Introduction05

──これは、壊れないものだ。

 慈しむべき祖国に紛れ込んでいた"犬"に、ラインハルト・ハイドリヒが抱いた印象はそんなものだった。このナチス・ドイツにおいて、いかに同盟国の民であろうとも、何の力も繋がりも持たない異国人が易々と入国し自由に行動出来るなどそう有り得ることではないだろう。考えうる可能性は複数あったが、そのどれもが物騒なものではあった。移民、密入国、諜者──冷静な頭で、合理的且つ現実的な思考が弾き出した可能性はしかし、直感が端から否定していく。この年端もいかぬ少女は恐らくそんなに複雑なものではない。国家を脅かすあれやこれやよりももっとシンプルで害はなく、けれども存在が異常そのものだと彼は根拠もなく思う。
 ただの愚鈍と片付けてしまうにはあまりにも察しがよく、あまりにも恐怖や危機感といった類に鈍感。上からも下からも畏怖の目を向けられ続けてきたこのラインハルト・ハイドリヒと対峙して尚、彼女は平然とした態度で、対等であるかのような顔をし、己のペースを崩さない。ここまでくると、物を知っているかいないかだけの差異ではないだろう。少女がここを逃げるように立ち去らなかったのは、ラインハルトに剣呑なものを感じ取り、知人の身を案じたからだと彼はおおよそ察している。ゆえに解せないのは、その危険察知能力が彼女自身の危険を自覚させないことだ。何が少女をそうさせるのか。必要がないからその感覚だけ切り落としてしまったようで、あるいは"ラインハルト・ハイドリヒは己のみの脅威にならない"と知っているかのようでもあった。現に、彼はその気になれば容易に命を摘み取れる相手に、辛辣な言葉を吐くくらいのことしか出来ていない。あまつさえ、ラインハルトの自覚の及ばない内側を見てきたかのように暴いて。そんなはずはない、一度黙れ不愉快だと、せり上がってきた不快感を振り払うように少女へと手を伸ばしてみたが、結局邪魔が入った。
 これは壊れない、壊せない、壊す必要がない。自身の40年近い人生で培ってきた常識を、倫理観を、使命感を、そして奥の奥で目覚めかけている欲求を。総て本能が覆して、この少女は己が触れるべきものではないと告げている。ある意味、その全てが正常に機能した上での結果なのかもしれないが。例えば、祖国は愛し守るべきもの──根っこから染み付いた祖国愛の理由を、今更深く思考しその正否を問わないのと同じこと。昔から根付いていた感覚であるかのように、この少女を害さないことが自分の中で確定している。否、彼女と接している内に徐々に確定していくと言うべきか。倫理観と常識と使命感は彼女を肯定し、まだ形が朧げな欲は彼女を対象外だと否定した。後者の意味するころを、ラインハルトはまだ知らない。
 つまり彼は本能に従って部下となる女の忠告は聞き入れなかったし、少女の身柄を人任せにして引き渡すことをしなかった。捕縛し、拷問したところで何も出てきやしないだろう。何よりそのような行為は徒労に終わると確信を持てたのは、彼女がラインハルトの背後に迫った"魔術師"を見て、目の色を変えた時だ。
「あなたが四番目、なんですか? カール・クラフト? 本当に? どうして……」
 現れた魔術師ことカール・クラフトと相見えた瞬間、少女はこれまで見せなかった表情を簡単に晒す。 何もかもに納得がいかないといった面持ちで、困惑と混乱を全面に押し出しながらもそこにはどこか興奮が混じっていた。矢継ぎ早に問いかけてくる彼女は、そわそわとしていて先程までの落ち着きがない。
「ああ、お嬢さんの仰る通り。カール・クラフトは確かに私だ。軍の狗として、この国のためにノストラダムスであることを求められている男だよ。さて、これでよろしいかな、閣下」
 などと自然にラインハルトの隣へと並に立った男は立場を弁えている風を装ってはいるが、その言動は国家機密も何のそのと言わんばかりのものだ。この娘相手に何かしら取り繕うこともなさそうなので、強く咎めることもしないけれども。
「事実と大きく違えてはおらぬが、卿の立場を鑑みれば模範解答とも言えまい。首から上を繋げておきたくば、今後その吹けば飛びそうな軽過ぎる口は縫っておいた方が賢明と知るがいい。どのみち、これが国の脅威になるとも思えんし、何かさせるつもりもないが」
「それは頼もしい御言葉だ。つまり彼女はどうでもよいと」
「プライオリティが低いことは否定せんよ。ただ、それは看過することと同義ではなかろう。飼った覚えのない犬に庭を走り回られるのは、どうも据わりが悪いのでな。脅威ではないが、異常には違いない」
 そう、やはり異常だ。異国人である彼女がこの国に存在することが異常なのではない。この世界に存在していること自体に、強烈な違和感を覚えてならないのだ。
「卿は、これのことをよく知っていそう口振りだったな。どうなのだ、カール・クラフト」
「無論、閣下の期待に応えたいとは思うのですがね。生憎と、あなたのお気に召すような正確且つ過不足のない回答を、私の手持ちでは御用意出来かねる。一つ確かなのは、"これに我々は手を出せない"。あなたも、薄々感じておられたのではないですか?」
 隣を見下ろせば、何もかもを見透かしたように微笑むカール・クラフトが、興味深そうに少女を見つめ返していた。モルモットを目の前にした研究者のような好奇心を宿した瞳は、昏く危うい光を湛えて彼女を映す。
「逆も然り。"彼女もまた我々に手を出せない"。 今のところそういう意思が全くないと言った方が正しいかな。なに、難しく捉えるものでもありません。自然の摂理のようなものだと考えられるがよろしい。弱肉強食や食物連鎖は、誰も疑う余地のない事実だ。これは規模が違うだけで、それらと同じこと。降って湧いたルールに常識のような顔をされても飲み込み難いのは仕方のないことだが、一度受け入れてしまえば幾分楽になりましょう」
 何を馬鹿な、と言いたいところだが、妙に納得はいく話だった。これはそういうもの。なるほど確かに、そう言うしかないだろうと。カールが少女の方へとひょろりとした身体を寄せ、怪しげに笑んだままの顔を近付ける。彼女は後退りまではしないものの、気持ち身体を仰け反らす。彼はそれを気にした様子もなく。この男が誰かをこんなに物珍しげに眺める姿こそ何だか珍しいもののように思えた。ふむと感心したように呟いて、ひとりごとのような声音で彼は少女に向けて続ける。
「恐らく、どのような法も術も適さぬのだろう。君と相対した細胞たちの一部は、君に対してのみ正常に機能しなくなるらしい。これで害する能力を持ち得ないというのが些か惜しくはあるな。破壊に至らぬネクローシス。偶発であるなら尚のこと、そう呼ぶに相応しい」
 ネクローシス──この無知な娘を偶発的な細胞の破壊であると、魔術師はそんな戯言を口にする。アポトーシスというプログラムされた細胞の自殺と対になるネクローシスは、細胞の事故死だ。何を以って彼女をそれに例えたのか、その真意がラインハルトにわかるわけもなく。どうせいつもの悪い癖が出ているだけだ。誇大妄想狂をまともに相手にしたところで時間を無駄に浪費するだけだろうと知っているのに。放っておけば好き勝手に取るに足らない話を語り続けるだけの男を黙らせるのは簡単であったはずなのに、何故かそこに口を挟むのは憚られた。
「あ、の……あなたは」
 ラインハルトと向かい合った時間よりもずっと身体と顔を強張らせ、少女が重々しく唇を動かした。何かを言おうとしているが、どうも言葉を選んでいるようで、口を開いて出てくるのは唸り声だ。
「君が何を訊ねたいのかはおおよそ察しがつくが、どう答えれば君を満足させられるのかはわかりかねる。ただ、今君の目の前にいるものは、恐らく君が想像しているものとさして相違ないと思ってもらって構わぬよ」
「じゃあ…………っ、あなたは、本物の……」
 刹那、明確な動揺と僅かな興奮に、彼女の頬が上気する。まるで恋い焦がれた相手にやっと出会えたとでも言い出しかねない様子だ。枯れ木のようにくたびれていて、影絵のように印象が捉えらない男に対して向けられるものとしては些か輝き過ぎている。不意に少女の両手が、影絵の男の片手を包んだ。それを持ち上げるなり、彼女は力みながら声を張る。
「わ、わたし、ファンでした! あなたの!」
「────」
 そして、ラインハルトにはおよそ理解出来そうにないことを言い始めた。カールの手に触れる娘はそれを一瞥し、どことなくうっとりとして。
「あぁ、やっぱり……本物なんですね。たった一人を想うあなたの長い長い歴史には、愛と敬意を感じていたんです。ロマンを覚えます。結果も大事ですが、過程も同じくらい大事だと思うから。そこも含めて素晴らしいと言わせて下さい。とても、うつくしい──」
 まるでカール・クラフト以外が少女の世界から消えてしまったかのように、彼だけを一心に見据えて彼女は熱っぽく語る。誰の姿もどんな言葉も、目にも耳にも入れぬというように。一体何が彼女をそうさせるのか。
 想定していた反応とは離れていたせいか、やや面食らったようにカールは瞬きを繰り返し、くく、と抑え気味に笑う。
「これはこれは、随分と可愛らしいお客人だ。益々興味が湧いたよ。君は本当に、何もかもがずれているらしい」
「ずれ……」
 自覚が無い少女がどういうことかと首を傾ける。その疑問に答えることなく、カールは少女の手を優しく解きながら、ラインハルトへと肩越しに振り返った。彼の長い髪をまとめる不釣り合いな黄色の布が合わせて揺れる。
「閣下。彼女をこれからどうするおつもりで?」
「無論、連れて行くしかなかろう。これも仕事なのでな」
 地に倒れ伏せる二人共々、自らの手でゲシュタポに連行すると決めていた。それ以降どうするかは、話を聞いてからだろうとも。表向き職務は全うするが、ある程度は彼のさじ加減でどうにでもなることは多い。つまり少女の今後は彼の手の中にあるも同然なわけだが。
「では一つ、私のわがままを聞いて頂きたい」
 それを知ってか知らずか、ここに存在しているという現実味に乏しい男が薄く笑ってそう告げる。面倒事の予感を察知出来てもそれを拒む術がないのが、きっと一番面倒だ。ぽかんとしている"壊れないもの"を横目で眺めて、ラインハルトは仕方なしにカール・クラフトの言うところの"わがまま"に耳を傾けた。


(20170507)
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