あともう少しだけ

「進級おめでとう、朝霧」
「…………」
 出来る限りの笑顔で出迎えてやったというのに、生徒――朝霧海斗は笑い返すどころかぎこちなく顔を歪めていた。礼儀なんてものを今更彼には期待していないが、それにしてもここまで露骨だと心中複雑というか、いい気分はしない。ここが保健室であることを考えれば不調なり怪我なりといった可能性もあるけれど、朝霧海斗はこの一年そのどちらも無かったし、しかしそれでも保健室にはよく訪れていた。暇潰しに。だから今回も不調の類では無いだろう。
「あれ、それを報告しに来てくれたんじゃないのか? ほら、入るといい。お茶でもいれよう」
「……なんであんたがそれを知ってるんだ」
 そう問う声はどこか不機嫌さが混じっているように聴こえた。進級の喜びを伝えに来たのに先手を打たれて拗ねているのだろうか。だとしたら可愛いものだが、この男に限ってそんなことはないな。不機嫌さに気付かない振りをして、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出す。
「僕はこれでも教師だから」
「養護教諭は成績なんて付けないだろ」
「情報は入るさ。最終試験でかなり足を引っ張ったらしいことだって知ってるぞ。こっちは尊徳経由でね。それよりも、入り口の前で立ち尽くすな。そこは君以外も出入りする場所だから」
 海斗は呆れたような視線を向けつつ保健室に足を踏み入れた。俺はいつものように椅子を引き、海斗に座るよう促す。しかし、こちらを見下ろしたまま彼は動かなかった。
「まあ座りなさい、朝霧」
「長居はしないぞ」
「いいから座りなよ」
「なんでだよ」
「とにかく座れ」
「断る」
 海斗は断固として座ることを拒否していた。面倒臭がりで気分屋、それでいて妙に鋭い彼に対して不自然且つ強引な指図は無意味であり、今回はそれに該当している。しかし、今に限っては彼が拒否しているのはそんな理由ではないのだろう。何故俺が椅子を勧めてくるのか彼はよく知っている。知っていて敢えて従わないでいるのだ。
「知ってるだろ、年下に見下ろされるのは嫌いなんだ」
「奇遇だな、オレは年上を見下ろすのが大好きなんだ」
「…………」
 なんという天邪鬼。
「分かった、僕も座る。だから君も座れ」
「座って下さい、だろ?」
「…………」
 にやり、ととてもじゃないが資産家のお嬢様方をお守りするボディーガードは思えない、とんでもなく凶悪な笑みを顔に貼り付けていた。なんて男だ。
 身長が特別低いわけではないが、そこまで高くもない。男性としてはギリギリ平均に達していない背を、俺は密かにとても気にしている。例え養護教諭であっても、教師であるからには威厳が欲しいと常日頃から思う。元々強面などとは程遠い外見で、身体つきも筋肉質とは言い難い。どうやらなかなか筋肉が付かない体質らしい。これで身長が無ければ教師としての威厳が保てない。女子はともかく、男子はボディーガードを目指しているだけあって体格に自信がある者もそれなりに多い。俺よりもずっと。つまり、舐めてかかられることに腹が立つのだ。威厳あれこれを考える前――この憐桜学園に生徒として通っていた頃から佐竹校長のように男らしくなりたいと願っていた。つまりどうあっても身長は重要なファクターだ。ちなみに、佐竹校長に憧れ、目標としていることを打ち明けて未だに笑わなかった者は居ない。
 保健室に来る生徒でやたら背が高い者が居れば、まずだいたい座らせることにしている。厳しく説教するにしても優しく諭すにしても、大人としての威厳が大事だ。けれど海斗はそんな俺の考えを見透かしているらしく。身長だけでなく態度も大きいなんて厄介この上ない生徒だ。仮にも生徒と教師、一年かけても力関係が正常の位置にならないのはどういうことか。腕力で敵わないのは分かりきっているが、口でも敵わないとは結構問題な気がする。だから俺には、海斗の発言に対し大人らしく冷静に返すという道しか無い。
「君が一生立ってていたいならそれでもいいさ」
 こんな風に。
「いや待て、冷静なことを言いながら椅子の上に立とうとするな」
「なんだか無性に君を見下ろしたいだけだが」
「大人らしくはどこいった」
「じゃあとりあえず君が跪いてくれないか」
「じゃあってなんだじゃあって」
 海斗は可哀想なものを見るような目でこちらを見つめた後、そっと椅子に腰を下ろした。なんだこの敗北感は。足を組み、ふんぞり返った海斗が俺を見上げて偉そうに口角を上げる。
「ほら座ってやったぞ、感謝して褒め称えろ」
「椅子くらい普通に座れないのか君は」
の思い通りになってやるのはつまらんからな」
「……ああそう」
 身長差よりも態度の大きさの方がよほど深刻な問題だな。とは言え、同じように威張り散らすのは性に合わないので結果的に彼の言うことをはいはいと流すしかなかった。実際付き合ってみるとそう嫌な奴じゃなく、態度の大きさのわりに不快に感じることは少ない。実は一緒に居るとそれなりに楽しいくらいだが、それと同じ程度に面倒臭いとも思う。生徒は公平な目で見るべきだと自分に言い聞かせているのだけれど、これがなかなかに苦労する。海斗を相手にした時だけ。色々と、線引きが難しいのだ。
 二つのカップにお茶を注いで、片方を海斗に差し出す。ペットボトルを冷蔵庫に戻してから、俺は彼の隣の椅子に腰掛けた。
「流しそうになったが今またで呼んだだろう。学校では止めろと何度言わせば気が済むんだ。それくらいは配慮してくれ」
「別にいいだろ、今更。尊が怒って鬱陶しい以外は問題ない」
「あのな、学校では誰が聞いているか分からないんだ。必要以上に親しいと思われるのはお互い困る。先生と呼べとは言わないが、せめて名字で呼ぶべき」
「ケチくさいぞ、168センチ」
「168.5センチだ」
「小さい奴だな……」
 何が、とは聞きたくない。
「全く、危機感というものを持ちなさい。それで、今日此処に来た理由は? 放課後に来ることなんてなかったろうに。僕にわざわざ進級報告をしに来たのか」
「そんなんじゃねえよ、尊じゃあるまいし」
「あいつもまさかこの歳になってそんな報告はしてこないだろう。あれにとって進級なんて当たり前にある通過点だ」
 俺の従弟であり海斗のクラスメイトでもある宮川尊徳はなんでも首席で進級するらしい。見上げたものだ。それすら、尊徳にとっては当たり前なのだろう。兄たちに劣らない立派なボディーガードになるべく、彼が努力してきたのを俺は知っている。
「で、君の目的は」
「目的って程のもんじゃない。何となく、顔を見に来ただけだ」
「それはまた気持ち悪いことしてくれるな。寮に戻ってからも顔を合わすだろ?」
「白衣のあんたを見るのはこれが最後だろうと思ってな」
「――海斗」
 彼の一言。そこから真意を察するまで、そう時間はかからなかった。進級出来たにも関わらず、この学園を辞めるつもりなのだろう、と。思わずで呼んでしまう程度に驚いたのは、ほんの一瞬。頭はすぐに理解し、納得する。特別強い感情は抱かなかった。こんなものかと思うだけ。
「そうか」
「もっと寂しそうにしてくれよ」
「別れ話された女じゃないんだぞ、そんな女々しい反応が出来るか」
「似たようなもんだろ」
「全然違う。掠っても無い」
 妙な関係ではあったことは確かだが。ただ仲の良い教師と生徒だったのなら、俺はもっと寂しそうにしてやっても良かったかもしれない。だが自分と海斗は違う。
 俺は朝霧海斗が佐竹校長によって正規の手順を踏まずに入学したことを知っている一人で、佐竹校長の計らいで海斗の学園生活をサポートする為だけにこの学園へ赴任してきた。一年前、此処へ入学するまで学校というものに通ったことの無かった彼の為に、夜には寮で高等課程以前の勉強を教えたし、彼が困った時に頼りやすいよう養護教諭という立場も利用した。つまり共犯者、と言えばいいのだろうか。海斗の出生、身分の違い、犯した罪の数、その全てを俺は見なかったことにして、彼が学園で過ごせるよう最大限の努力をした。そこまでしたのは海斗の為と言うより、佐竹校長の為と言った方が正しい。校長のことを思えばもっと引き止めてみるべきなのかもしれないけれど、この一年間海斗を見てきた俺はそんなことをしても無駄だと悟っていた。
「君の人生だからな、僕が口を挟むつもりはない。佐竹校長には?」
「これから言うつもりだよ」
「分かった。挨拶はきちんとしておけよ」
「随分あっさりしてるんだな」
「素直に引き止められてくれるような奴だったら、多少は考えてるかもしれない」
「そりゃそうだ」
 小さく笑って、海斗は目を細めた。それを見つめ返して、俺は無意識に嘆息する。未練なんてあるわけがない。たった一年間、普通の他人よりもほんの少し深く関わった他人だっただけだ。結局は他人。可愛げも愛想も無いし、口は減らない、敬語は覚えない、態度は大きい。問題児そのものだ。勉強に関しては、海斗は物覚えがかなり良い方なので教える方としては然程苦労させられなかったが。しかし何故か、無性に八つ当たりの一つもしたい気分だ。何に自身が苛立っているのか理解出来ないまま、開いた口は思ってもないことを喋る。
「未練はないが、これまでの苦労を返せ、とは言いたいかもしれない」
「いいぜ、今直ぐ身体で返してやるよ」
「返さなくていいから制服を脱ぐな。保健室は変態行為禁止だ」
 本当に制服に手をかけていた海斗に俺はかなり真面目な顔で告げた。どこまでが冗談でどこまでが本気なのか判断が難しい。思わず盛大に嘆息してしまう。
気が付くと、海斗はテーブルに頬杖を付きながらぼんやりと前方を眺めていた。やがて、独り言のように俺に問う。
「この一年は無駄になるけどな、あんたは俺のお守りから解放されて清々するんじゃねえのか?」
「清々、ねえ……」
 確かに、彼の言うことは間違っていない。海斗の協力者という名目が無ければ俺はこの学園に居る必要は無く、自由の身だ。元居た学校に戻るのも良いだろうし、新しい学校を探してみるのも悪くないかもしれない。何も不満は無かった。尊徳と会えなくなるのは少し残念だが。それだけが理由ではなく、何かが胸にずっと突っかかっているような感覚だ。海斗が居なくなる、恐らくもう二度と会えない。それは、もし本当にそうなったら、俺は何を思うんだろう。少し、想像してみる。誰かに勉強を教えることも、犬猿の仲の二人の喧嘩を眺めることも、しつこくからかわれることも無くなる。それを自身の解放と取るのか、それとも。俺は――
「僕は……俺は多分、海斗と一緒に居た時間を悪くないと思ってた」
「は?」
「君が居ると、退屈せずに済んだ。無駄だと思ったことは、一度も無い――ような、思い返せば無駄ばかりだったような」
「どっちだ」
「まあ、つまり楽しかったってことさ。海斗の方は、退屈そのものだったようだが」
「俺は……」
 珍しく、海斗から動揺が見て取れた。言葉が出て来ないのか、口を開きかけては言い淀んでいる。それを見ているのが楽しくて、俺は何も言わずに彼の言葉を待つ。たっぷり一分程の沈黙の後、海斗は小さく舌打ちをした。その直後、唐突に伸びてきた手が俺の頭上へ向かう。瞬間、反射的にびくりと肩を震わせてしまった。身体は硬直していって、抵抗する余裕は欠片も無い。海斗はそんなこちらの様子などお構いなしで、俺の頭を掴んでいた。で、ぐりぐりと押さえ付け始める。一気に身体から力が抜けた。
「何をしているのかな君は」
「あんたがよくするやつだよ。頭撫でてくるだろ」
「これは撫でてるって言わない。頭を押さえ付けるって言う」
「撫でる、の最上級みたいなもんだな」
「いや全く違う行為だぞ」
 何がなんだかよく分からないまま、頭を押さえ付けられ続ける。かなり握力があるらしく、地味に痛い。彼の学園での握力測定結果はあまり芳しくないが、それは手を抜いているからであって本当の力ではない。一度本気の握力測定をさせてみたくなってきた。
「で、何でこんなことを」
「無性に168センチにしてやりたくなった」
「ここは怒ってもいいところか?」
 俺を見下ろす瞳は先程と変わらずどこか同様の色が窺える。様子がおかしいのは一目瞭然だ。頭を押さえ付けていた手から力が抜ける。眉間に皺を寄せながら、海斗はらしくなくぼそぼそと告げた。
「あんたがあんまりな顔してたから、仕方なく撫でてやったんだよ」
「あんまりな顔ってなんだ。そんな横暴な言いがかりは初めて聞いた」
「嘘だと思うなら鏡見て来い」
 恐らく嘘ではないのだろうな、と考える。俺はとても分かりやすく酷い顔をしていたのだろう。感情を隠すことを不得意とはしていないが、どうも気が抜けていると考えが顔に出やすいらしい。寂しそうな顔を、していたのだろうか。そんな恥ずかしいことを訊く気にはなれず、鏡を見る勇気も無い。
「ったく、本当に縮んだらどうしてくれる」
「責任取って結婚してやるから心配するな」
「心の底から適当なことを言う奴だな……」
「性分だ」
「さり気無くまた頭を押さえ付けるのを止めなさい」
 きっと、俺はまだ情けない表情のままだ。あー年下相手に情け無いことこの上ない。こんなだから、尊徳にも心配されるし、海斗にも気を遣われる。でも、どうしたら胸につっかえているものが取れて元に戻るのかが分からない。思案しつつ、いい加減頭が痛くなってくるのでそろそろ反撃の機会を窺い始めたところで――不意に保健室に怒声が響いた。
「海斗!!」
 扉に手をかけて鋭い視線をこちらに向けているのは、俺の従弟だ。まさか、彼まで放課後に此処を訪ねてくるとは意外だった。見るからに怒りのオーラを身に纏っている宮川尊徳を眺めて、海斗は俺にだけ聞こえる声で面倒そうにぼやく。
「なんか面倒臭いのが来たぞ、
「本当にここは面倒なのしか集まらないな」
「何でこっち見ながら言うんだよ」
「さあ、なんでだろう」
 一度、ぽんと軽い力で俺の頭を撫でると、海斗は手を引っ込めて椅子から腰を上げた。撫でるという行為を知らないわけじゃなかったらしい。尊徳の下へ歩み寄って行くいい笑顔の海斗に、嫌な予感を覚えた。この喧嘩は長引きそうだ。
「寮に戻ったんじゃなかったのかよ」
「うるさい、なんで貴様が用も無いのに保健室に居て、をいじめてるんだ」
「こいつがドMでいじめて下さいって言うからだ」
「えっ……」
「そこは信じるな尊徳」
 僕を騙したのか、と再び怒鳴り始める尊徳。兄代わりとしては、そこは騙されないでいて欲しかったんだが。
「どうせ進級報告しに来たんだろ? お前の分も俺がきっちり報告しといてやったから感謝してくれていいぞ」
「な、貴様…!」
 二人の喧嘩を耳にしながら、俺はすごすごと雑務に戻ることにする。付き合っていられない。仕事机のある方へ移動させようとウーロン茶がまだ半分以上入ったカップを手に取りかけるが、水面に映る自分の顔が視界に入り、手を止めた。海斗の動揺の原因は、これか。なるほど確かに、酷い顔だ。「寂しい」と改めて口内で呟いてみると、その言葉はすっと胸に落ちた。――ああ、俺は朝霧海斗に此処に居て欲しいのか。そんなどうしようもないことに気付いたところで何の意味も無いのに、不思議と気分はややすっきりしていた。背後で口喧嘩(尊徳が海斗にからかわれているだけ)を繰り広げる二人を肩越しに振り返って見やる。もう少しだけ、付き合ってやるか。


(20101108)
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