Introduction04

 これが現実であると仮定するなら。パラレルワールドだとかタイムリープだとか、現象の可能性は様々ある。真偽の程は定かではないが、異世界に行った、タイムトラベルをしたという話をネット上で拾うのはそう難しくない。ある手順に添った儀式をすれば、特定の条件が揃えば、今とは違う世界へ旅立てたと自称する人たちは案外多いのだ。そしてそれは個人が持つ能力とは、関係のないものらしい。
 何がきっかけだったのかと思い返せば、あの穴だろうなあと思い当たる節が全くないでもない。ただあれだがどんな効果を持ちどんな条件で発生するものなのか、見当もつかない。何にせよ、正解を確定させるには情報が少な過ぎるだろう。1939年12月25日──一体何百年前だという話だ。正直選択科目でドイツ史を取りでもしなければ、数百年分のこの一年がどんな状況であったかなんて覚えちゃいない。記憶に残っているのは精々世界的に見て大きな出来事。端的に言うと、戦争だ。第二次世界大戦はそこに該当していた。
「……ヴィルヘルムさん何やってんの」
 と、ここまで考えて、突如騒がしくなった方角へとは顔を傾ける。一人になったものの、存外考え事には向かない時間だった。ここで結論を出すのは諦めるとして。
「あれ生きてんのかなあ……」
 いやたぶん大丈夫だろうという予感はあるのだが。ヴィルヘルムが夜の闇に消えた数分後、同じ方向から鉄屑が文字通り飛んできた。正確には、"車であったであろう鉄屑"なのだが原型は留めておらず塵のように転がって二転三転した後、火を噴いて停止した。けたたましい騒音と共に車以外にも刃物やら木材やら何やらが飛び交って、事態は軽く災害クラスだ。彼の用事、とはモンスターか何かを狩りに行くことだったらしい。間に挟まる怒鳴り声は確かにヴィルヘルムのもので、それで生存確認としては十分だ。で、対戦相手は一体どんなモンスターなのか。
「ううん、ここにいてもって言うか、どこにいても危なそう」
 どうしようかなあ、とひとりごちながら、一旦燃え盛る車からは離れた。寒空の下を丁度いい気温まで引き上げてくれたのは有難かったけれど、暖を取るには危険が過ぎる。
 ヴィルヘルムと何かが戦闘している音は、着実にこちらへと距離を詰めてきていた。死体が起き上がるよりこっちに巻き込まれる方が早そうだ。最早神に祈ったくらいでどうにかなるものでもないだろう。己を助けるのは己だけだと自分に言い聞かせ、が移動を決断するまでに大した時間は要さなかった。即断即決、即実行は彼女の自覚する長所だ。
「人がいる」
 これだけ騒げば第三者が集まるのも自然なことだ。遠目だが、地面に伏せる死体と似たような制服を着用した女性二人と、私服と思われる奥ゆかしそうな女性が一人。更にそのもっと奥に──言い知れぬ存在を、感知した。ここからでは離れ過ぎていて姿形は正確に捉えられないのに、その存在を視界に入れただけで胸がざわざわして、同時に高揚する。あそこには、自分が求める何かが在る。そんな確信めいた希望が勝手に浮上してきて、心臓の鼓動を速くさせた。ブランデンブルク門を見上げた時のそれとよく似ている。神と、歴史。彼女の気持ちを強く揺さぶるのは、いつだってそれだ。ふらふらと、自らの予感に従い、安全ではない方へと着実に近付いていく。恐怖はなく。あるのは希望と、期待のみ。
 不意に軍服姿の女性が二人、地を蹴った。向かう先にいるのは、拳を振るうヴィルヘルムと、鈍く光る白銀のナイフを操る白い少女だ。とてもじゃないがモンスターには見えない。 女性らしい長い髪とフリルをあしらったスカートをひらりと舞わせながら戦う姿はさながら天使と言いたいところだけれど動きは確実に人間離れしており、繰り出す一手一手全てが少女の柔なそれではなかった。離れていてもそれがわかるくらい、彼女は、彼は異常だったのだ。その二人の戦いに割って入った女性二人も只者ではなく、それぞれ手袋を纏った手に剣を握り、まるで騎士のように勇ましい面持ちで彼らと対等に渡り合っているのだから驚くしかない。
 目的の場所に辿り着こうにも、こうも派手に戦闘を繰り広げられては近付けそうになかった。一対一、が二倍になったことで戦闘範囲が広がるのは道理だ。さてどうしたもんかと立ち尽くしたままそわそわして、目的の方角を見やる。気を抜くと闇に紛れて見失ってしまいそうな、黒い影を一心に見つめていたら、不意にそれがこちらを見たような、気がした。無意識に一歩、踏み出す。確かめるために。
「──え」
 ほぼ同じタイミングで、長身の誰かがあの凄絶な戦いに、ごく自然に割り込んだ。黒い外套を身に着けた男性の制帽から伸びるのは、金色の髪。彼も恐らく警察か軍人であろうことは衣服から判断出来るのだが、その行動は誰もが予測し得ないものだったに違いない。何の躊躇もなくするりと彼らの間に入った男はどちらを庇うでもなく、"どちらも等しく"打ちのめしたから。
 赤い髪の女性も、白い少女も、金髪の女性も、ヴィルヘルムも。全員がたった一人の男に赤子の手をひねるが如く、軽くねじ伏せられたのだ。あの男が異質で圧倒的な強さの持ち主であることは明白だ。あまりにも簡単で、あまりにも呆気なく。いっそ美しいと感じるほどに、一切の無駄が排除された立ち回りで。そこに遊びも容赦もなかった。
「ヴィルヘルムさん!」
 鳩尾に重い一撃を食らって血を吐くヴィルヘルムを視認した時、は思わず声を上げた。白い肌が吐き出した血液で染まっていくのを、黙って見ていられなかった。冗談みたいに強く危険な男がいるからここは静かにやり過ごし様子を見よう──などと判断出来るような堪え性もなく、間もなくはくずれおるヴィルヘルムを目指して駆けた。そもそもこの状況においても、の危機感は仕事をしない。ああ強いあの男はとても強い、自分があの拳を食らえば死ぬだろう。そう理解していても、"彼は自分に手を出さない"と、根拠なく彼女は信じていた。それはが一般人で、彼が軍人だからではない。もっと、本能に通ずる話だ。
「何だ、貴様は」
 ヴィルヘルムに辿り着く前に、男が立ちはだかった。底冷えするような冷徹さを滲ませた碧い瞳に、真っ直ぐ見据えられる。恐ろしい程整った容貌に落ちるのは、瞳と同様に温度の見当たらない表情だった。こんなに綺麗で、こんなに冷たい人をは見たことがない。ひとたび睨まれれば竦み上がるような鋭い視線を真正面から受けて尚、彼女が目を背けることはなかった。寧ろ逆だ。惹きつけられたように、目が離せなくなっている。ここが美術館で、彼が美術品であったなら、時間が許す限り眺め続けていたいと願ってしまう程にその造形は優美で、動作と同じくらいに隙がない。ただここは美術館ではないし、男は血の通った人間で、付け加えるなら今はのんびりと感心している場合ではないと彼女は作品の成り立ちを知るように彼の歴史を知りたくなる衝動を抑え込んで。
「日系か」
「ただの日本人です」
「日本人? それは異なことを言う。同盟国とは言え、ただの日本人が供も監視も付けず自由に歩き回れるほど、この国は余所者に寛容ではないはずだがな」
「そんなこと言われても……私、そこで吐血してる人の知人です」
「ふむ、それは益々奇妙な話だ。これは、貴様の知り合いか?」
その問いかけはではなく、地面に鮮血を撒き散らしながら悶え苦しむ男に対してされていた。軍靴の爪先で立ち上がれない身体の腹を軽く蹴って、答えろとヴィルヘルムを促す。
「知る、かよ。そんな、乳くせえ、クソガキなんざ」
「……だそうだが」
 問うような目線はやはり研がれたナイフのような鋭利さを放ち続ける。
 弱りきったヴィルヘルムがを知らないと答えた理由を彼女は正確に察して、眉間に皺を作った。つまり庇われたのだろう。その厚意は素直に受け取るべきもので、しかしここにきてやっぱり知りませんがこの眼前の男に通じるとも思えず。ついでに言うと、知らないふりを決め込めるほど薄情なつもりもない。
「本人が知らないって言うならそういうことでもいいですけど、とりあえず怪我人蹴って吐かせるのやめて下さい」
 こんな大量の血が視界をちらついているという状況は正直心臓に宜しくないし、その大元が顔見知りというのも更に精神衛生上悪かった。放って逃げれば寝覚めも悪くなること間違い無しだと自信がある。苦痛に蝕まれているはずのヴィルヘルムは何故か、自分を下した男に怒りを向けるでもなく、今にも潰えそうな意識をなんとか持たせて、を睨んでいた。黙殺し、は静かにここを退く気のなさそうな男を観察する。息をするように彼の思考と感情の透視を試みるも、彼のそれはヴィルヘルムのそれよりも随分と不透明度が高い。存外ガードが固く視認出来る範囲は狭そうだ。会話を続けながら、はなんとか彼の中を透かし見ようとする。
「彼の手当を、した方がいいと思います」
「それを決めるのは貴様ではない」
「はあ。じゃあ誰が決めるんですか。あなたがはっ倒した女性ですか」
「──そこの娘! いい加減にしろ!」
 純粋な疑問を言葉にすると、男の後方から焦ったような怒号が飛んだ。力が入らないのか、だらりと垂らした右腕を左手で抑える赤髪の女性の表情は険しく、咎めるような色が濃い。彼女はもう一人の少女に支えられて立ち上がりながら、から目を逸らそうとはしなかった。
「口を慎め、無礼だぞ! これ以上は貴様も共謀罪として──」
「よい」
 男が手袋をはめた片手を持ち上げ、掌を女の方へ見せて静止を示す。彼女たちより上位に位置する立場に就いているらしいことは薄々勘付いていたけれど、これで決定だろう。
「この娘、不遜のきらいはあるが、そこの二人とは事情も性質も異なると見える。神を崇める国家の民だ。国が違えば勝手も変わろう。さしあたって無知の理由付けとしては、それで事足りる。いちいち目くじらを立てる必要もあるまい」
「お言葉ですが閣下、それは今異国人の小娘がこの国の地を踏んでいて良い理由にはなりません。これは彼の国が我々の目を盗んで小賢しい真似を働こうとした証拠となり得ます。まずは不法滞在で、」
「二度言わせるな。よいと言っている」
「……っ、失礼しました」
「幼子ほどに物を知らん諜者など、私なら使わない。これが真実諜者であったなら、日本帝国の程度も知れるというものだが。本当にそこまで頭のめでたい国家だとすれば、総統閣下はとうに切り捨てておられる。よって、これは迷い込んだ犬と変わらん」
「い、いぬ……」
「──所詮、二流民族の小娘だ。総統閣下ならこう仰るだろうよ。犬に噛まれた程度で仰々しく騒ぎ立てるような狭量には成り下がるな、ともな。これの祖国に確認をとってもよいが、叩いて多少の埃が出れば僥倖、とはいくまい。下手を打てば痛くもない腹を探らせる切っ掛けを与えかねん。どちらにせよ、向こうが知らぬ存ぜぬを通すことは自明であろうな」
 要するに立場ある人間への接し方を自分一人が間違えたせいで、日本人ごと小馬鹿にされているのだろう。彼の嫌味をは正確に受け取ったが、特に文句を付ける気は起きなかった。手持ちの情報が正しければ、過去の人間の価値観に過ぎないからだ。生で聴くステレオタイプの人種差別は、いっそ清々しさすらあった。
「それより、卿ら二人 。あちらにいる神父と女二人をゲシュタポへ連れて行け」
 男の視線の先を追うと、肉感的な女性とひょろりとした線の細い神父が二人並んで顔を強張らせていた。紅く長い髪を揺らす女の方は、まるでこの世の終わりのように唇を震わせている。この二人と、もう一人の穏やかそうな女性の三人が、捕縛対象らしい。
「異動願いを出しておけ。──ゲシュタポへ来い」
 制服を着用した女二人に仕事と、ついでのように配属異動を命じた男は、再び碧い瞳にを映した。もまた、こちらを気にしながら(一人は警戒心をむき出しにしながら)立ち去る女たちを視界から外し、淡々と問う。
「あなたは偉い人なんですか」
「貴様に私の地位がどう見えるかは知らんし、瑣末なことだ。しかし、少なくともこの場における決定権は私にある。ゆえに、貴様もこちらの決定には従う義務が発生するということだ、日本人」
「わかりました。では、この人の手当をするって早く決定して下さい」
 美しい貌は、煩わしそうに形を変えても美しさを保ったままだ。がわからないのは、そうして表面上は機嫌が悪そうに見せているのに、彼の中身は別種の感情が渦巻いているというところだった。その根源は、彼に触れればわかるのだろうか。
「なるほど。貴様の罪は無知ではないようだ。その致命的なまでの鈍感さでよく今日まで生き長らえたものだな。物心着いたばかりの幼子でも、状況把握はもう少し早かろう」
「ううん……なんとなく貶されてるのはわかるんですが、空気は読めるつもりです。たぶん今、優先順位がお互い噛み合ってないだけで。つまり摺り合わせが必要なんだと思います」
 はヴィルヘルムの手当を、男はが自分に服従を示すことを優先としている。としては軍や警察に従うこと自体に異議はないのだが、男の公僕らしからぬ"中身"の胡乱さは、果たして信用して良いものか悩ましくなるものであった。このままヴィルヘルムを見殺しにしてしまうのではないか──杞憂と笑われようと、そんな気配があったのだ。何故なら彼は、どうやら望んで暴力を行使したようなので。正義感や警察としての責務ではない。結果、男が感じたものは歓喜だ。彼自身、それを正しく認めてはいないようだけれど。
 つまりこの男、"ラインハルト・ハイドリヒ"は、何かがおかしい。否、"ラインハルト・ハイドリヒだから"、おかしいのか。どちらにせよ、自分に害を及ぼすかどうかはともかく、単純な危険度ならヴィルヘルムを大きく上回るだろう。
「その必要はない。貴様個人の優先順位など私の知ったことではないのでな。そちらとこちら、一般的に見てどちらに主導権があるのかは、論ずるまでもあるまいよ。よって、譲歩はせん」
「まあ間違ってはないんでしょうけどそれはそれとして、けちってよく言われません?」
 本音半分、揺さぶり半分で、はそんなことを言ってのける。年長者に使う単語の選択としては大きく間違っているだろうし、礼も欠いているだろう。先程の彼の部下らしき人が見たら白目をむきそうだが、当の本人は眉一つ動かしてはくれなかった。もっとわかりやすく感情を動かしてくれれば、ラインハルト・ハイドリヒという人間の人となりがもう少し見えてくるはずなのに。結局、ヴィルヘルムの身の安全が保障される確証はないままだ。どことなく呆れが含んだ声で、彼は言う。
「貴様はただの愚鈍よりも余程性質が悪いらしい。蜂の巣をつつくような、危うげな真似をしたがるその性分は、いずれ己の首を絞めると自覚した方がよいだろう。死に急いでいるのでなければの話だが」
「死にたがってるつもりはありません。まだ若いし」
 蜂の巣をつついた自覚はあるが。
「でも、失礼ついでにもう一つだけつつかせて下さい。──ラインハルトさんは、なにがそんなに楽しいんですか。どうして、それに気付かないふりをしてるんですか?」
「──なに?」
 ごく自然に、はテレパスで読み取った感情を元に、そんなことを訊ねていた。これが彼から感じる危うさの核心であると信じて。彼もまたテレパスを非常識とする側の人間なのだろうが、はヴィルヘルムの時のような躊躇をしなかった。複雑怪奇な内面を暴きたいと言うよりは、今ここで聞かなければならないと、そう迷いなく思ったから。
 返ってきたのは、心底わからないとでも言いたげな音だ。隕石が降ってきても動じなさそうな男に素直に虚を突かれたような顔をされるとは全くの想定外で、は一瞬戸惑う。直後、不愉快そうに目を細めた彼の手がどんな意図を持ってかへと伸びてきたので、彼女が間近に迫った"本来の目的"に気付くのが遅れたのは、ある種仕方のないことと言えた。
「やめておいた方がよろしいでしょうな。閣下、それはあなたが御せるモノではない。否、御すべきモノではないと言った方が正しい」
 闇から形を作ったように、どこからともなくぬるりと現れた男の湿り気のある声を耳に入れ、ラインハルトの手はに届く前に動かなくなった。長い髪を一つに結わえた、転がる死体よりも存在感が希薄に思える男の名を、ラインハルトが鬱陶しそうに口にする。
「カール・クラフト。卿の知り合いか。であれば、この不遜さにも納得はいく」
 ──まさか。こんなことが、あるわけがない。
「……うそ」
 感覚的に、漠然と理解した。彼が"そう"なのだと。誰に睨まれても凄まれても、ここが数百年前のドイツかもしれないと知っても一定のリズムしか刻まなかったの鼓動が忙しなく動き始める。心臓の音はうるさいし、呼吸のやり方を忘れてしまったように、一言喋るにも息継ぎが難しかった。だって、自分が求め憧れた歴史と神が、今目の前にあるのだ。最早奇跡以外の呼び名は思い当たらない。
「だ、第四天……? 本当に?」
 痩身の男は端正な顔をやや困ったように歪ませて、優雅に微笑んだ。
「ようこそ、と言うべきかな、お客人」


(20170424)
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