Introduction03
17年間生きてきて、こんなに白い人間を見たのは初めてだった。短い髪も肌も雪のように真っ白で、瞳だけが兎のように赤い男だ。目つきも表情も行動も全てが凶悪でそちらにばかり目が行くが、顔立ち自体はよく見ると案外整っているのだから何だか色々勿体無いなと、は状況にそぐわない呑気なことを思考した。
吐く息が白くなるほどに気温は低いのに、上着は薄いシャツ一枚という出で立ちで、そのシャツも血濡れときている。腕に何箇所も巻かれた包帯と相俟って痛ましいけれど、衣服を汚す血液は彼本人のものではない。それが彼の背後で事切れている警官たちのものだとは冷静に受け入れていた。突然日が落ちた街で、不穏な発砲音に導かれるように向かった先でが見たものは、この青年が警官の命を奪うその一部始終だったからだ。スプラッター要素のあるエンターテイメントを全力で避けてきた程度には死体や血に耐性がない。だから当然死体には動揺するし、間近で拝むなんて御免被りたい──その一方で、彼女は"恐怖"を感じてはいなかった。今自分が立っている場所は殺人現場で、目の前にいるのは殺人犯、転がっているのは被害者。それを事実としてきちんと飲み込んでいるというのに、何故か怖いと思えない。どうしたって現実感がなく、映画やドラマを見ているような、どこか他人事めいた感想しか持てないのだ。それは自分の首に白い手が伸びてきても変わらなかった。視線には疑いようのない殺意を感じたし、彼は自分を絞め殺せるのだとはこの時間違いなく察したのに、それでも危機感は仕事を放棄したままだ。命の危機に瀕している実感がない。自分はこんなところで死ぬはずがないなどと、根拠のない結論に至ってしまう。
結局、がしたことは"いつも通り"直に肌が触れることで深くまで読み取りやすくなった相手の心を見て、"ヴィルヘルム・エーレンブルグ"を知ることだけだった。彼の始まりから、今まで。
「とりあえず暴力反対」
「アホか、この状況でそれを俺に言うのかよ。空気読めねえにも程があんだろ」
恐らく利き手とは逆の手だったのだろうが、脳天から振り下ろされた拳骨は痛みに慣れない柔な学生にはだいぶ効く。まだじんじんする頭をさすりながら、は感心したように相手を見上げた。確かに、暴力の塊みたいな相手に送る言葉としては適していないなと納得して。
「それはそうでした。暴力取り上げたら何も残ら無さそうなそうですもんね」
彼の始まりから現在までを軽く見た上で、嫌味でも何でもなく思ったことをそのまま口にしただけなのだが、それなりに相手の癪に障ったらしく。獲物を狙う獣のように、鋭い赤目が更に細まる。
「てめえ殺されねえと思って余裕ぶっこいてんな? 試してみてもいいんだぜ? どこまでの暴力ならいけんのかってな。安心しろ、殺せるかどうかはともかく痛くしてやる自信ならあるからよ、えぇ?」
先程まで首に添えられていた手にがしりと頭を掴まれ、恐らくとんでもない握力で握られたのだろう、文字通り頭を締め付けるような鈍痛がじりじりと迫ってきて、はさすがに焦りを覚えた。痛い痛いごめんなさいすみません申し訳ありませんでした、と思いつく限りの謝罪を延々述べていたら、「うるせえ」という言葉と共に軽く頭をはたかれた直後、締め付けが治まる。殺人犯は盛大に溜息を吐いているが、そうしたいのはこっちだ。また頭をさすりながら、は涙目で呟いた。
「どうしてそんな手が早いんですか、ヴィルヘルムさん……」
「は、名前までバレてやがんのかよ」
ヴィルヘルムが嘲るように口を歪めたのを見て、は弱ったように唸る。これまでの反応から、相手はテレパスを知らない者だ。そういう手合いとコミュニケーションを取る機会には恵まれなかったものの、普通に考えて人の心が読めない人間から見たら、読める人間というのはきっと警戒すべき対象だろう。相手に心を読ませる代わりに、自分も読む。それこそ対等であり、その均衡が崩れたとしたら──どうやって人と距離を詰めればいいのかわからない。初めてその人に触れる時、人の過去を含めて心を見ることによって、その人となりを知り、仲を深めてきた。大人になればマナーとして力の使い所も変わるらしいけれど、少なくともは短い人生でそうして生きてきたのだ。心を読まれるから嘘も隠し事もしないし、心を読めるから相手は嘘や隠し事をしないという、能力を持ち得るからこその信頼関係を築きながらここまできた。だから彼女は今、自分がどういう振る舞いをすべきなのか、おおよそ頭ではわかっていても、17年で培った習慣がそれを阻んでいる。
「どういう仕掛けか知らねえが、心底気持ち悪ぃこった。大方最初から調べてたってオチだろうがよ、目的が見えねえな。ここらで俺に手ぇ出そうとする奴なんざ、余所者くらいのもんなんだよ、なあ」
「私は……」
嘘を吐くべきだった。この一時、この青年の前では。彼の言うように、事情があって調べていたという落としどころにしてもいい。言い訳はいくらでもあるだろう。最悪理由がどれだけ拙くとも口が上手ければ言い回し次第で言いくるめられる。けれども、にはその技術がなかった。 この場においてに足りなかったのは、言い訳を考える頭ではなく経験だ。
「見たんです」
つまり彼女は、嘘が吐けない。重々しく口を開けて、ただ真実だけを青年に告げるしか出来ないのだ。
「言葉を交わさずとも思考が読めて、触れれば心と過去すら読める。私がさっき言った、テレパスとはそういうもので」
「はは、そりゃすげえすげえ」
口笛と共に彼が返す言葉は酷く軽かった。信用されていないのだと心を読まずとも察するのは容易い。
「やっぱイカれてやがったな、クソガキ。じゃなきゃ、詐欺師でも目指してんのかよ、アホらしい。騙す相手を間違えたな」
「そうじゃなくて……」
からすれば能力がない人間の方が非常識な存在なのだが、ヴィルヘルムから見た場合非常識なのはこちらなのだろう。テレパスを持たないのが彼の中の当たり前で、本気でを狂っていると判じかけている。奇異な目で見られるのは、いつだって持たざる者ではなく持つ者だ。テレパス以上の能力を有する者たちの扱いを思い返せば、考えがそこに行き着くのはそう難しいことではない。今持たざる者はヴィルヘルムで、持つ者はだ。
やや衝動的に、ゆるゆると持ち上げた右手を、ヴィルヘルムの左手首に向けて伸ばす。
「触んな」
「イカれてないことを証明します。一分だけ、貸して下さい。証明出来なければ……ええと、自殺でも何でもしてあげます。ヴィルヘルムさんの望む通りに」
「────」
彼が自分の死を望んでいるのであれば、これで一分くらいは時間稼ぎになるはずだ。ああそれにしても、ここまできて自殺すら怖くないのだから、一体自分何に対してなら恐怖出来るのだろうか。
もう一度触れようとした時には、舌打ちはされても振り払われることはなかった。瞼を閉じて、先程よりも時間をかけ、頭に流れ込んでくる情報を吟味する。途中、ヴィルヘルム個人とは関係のない少々目を疑いたくなる情報があったが、今は置いておく。頑なに心を閉ざすタイプではないようで、"底"まで探るのに苦労はしなかった。そして見つけ出したものが彼の心を動かすと信じて。
「17年前の、箱に」
「……へえ?」
目を開いた時、自分を見下ろす瞳に宿る感情が僅かに変化するのを感じながら、はそれでも止めなかった。彼を納得させなければここから逃げることは叶わず、嘘も吐けないのだから、残る選択肢は納得させる、だ。
「小さいヴィルヘルムさんがたぶん用具、箱に……投げ出されてた。それが、一番古い記憶ですか」
瞼の裏に映ったのは、幼い少年が一糸まとわぬ姿で、糞尿にまみれた汚らしい用具箱で横たわっている絵だった。扱いは死体同然で、およそ人に対するものとは思えない。両親がいて、屋根のある家があって、食べるものにも着るものにも困ったことのないには、想像もつかない世界。彼が暮らしてきたのはそういうところだ。再び目を閉じて、本をぱらぱらとめくるように、ヴィルヘルムが強く記憶している内容を更に流すように眺める。より印象深かったのは先程の用具箱と──赤く赤く燃える家と、そこに転がる二つの屍。姉であり母であった女性と、戦争で足を失った父親。そしてその残忍な殺し方。炎に包まれる家を見てこれ以上はないくらいに楽しげに笑う青年は、ヴィルヘルムだ。改めて、何もかもが自分と違う生き物なのだと認識しながら、はっきりと見てしまったむごたらしく八つ裂きにされた死体に吐き気を覚えて、はヴィルヘルムの手首から離した手で口を覆った。視線を落とした先で、彼の口の端がつり上がるのが見えた。腰を折り曲げる彼にぐっと距離が縮められ、家を燃やし尽くした赤のような瞳が、間近に迫る。
「──何を見ちまったか、当ててやろうか?」
荒々しい喋り方だったヴィルヘルムに猫を撫でるような声で囁かれ、気が付くとぞわりと肌が粟立つ。狙った獲物を誘き出し油断させる、狩りめいた静かさを彷彿とさせた。
「……そういう主旨でしたっけ」
口を覆っていた右手の手首を、今度はヴィルヘルムが掴む。見下ろすと、自分の手首をぞんざいに握る白過ぎる手は遠目に見れば繊細で美しい印象を与えるが、触れてみれば一般的な成人男性よりもごつごつとした大きな手だ。繊細とはかけ離れている。くく、と喉の奥で笑うような声が、頭上で零れ落ちた。
「答え合わせをしてやるよ。用具箱がどうとか言ったな。あぁ正解だ、俺はあそこで生まれたのさ。いくつだったかなんていちいち数えちゃいないがよ、17年前だったと仮定しても、体感で別に違和感はねえな。だから証明っつうんなら、上出来だ。あれは今となっちゃ俺しか知らねえことだし、てめえがわざわざそこを厳選してきたんなら──認めやんなきゃ、いけねえよなァ」
よかったな自殺せずに済んで、と彼はせせら笑う。
「こっちも答えあわせといこうや。お前が今見たもんはヘルガか、親父か、その両方だろ? あの胸糞悪ぃ掃き溜めを見ちまったんだよなあ? あのクソみたいな場所で、あいつらは何をしてやがった?」
「……燃えてました。家ごと」
「そりゃあ良いもん見たな。燃やしたのは俺だ。その日はな、俺の始まりだよ」
「過去の清算ってやつですか」
「端的に言えば、そういうことになんのかね」
両親を殺したヴィルヘルムは罪悪感を持たず悔やむこともなく、達成感に満たされているようだった。始まりを壊し、もう一度始まり直す。理屈はわかるが、賛同は出来そうにない。けれど、それを野蛮だと見下すことも恐れることも、彼女は自分の矜持に賭けて決してしない。
「何にしろ、良いもん見せてやったんだから、感謝して欲しいくらいなんだがよ。そうもいかねえってツラしてやがるな」
「いえこれは」
「頭はどうだか知らねえが、お前育ちは俺よりよっぽど良さそうだからな。良い家で良い両親に囲まれて温々育ってきたんなら、親殺しや糞みたいな環境を見慣れちゃあいねえだろう。つまり、俺が怖くなったかい」
「怖いわけじゃないです」
「じゃあなんだ、同情でもしてくれてんのかよ、クソガキの分際で」
「誤解です」
「どれが誤解だよ」
「全部です。私、血とか死体とかだめで。グロ耐性ないんです。だから今顔色悪いのは、さっきもですけど、怖いとかじゃなくて単にそういうものを見て気持ち悪くなってるだけです」
「一応言い訳として筋は通っちゃいるがな。生憎とこっちはてめえの思考は読めねえんだよ」
やはり口で言って信用されるわけもなく、これは証明のしようもない。心を読むことは出来ても、能力のない相手に読ませることは不可能だ。言いたい放題するわりに口下手な自覚があるは、ふわっとした曖昧な感情ほど誤解を無くすためにも心を読んでもらいたかったのだけれど、そうは問屋が卸さないそうなので。言葉とは難しいと再確認しながら、それでも言葉にするしかないのだ。
「──だってこれ、歴史なんですよ」
「……あ?」
「上手く言えませんけど、ヴィルヘルムさんがお姉さんから生まれたのも、親を殺したのも歴史です。ヴィルヘルムさんが経た軌跡です。それを通って、今のヴィルヘルムさんがいます。その人となりを知れたら十分、と言うか」
ヴィルヘルムの顔が理解し難いと言いたげに、険しくなっていく。
「私は歴史にロマンを感じ、敬意を懐きますが、感情移入はしないことにしています。世界の歴史にも、個人の歴史にも。勝手に覗くんですから、それくらいのマナーは必要だというのが持論で」
大切な人から教わったことの一つ。歴史から学ぶのは良いことだけど、感情移入しても何も変わらないよ、と昔諭されたことを今でもよく覚えている。
「とにかく、恐れたり同情したり、歴史を侮辱するようなことは考えてません。神に誓えます。や、無宗教ですけど」
「……なんだそりゃ」
相手の過去まで読み込む時、閉ざされればもちろん引き下がるし、知ったことをみだりに口にしないなど、弁えているつもりだ。ヴィルヘルムの母親に関しては、カルチャーショックに粗相をしたが。は好奇心旺盛だが、相手の歴史を見るのは、好奇心のみの衝動ではない。あくまでコミュニケーションの手段だ。
いつの間にか、ヴィルヘルムがなんだかとてつもなく面倒臭そうな顔つきになってきていた。軽く心を読むが、なんだこいつ、としか言われていない。少し距離を取り腕を組む彼からは、呆れ返ったような眼差しを寄越されている。
「やっぱお前イカれてんだろ」
「えぇー……もっと言うことあると思うんですけど」
「ねえよ。てめえのトンデモ能力は認めてやるが、その考え方は理解出来ねえ。したくもねえ。一から十まで、いちいち気色悪ぃんだよ、お前」
「そんな悪口言われるほどですか?!」
「あぁ、それほどだよ。鏡見た方がいいぜ」
「か、顔含むの? ねえ顔含むんですか?」
絶望しながら訊ねても、馬鹿にしたように笑われるだけで終わる。もう一度心を見てもやはり彼の中にあるの印象は「こいつおかしい」からぶれておらず、頭を抱えたくなった。思えば"歴史"に拘るのは父親の影響をダイレクトに受けた自分の性分で、同級生からも不思議がられていたような気もするが、気色悪いと評されたのは初めてだ。笑い声を聞き流しながら落ち込んでいると、ヴィルヘルムがそういや、と何か思い出したように切り出す。
「お前の名前──」
彼が言いかけた何かは、唐突な男の叫び声で掻き消えた。びくりと肩を震わせて、は声がした方を見やるが、暗闇の中では何も確認出来ない。場所はそう遠く無さそうだが。男は来るな来るなと喚き散らし──やがて、断末魔だったのか、急に辺りに静けさが戻る。
「こりゃ随分とまた、ご機嫌な馬鹿が近くにいるみてえだな」
そう話すヴィルヘルムの声音は弾んでいた。待ち詫びた何かを見つけた時のような、怪しげな輝きを目に宿し、声が消えた闇を見つめている。
「話は後だ。ちと用事が出来たんでな。お前その辺で隠れて待ってろ」
「……危なくないですか?」
「舐めてんのか、てめえさっきの見てたんだろ?」
「いや警官相手に大立ち回りしてたヴィルヘルムさんじゃなくて私が。怖いんですけど」
「は、お前ここにきて怖いもんなんかあるのかよ」
「主に死体と四人きりの状況が」
アホかと言いたげに、ヴィルヘルムが息をつく。
「ああそうかい、じゃあそいつらが起き上がんねえように精々祈ってな。それで暇も潰れるだろ」
「だから私無宗教なんですって。神に祈るくらいなら大声でヴィルヘルムさん呼んだ方が現実的だと思ってます」
赤い瞳が一瞬まるくなって、すぐにまた細まる。白い髪に手を差し入れながら、彼はどことなく機嫌良さそうに口を開きながら、片眉を上げた。
「ま、違いねえわな」
「つまり助けに来てくれます?」
「なんで俺がお前なんざ助けなきゃなんねえんだよ。間抜け」
「えええ……」
また喉奥で笑って、ヴィルヘルムが踵を返す。気を付けて、と背中に送った言葉に彼は片手を上げただけだった。特に心配はない。彼はとても強いから。
闇の中に紛れていく白が完全に消えるまで見送って、はううんと一度唸る。死体が傍にある恐怖より、今は考えなければならないことがあったから。ヴィルヘルムと離れた途端にの頭を占めるのは、ずっと訊ねそびれていた、彼の記憶から見えた"この時代"だ。どうやらが把握している今日とは、随分とずれがあるらしく。
「西暦1939年、12月25日」
それがヴィルヘルムの記憶の中の今日。これが事実だとすれば、ここは第二次世界大戦中の、ドイツ・ベルリンだ。