗華に呼ばれて今さっき出て行ったぞ、出直して来い」
「そうか。それなら後でまた来る……って、なるか! 貴様がの部屋ののベッドで寝転がりながら本を読んでいる理由をまだ聞いていない!」
「の部屋にあるベッドなんだからわざわざ言わなくてもこいつのベッドだろ」
「余計なところに食い付くな」
鋭く目を細めて見せた。海斗はふっと薄い笑みを顔に貼り付け、片手に持った本をひらひらと振る。
「尊と違って、オレはに信頼されてるんでな。どうしてもって言うから、オレに本とベッドを貸すという簡単な条件で仕方なく留守番を引き受けてやったんだよ」
「ふん、どうせ海斗がの部屋のベッドを占領して読書をしている間に呼び出されたが、仕方なく貴様に留守番を任せて出て行った、というところだろう」
「分かってんなら聞くんじゃねえよアホか」
「き、貴様という奴は…っ!」
ふざけた奴だ、とこの一年間で何度思ったか覚えていない。無性に殴りたくなり拳を震わせる。ボディーガード同士で争ってはならないという校則が無ければ、間違い無くこの場で殴りかかっているところだ。絶対に殴られないと分かっている海斗は特に警戒する様子も無く、再び本を開こうとしていた。
追い出したくて居ても立っても居られない程ではあるけれど、許可を貰ってこの部屋で居る以上は無闇に追い出すわけにはいかない。鍵をかけていかなかったところを見ると、留守番を任せているのは本当だろう。海斗が特技のピッキングで勝手に入室した可能性も有り得るが、テーブルの上に置かれている二人分のカップを見る限りそれは無い。先程まで彼は確かにここに居た、そこに海斗が本を読みに来たのだろうと察するのは容易い。部屋の主の不在中、我が部屋のようにくつろぐ海斗と、それを許可したらしいにも段々と腹が立ってくる。は自分の従兄弟で、自分の兄代わりで、決してこいつモノでは、こいつの方を信頼しているわけが――と純粋に海斗の図々しさに対するものだった筈の怒りに妙な嫉妬が混ざりかけていた自身に気付き密かに恥じる。自分が嫉妬などらしくもない。
どれもこれも何故かいつも海斗に甘いあいつが悪いんだ! いっそ清々しい程に人のせいにして、尊徳は海斗をここから追い出す方法を思考する。まず、正攻法から。
「留守番は交代だ、僕がここでの帰りを待つ。あいつに用があるんだ、別に僕でも構わないだろう」
「断る。一度引き受けたことだからな。オレは任務を無責任に投げ出すようなことは出来ない男なんだ」
「どの口が言うんだ、どの口が」
海斗の口から責任などという言葉が出てくることが違和感だ。無責任でなかったことなんてあっただろうか。頼んで素直に言うことを聞く男であったなら、ここまで互いの仲は険悪にならなかっただろう。最初から正攻法が通じるとは思っていなかった尊徳は、不快さを隠さず決定事項を告げる。
「非常に不愉快だが、僕もここで待たせてもらおう」
「無理するなよ、伝言ならオレがしっかり伝えといてやるぜ?」
「結構だ。貴様に言伝を頼んだら改悪して伝えられそうだからな」
「分かってねえな尊、そこが伝言ゲームの醍醐味だろ」
「分かって無いのは貴様だっ、それは僕の言伝を曲解することを前提にしているだろう!」
実は用事なんてものは特に存在しないのだが。何となく来てみるとそこに何故かいけ好かない同級生が居たものだから、引き下がるのが癪に障るだけだ。人を小馬鹿にしたような笑いを見せてから、さっさと本を読むことに集中し始めた海斗に対し苛立ちを覚えるなと言う方が無理な相談である。意地でもここに居座ってやろうと尊徳は決めた。壁に凭れ掛かり、本に目を落とす海斗を眺める。その視線には微かに殺気が篭っているが、海斗は気付いていないようだ。あるいは、気付いて無視を決め込んでいるか。
尊徳が朝霧海斗を気に入らない理由の一つは、彼のとの関係だ。教師と生徒、それだけの筈なのに、それ以上を感じさせる節がある。は海斗に甘く見えるし、海斗の方も他の教師に対する態度とに対するそれでは違うように思えるのだ。この学園において一番に近い筈の尊徳も立ち入れないような気さえする、不自然な親密さがある。が海斗に何を思っているのかはこちらの知るところではないし、その逆も然りだ。ただ一つ分かるのは、二人の間に自分たちの知らない何かが確かに存在するということ。それは決して甘美な関係を意味しているのではなく、もっと殺伐としたものを思わせる。
は寮でも夜になって海斗が自室に訪れるのを許していたようだし、何かあると海斗を気にしていたことを思い返すと腹立たしさも割り増しだった。今、が二階堂家に住んでいるのも、実は海斗が居るからでは、と疑ってしまってならない。どうして従兄弟である自分を差し置いて海斗ばかりを構うのかと。そんな子供っぽい不満ばかりが湧いてくる。海斗も海斗で何の遠慮も無しにを名前で呼んだり、今みたいに頻繁に彼の部屋や保健室を訪れては本を読み漁ったりしている。の部屋を図書館か何かと勘違いしているのではないだろうか。とにかく、麗華の護衛の座ばかりではなく、彼の従兄弟として一番近い立ち位置まで盗られるなんてあってはいけないことだろう。
「(って……、また、僕は何を考えているんだ……!)」
自分ともあろう者が、まさか海斗に妬いているなんてことはない、決して無い、絶対に無い。盗られるという表現も何かおかしい。そう自分に何度も言い聞かせ、小さく深呼吸をする。
元より、弟としての立場など当に捨てたようなものだ。憐桜学園に通い、進級出来ずにボディーガードへの道を閉ざしたを拒絶した瞬間から。誰からも褒められないことに慣れ始めた頃に出会った従兄弟。宮川の屋敷によく出入りしていた彼は、尊徳が良い成績を修める度、何か新しいことが出来るようになる度、本当に嬉しそうに笑って尊徳を褒めた。は将来優秀なボディーガードになるだろうと家族が話すのを耳にし、尊徳もそこに何の疑いも持たず、ただ嬉しいと感じた。そんなすごい人が自分を褒めてくれている、という優越感があったのだろう。そこに強い憧れが生じていたからこそ、が進級出来なかったと聞いた時には酷くショックを受けた。裏切られた気分だった。何度も何度も理由を訊ねた。どうして、と。彼は寂しそうに笑いながら、言う。――悪いな、尊徳。
その日から話すことはなくなり、尊徳が真実を知ったのはあれから十年近くが経過した昨年、の父親から彼が憐桜学園訓練校の養護教諭になると聞かされた時のことだ。寮住まいの間、出来ることならの様子を見てやって欲しい、と唐突に頼まれ、当然納得のいかない尊徳は彼にその理由を訊ねる。そして――後悔した。それはが憐桜学園で進級出来なかった理由で、ボディーガードを諦めざるを得なかった理由。幼い尊徳が何度訊ねても謝罪しかしなかったの真実。もう長い間ずっと、宮川の人間としての努力が足りなかったから、意思が弱いから、と決め付けて勝手に失望していた自分を恥じて後悔するに足る理由だった。宮川はボディーガード候補生として入学出来ただけでも十分に奇跡的で、本当にボディーガードになるなど土台無理な体質であったのだと。あの日から態度を急変させた自分を、はどんな思いで見ていたのだろう。そんなことを考えると、謝りたくもなるが、そこに意味は無い。謝られたが困惑することは明白だ。だから今、せめてもの償いに尊徳は彼を出来る限りで守ると彼の父親に誓った。勿論、ボディーガードとしての将来以上にを優先させることなど出来ず、そんなことは彼も望まないだろう。
もう昔のようにはなれず、戻れない。それでも、何かしてやりたくて、僅かでも取り戻せる可能性を見出したくて、尊徳はもう一度この学園でに関わることにしたのだ。
「――――」
そこに、海斗のような存在があることは予想外もいいところである。何も知らないくせにと内心毒づく。海斗を睨んだまま心中だけで罵倒し続けること数分、ついに何を思ったのか不意に海斗が顔を上げた。彼は不快そうに眉をひそめて、尊徳を見据えている。
「なんだよ、じろじろ見るな。気が散るだろ」
「僕が何を見ようと僕の勝手だ」
「そんなに見つめるほどオレが好きなのか?」
「そ、そんなわけないだろうっ、気色悪い発想は止めろ! 僕は呆れていただけだ。いつ呼び出されるかも分からないのに自室から長時間離れこんなところでくつろいでいるなどと、自覚が足りんにも程がある、とな」
「今のお前にだけは言われたくねえ。だいたい、何かあったら携帯に連絡が入るだろ。そんなことも分からんのか」
「なっ……」
プライドの高い尊徳にしてみれば、安い挑発でも反応せずにはいられない。例え本人に挑発を装ったつもりはなかったとしても。そんなことは尊徳には関係無い。かっと頭に血が昇り、反論しようと反射的に口を開く。その時、こんこん、と控え目に扉をノックする音が耳に入った。その直後、響く声に耳を傾ける。
「朝霧、それは携帯電話をちゃんと携帯している奴の台詞だと俺は思うんだが?」
音と呆れ声の発信源は、開きっ放しの扉とその前に立つ人物。一触即発な雰囲気を崩す為、そして戻ってきたことを知らせる為に扉を鳴らしたその人は、正しく尊徳の待ち人だった。彼よりも先に、本をベッドに置いた海斗が不満そうに口を尖らせる。
「遅いぞ」
「ほんの十分くらいだろう。どれだけ気が短いんだ君は」
「麗華と何してたんだ?」
「別に、ただの世間話さ」
なんてことはないようにそう答えたは、部屋に入るなりぱたんと扉を閉じた。尊徳を見やって、は僅かに嬉しそうに頬を緩ませる。
「いらっしゃい、尊徳」
「……はい」
「お前の用事は後で聞こう。とりあえず朝霧、まず君だ」
「あん?」
あからさまに剣呑そうなからの視線を受けて、海斗は眉間に皺を寄せた。
「さっき、呼び出したくても君の携帯に繋がらないって、麗華お嬢さんとツキから聞いたんだ。まさかと思ったが、本当に持たずにこの部屋に来ていたとはね。携帯を携帯しろ、なんて間抜けなことを俺に言わせないでくれないか」
「なんだあいつら、オレに用があったのか」
「お嬢さんが外出するんだと。ほら、朝霧も行って来い」
「なんでオレが……」
「貴様、麗華お嬢様と出かけられると言うのに何を面倒がっているんだ!」
思わず尊徳が口を挟むと、一瞬だけ部屋が静まり返る。麗華は海斗のプリンシパルであり尊徳の憧れの人でもあるので、何か言いたくなるのは自然なことだ。彼女と行動を共に出来るなんて彼にしてみれば幸せでしかないのだが、それを実現出来てしまう立場の海斗はあまり彼女に興味が無いらしい。いつも麗華に失礼な言動を繰り返し、手が早い彼女に殴られている。尊徳は海斗を彼女のボディーガードだと認めたくなかった。尊徳を一瞥したは、曖昧に苦笑してから海斗を見る。
「……尊徳の言い分はともかく。なんでもなにも、お嬢さんは君のプリンシパルだろ。護衛の君が彼女の外出に同行するのは当然。その本持って行っていいから、今からすぐに行きなさい」
「じゃあついでにこれの続編を全部持って行っていいか?」
「良……くないな。それ二十巻まであるじゃないか。部屋まで運ぶのは手間だし。伝達責任のある俺としては、君に今一刻でも早くお嬢さんのところへ行って欲しいんだが。また夜に読みに来るなり取りに来るなりしていいから、今はその一冊で我慢してくれ」
「仕方無い、我慢してやるか。また夜に読みに来る」
「はいはい、ご自由にどうぞ」
ちゃっかり読んでいた本を一冊持って、海斗はあっさりと部屋を後にした。それを見送るから、あれさえなければねえ、という呟きが零れる。あれさえなければなんだと言うのだろう。何をさせても下から数えた方が早い成績の海斗に、彼は何を期待しているのか。ボディーガード嫌いの麗華は何を思って海斗を唯一選んだのか。考えずにはいられないのだけれど、それは恐らく尊徳には一生理解出来ないことである。
「あいつは……海斗は、よくここへ来るみたいですね」
「んん、まあわりと来るかな。来る度に本が増えていると喜んでいるよ。彼にとってここは簡易図書室みたいなものなんだろうな」
本当にそれだけなのだろうか。疑問は解消されるどころか日に日に増えていく一方で、しかし何を訊ねても適当にあしらわれると尊徳は分かっていた。
――もし、過去に自分が捨てた立ち位置に現在海斗が居るとしたら。過ぎった予測は、あまり気持ちの良いものではなかったが、現実味はあった。の父親は、尊徳の存在が息子の助けになっていたと言った。尊徳が居たから、は憐桜学園に一年間だけでも居られたのだと。一見そうは見えないが、今も同じように支えを必要としていたとしたら。それがもし海斗だったとしたらどうだろう。不自然な流れではない。そうあったとしても何らおかしくはないと尊徳は思う。自らが立ち去った後の空席に、海斗が座っただけ。言葉にすれば簡潔なもので済む結果は、どうしようもなく不快で仕方無いものだった。
「海斗が、好きですか?」
「教師が言うのもどうかと思うが、気に入ってる方かな」
恐る恐る訊ねた質問に、はティーカップを片付けながら平然と答える。心臓を掴まれるような気持ち悪さを覚えつつ、尊徳は質問を重ねた。
「――弟、みたいで?」
自分自身を追い詰めるだけの質問だ。無意識に拳を固く握っていた。はやはり軽い口調で、尊徳の問いかけに返答する。
「おとうと? あいつが? 俺の? ははっ、それはないだろう。お前時々すごく変なこと言うよな」
「…え?」
その内容は尊徳を驚かせると同時に安堵させるには十分だった。強く握った拳をゆっくり弛緩させる。尊徳の様子に気付かないは、おかしそうに笑い続けながら言葉を継いだ。
「まず何をどうしたら朝霧が弟になるんだ。あんな可愛げのない弟はお前だって嫌だろ?」
「それはまあ、そうですが…」
「面白い奴ではあるがね、弟キャラとは一番程遠い奴だと思うぞ。あいつにお兄ちゃんとか兄さんとかお兄様とか呼ばれた日にはもう……」
「………気持ち悪っ」
激しく嫌な想像をしてしまった。いつの間にか鳥肌が立っている。も同様らしかった。言われてみると確かに、海斗は「弟」にはなり難い人物である。上から目線の言動、無駄に大きい態度、身長――どこを見ても弟にしたい要素が無い。尊徳が完全に見落としていた点だ。
今日、尊徳にとって一つ分かったことが増えた。二人の関係の謎は解けないままだが、が海斗に対して抱いている感情が過去の尊徳に向けられていたものとは明らかに違うということ。心底可愛がっている風ではなく、彼が海斗に助けられているようでもない。ただの杞憂だ。普段から二人を見ているのだから少し考えれば分かっていたことなのだけれど。すぐにその結論に辿り着けなかったのは、尊徳が焦っていたからだろう。
尊徳に背を向け、ベッドの上に積まれている本に手を伸ばしたは、何かを思い出したように動きを止める。肩越しに尊徳を振り返り、苦く笑った。
「こんなこと言ったらお前は怒るかもしれないけどさ、俺の弟は生涯尊徳一人だけだと思うよ」
「怒りはしませんが、別に嬉しくもありません。ずっと子供として見ている、ということでしょう」
なんてことを言いながらも、内心嬉しさが勝っていた。初めて声をかけられ、褒められたことを思い出させるような、高揚感。
「そうじゃないよ、上手く言えないけどね。お前が居たから、俺は――」
その続きを告げること無くは再び尊徳を視界から外し、やっぱりなんでもない、と言った。尊徳にの言葉の続きを訊ねる気は無い。何故なら、知っているからだ。の父親から全部聞かされているから。勿論そんなことを本人は知らないし、これから先絶対に知る時は来ないだろう。それで良いと思った。の存在が幼い頃の尊徳にとって大きいものであったのと同じくらい、尊徳の存在はにとって大切なものだった。それは多分、今も同じ。その事実は自分だけが知っていればいい。
は海斗が片付けなかった本を手元に引き寄せると、本棚へ運ぼうとしていた。ハードカバーの分厚い小説を五冊程抱えている姿は、周囲から見ればハラハラさせられるものだ。本来男性ならば大した重量ではないのだろうが、は一般的な成人男性と比べて随分と華奢だったので。遠目に見れば女性だと錯覚するのではないかという程だ。ただそれはあくまで周囲の感覚であって、本人にしてみれば本の五冊程度なんてことはない重さなのだが。見ていられなくなって、つい「僕が持ちます」と口を出した。半ば無理矢理本を受け取ると、悪いな、と素直に感謝される。受け取る時に触れた腕は、出会った頃から変わっていないのではと思わせるくらいに、細かった。<