Introduction02
──1939年12月25日
世間は第二次世界大戦が開戦され三ヶ月が経過しているが、民衆はクリスマスという日をささやかながら祝いたがった。戦時中だからこそだろう。フローエヴァイナハテン──不安を一時でも忘れるのに、祝い事は丁度いい。ただしそれはごくごく一般的な家庭における話だ。
ベルリンの街を駆けるヴィルヘルム・エーレンブルグに、クリスマスという概念はない。神に祈ったことなどなく、他人の誕生日なんて毛ほどの興味もない、一緒に祝うような家族もとっくに自分で殺めている。一般家庭で温く育った人間からすると彼は不健全で可哀想な人間かもしれないけれど、彼自身は22年間生きてきた自分の境遇をそう悲観していない。悲観出来るような価値観が備わっていないのだ。近親相姦の末に生まれたという出生と、貧困が極まり倫理観の壊れた環境での生活が、ゆっくりと時間をかけて彼を夜闇と血と命を求める化物へと変えてしまったから。
だから今日もヴィルヘルムは、化物らしくいつもの日常をいつも通り過ごすだけだ。ゲシュタポの警官との交戦は、その中でも想定外のものであったが。
「クソがッ、しつけえ!」
街の静寂を、銃口が火を噴く音が割く。その銃が狙い定める先は他でもないヴィルヘルムその人の背中だ。彼は直感と反射だけで銃弾を難なく避けながら、更に走る。逃げるためではない、隙を突いて迎撃するためだ。
国家反逆の危険分子だ、殺して構わんと追いかけてくる警官の一人が吠えた。言うに事欠いて国家反逆? 全く身に覚えがないにも程がある。ゲシュタポの管轄はおおよそ把握しているが、彼らのジャンルで問題を起こしたことはなかったはずだ。つまり人違い甚だしいのだが、正直にそれを申し出て納得し引き下がる手合いではないだろうし、こちらとしても謝罪一つで許してやるつもりは毛頭なかった。この苛立ちは、彼らにぶつけるしかないだろう。
「ボケが、それは俺じゃねえよ」
*
迎撃は酷くあっさりしたものだった。警官が弱過ぎるのではなく、ヴィルヘルムの強さが常軌を逸しているのだ。暴力という点において、彼は誰にも劣らない自信がありその自信に見合うだけの実力があった。罪悪感を一切抱かない狂った感性を持ち、遊びはあれども容赦はない。殺すと決めたら、最後は必ず殺してきた。そういった内面も相俟って、息をするように暴力を振るえるヴィルヘルムは、単純に強かった。
「グーテ・ナハト」
地面に転がした警官の持ち物である銃で、持ち主の顎を撃ち抜いて、ヴィルヘルムは悪びれもせずに笑う。命乞いなど聞こえないふりで。手間をかけさせてくれたものだ、と。
何となくではあるが、ヴィルヘルムは警官の目的を察していた。どこかのナチスの高官が、遊びで手を出そうとした相手に殺されかけたとか。しかも異常な性癖の持ち主だと噂の軍人だったはずだ。歪んだ性癖はどうあれ、軍人を殺しにかかった時点で国家反逆罪が成立するのだろう。そして自分はその犯罪者と間違われている。迷惑な話だ。今後同じように間違われて面倒が増えるくらいなら、いっそのこと自分がそいつを先に殺す方が手っ取り早いのかもしれない──とひとりごちた時、視線を感じてヴィルヘルムは素早く背後へと視界を移す。
「あの、すみません。声をかけるタイミングがむずかしくて」
そこには女が立っていた。外灯に照らされた女の顔立ちから、年齢は十四、五くらいかと推測する。黒目黒髪、黄色人種の東洋人だ。知識として知ってはいたものの、実際に目にするのは初めてかもしれない。服は民族服なのか、この周辺では見かけないものを着用していた。少し困ったような表情で、ヴィルヘルムと警官を交互に見ているせいか黒い瞳が泳いでいる。
「なんだ、おまえ。いつからそこにいた。そこで何してやがる?」
「ついさっきです。あなたがそこの警官を返り討ちにし始めた辺りから、見てました」
少女の顔色は良くないが、怯えているのとは少々違うように見えた。何故なら、彼女がヴィルヘルムを目指して歩いてきたからだ。命の危機を感じ、諦めているのかとも思ったが、それにしてはどうも落ち着き過ぎていて、様子が普通ではない。
「なら、俺がこいつら殺したのも見てたってわけだ。それで、どうすんだ、お嬢ちゃんは。逃げねえのかい。今ならまだ逃げ切れるかもしんねえぞ。三十数えてやるからよ、ほらどっか逃げてみな? じゃねえと──今すぐ見物料、もらっちまうぜ」
もちろん、逃がす気はない。窃盗強盗殺人強姦、ありとあらゆる犯罪は一通りこなしてきたヴィルヘルムだ。殺す意味もないが、生かす意味もない者に、情けはかけない。黄色人種と交わる気はないが、女が泣き叫びながら許しを乞う姿は、警官のそれよりずっといいだろう。言ってみれば、口直し。そのためにこの少女を殺すと決めて、しかし彼女は。
「逃げる? どうして」
「……あぁ?」
「いやまあ殺されそうだから、というのはわかるんですけど。たぶんその銃で撃たれたら死ぬんだろうなってのも、なんとなく。ただ死ぬ前に一つ聞きたいんですが、お兄さんテレパス以外の能力持ってる人ですか? 例えば、一瞬で太陽を消すとか」
「テレ……なんだって?」
「テレパスです」
「は、なんだそりゃ、知るかよそんなもん」
少女の足が止まった。眉間に皺が寄り、気の抜けたような声が漏れ出る。
「……えぇ、ちょっと待って下さい、それ本気で言ってるじゃないですか。お兄さん、もしかして私の思考が読めないんですか」
「はぁ? 思考を読む? てめえまともじゃねえツラと格好してるとは思ってたが、頭がイカれてやがったのかよ」
「いやそういうわけじゃ」
「はあ、そりゃ逃げねえのも納得だわな。まともに相手するだけ損じゃねえか、わかった、すぐ死ね」
つまり彼女が恐怖に咽び泣く姿は見られないということだ。ならば今殺しても後で殺しても同じこと。少女がこちらにたどり着くのを待たずに、ヴィルヘルムが彼女の方へと歩み寄る。彼が目の前に迫っても彼女は困惑したような顔のままで、大きな瞳に怯えの類は覗えない。よく考えれば珍しくもないだろうとヴィルヘルムは思う。少し裏に入れば、心を壊した大人も子供もそこらでお目にかかれるのだから。自分の姉であり母である女も、その仲間だったじゃないか。不可解な点は多いが、彼女もその一人だろう。だから速やかに殺すのが正解だと包帯が巻かれた右手を少女の白い首に伸ばして。
「……なんだ?」
拒まれてはいないのに、そこからその手に力を籠めることが出来なかった。否、正確には恐らく出来ないわけではないのだろうが。"この行為は間違っている"と本能が語りかけてくるような、強い違和感に襲われている。これはそういうものではないと。自分が手を出すようなものではなく、手を出す必要もないと理由もわからないのに漠然と理解させられている。理解はしても納得は出来ず、殺したい、殺せない、そんなせめぎ合いを脳内で続けてているが意味が無いことはわかっている。結果はとうに見えているから。
わけのわからない感覚に静かに動揺し、首を絞めることも解放することも出来ず、ただそこに馬鹿みたいに立ち尽くした。ふと少女がヴィルヘルムを見据える目をまるくして、ぽつりと零す。
「──姉が、母親?」
口にしてから、彼女ははっとしたように、それでいてやや気まずそうに口を閉じた。なんでもないです、と慌てて付け足しているが、なんでもないわけないだろう。聞き捨てならない単語が並んだのだから。彼女が呟いたのは紛れもないヴィルヘルム・エーレンブルグの出生の一部だ。少なくとも、名も知らない東洋人が知っていて当たり前の情報ではない。怖いとは思わないが、自分が知らない人間に自分を知られているというのは、決して気持ちの良いものではないだろう。トリックくらいは吐かせておきたいところだ。
なんでもない、で流せないと悟ったのか、少女が申し訳なさそうに眉を下げながら続けた。
「口にするべきでは、なかったですね。たぶん。ごめんなさい」
「問題はそこじゃねえだろうが」
「それはそうですが……と言うか、この話続けない方がよくないですか」
「別に構わねえさ、事実だからよ。てめえの言う通り、俺の母親は姉だ。知られたからどうなるもんでもねえし、このご時世珍しくもねえだろ? だからそれはいいんだがな、嬢ちゃん。……なんでそれをてめえが知ってる?」
「……ええと。どうしたら納得してもらえるのか」
「ありのままを言やいいだろう。今更当てずっぽう言いましたなんて萎える言い訳はナシだ。答えによっちゃあ、この細い首へし折っちまうかもしれねえからよ。精々正直に答えてくれや、頭のイカれたお嬢ちゃん」
見下ろす視線に殺意を込めた、首を掴む手にも殺せるだけの力を篭め──ようとして、また失敗した。どうしたって手を下せる気がしないのが腹立たしくて、それよりもっと腹が立つのは、それを見透かしたように命の危機を全く感じている様子のない彼女の態度だろう。背水の陣とは、程遠い。心底不思議そうに、首を傾げて。
「殺す気ないのに、どうしてそんなことばかり言うんですか」
などと、そんなことを言うものだから。
「えっ、ちょっと痛いんですけど?!」
つい空いた左手の拳にむかつきとむしゃくしゃを載せて、黒い頭上に振り落としたら、案外綺麗に決まってしまった。あんなに殺すことには抵抗があったのに、殴ることには一切の躊躇をしなくていいのはどういうことだ。あぁ悪ぃ、とつい謝ってしまったのは、自分でも驚いて茫然としたからだった。