Introduction01
今よりうんと昔、世界には神がいた。宇宙を支配する神の坐する場所へと至った者が自分の理で世界を満たし、それを世界の理とするのだという。永劫回帰、輪廻転生、大欲界天狗道、堕天奈落──理の内容が今の倫理観と合わせて正しいか否かは関係がなく。彼らが神になった時点で、彼らがルールだ。異を唱える者が現れたとしたら、それは神座へと辿り着き神へと成れる可能性のある者だけ。その時の理が新たな者の理で上書きされるその瞬間まで、世界の有り様は変わらない。それが所謂神座システムと呼ばれるもので、神様となった人は七人もいたらしい。何千年何万年と"観測者"が消滅するまで繰り返されてきたシステムが一体どんなもなのか。あまりにも話が大きくて、本の中の知識だけでは想像に限界を感じる。
わかりやすいところで例えるなら、ギリシャ神話やローマ神話、古事記だろう。たくさんの神々が登場する物語だ。そこら中に神がいたなんて話は不可思議的で壮大過ぎてリアリティがなく、現代社会に生きるには想像が難しい。絵本を読むような感覚で好みはするがここに出てくる神という存在はにとって曖昧だ。ただしこれら神話に関しては実話が元ネタになっていることが多く、実際に起こった闘争などを元にしてドラマチックに仕立てているものが大半であった。文学ではあれども、歴史ではない、で説明がつく。
神座の神話がギリシャ神話と違うのは、あれをフィクションではなく歴史であると唱える者が多いところだ。実在したシステム。実在した戦争。そしてそれが消滅した世界が、現在。想像が困難でも、はその説を信じたい一人だった。
*
──、今どこにいるの?
ぼんやりとしていた頭の中に突然響いた問いかけのおかげで、思考が急にクリアになった。我に返ってまずがしたことは、周囲の確認だ。ぐるりと見渡しても、先程まで一緒に歩いていたはずの知り合いの顔はない。前後左右を歩き去っていくのは、夕焼けの赤い光に染まる異国人ばかりだ。ここはドイツのベルリンであって日本ではないのだから、当然と言えば当然なのだが。異国人はこちらの方である。東洋人だけならそう珍しくもないだろうに、一人で立ち尽くす東洋人は珍しいのか、通り過ぎる地元民だか観光客だかにはちらちらと一瞥をもらっていた。ああこれ、迷子だってバレてるやつだ。絶対笑われてる。
──! 聞こえてる? 生きてる?!
再び頭の中で騒ぐ少女の声に、はやや慌てて返事をした。すっかり忘れていた。頭の内部に意識を集中させるイメージで、口を動かす。声にしなくてもいいのだけれど、声にした方がはっきり伝わる。気がする。
「大丈夫、聞こえてる。ごめんね、ちょっとぼんやりしてて、はぐれたみたい」
──そんな海外来てまでぼんやりしたり迷子になったりしなくても……。
「そこには全面的に同意するけど、なっちゃったものは仕方ないよね。とりあえず、声が届くってことはそんなに離れてなさそう。私がそっちに向かうよ。今どこ?」
──そこは逆でしょ! 私が行くから! あんたがどこか答えるの! 目印は?
「ええと、ここは」
顔を上げたは、一番大きな目印となるであろう美しい"門"を見上げた。門の最も目立つ場所に、四頭の馬車と女神ヴィクトリアの像が載った、ドイツ・ベルリンのシンボル。ベルリンの壁の跡地。
「──ブランデンブルク門」
声に出すと、心臓の動きが少し早くなるような錯覚があった。それを悟られないよう慎重に、姿の見えない友人へ問う。
「わかる?」
──じゃないからわかる。そこから動かないでよ。……全く、修学旅行でも手間かけさせるんだから。
ありがとうと口にしてみるも、以降は指示も文句も一切聴こえなくなった。必要ないと判じたのだろう。後はわかりやすい場所で、先程の通信相手を大人しく待つだけだ。迷惑をかけて申し訳ないと素直に思う。合流できたら真っ先に言葉にして伝えよう。
感謝の気持ちと共に、はもう一度門の上に鎮座するヴィクトリア像を見やり、門全体をじっと眺めた。不思議な魅力があると感じるのは、きっと歴史的に意味のある場所だからだろう。遠い遠い過去、ベルリンの壁があった場所。ドイツを東と西に分断した壁と、その崩壊。そこにはたくさんのドラマがあったはずでそれも確かに魅力ではあるだろうが、が惹かれるのはそれだけではなかった。ドイツ・ベルリン、ブランデンブルク門は、かつて四度目に座に至った神、第四天の"触覚"が訪れたことのある場所らしいのだ。宇宙そのものが神であり神そのものが宇宙となるため、彼らは触覚と呼ばれる分身を作らなければ世界の中で動き回ることが出来ない。その触覚が、ここに。その事実だけで、気分が高揚するというものだ。確か、触覚の名は。
「カール・クラフト」
良い名だ。声にして、は一人満足する。彼女は考古学者である父親の影響を受け幼い頃から歴史を好み、そこから派生して離れた神話も好んだ。ギリシャ神話でも古事記でもなんでも手当たり次第に読んだけれど、とりわけ神の交代を描いたものが一番彼女の興味を惹いた。各々の理が作り出す世界、神々の交代劇、美しい世界があれば醜悪な世界があり、その全てに驚くほどにロマンがあって、それでもあれが、あれだけが歴史なのだ。それはなんて夢のある話だろう。自らの望む結末以外を認めずにやり直し続けた第四天の触覚は、何を思ってこの場に立っていたのだろうか。気軽に訪れることの叶わないここで、こうして思いを馳せることが出来る時間は貴重だ。友人には結果的にかなり心配をかけてしまったが、班からはぐれてしまったのは悪いことばかりではなかった。気が付いたら、吸い込まれるように門へ辿り着いていたのは、何かの運命だったのかもしれない。だから友人が迎えに来るあと少し、ここで感傷に浸ることを許してもらいたい。
どんな雰囲気で、どんな人間がいて、どんな生活をして、どんな戦争を起こしたのか。今よりも夢があって──今よりも不便そうな世界のことを、もっと知りたかった。神の存在が明確であったことに夢を感じる一方、テレパスがないというのは不便の最たるところだろう。これは神の世界では神秘扱いになるらしいが。人類の大半が何かしらの能力を持っているのが当たり前である世界を生きるにしてみれば五感と同じで、無いなんて考えられない。相手のことが理解出来ず、コミュニケーションのハードルが跳ね上がってしまう。
「それもある意味楽しいのかもしれないけど」
無ければ無いで、そこに替わる何かがあったのかもしれないし、無かったのならそれはすごいことだ。敬意を抱く。自分だったら、テレパスがないと不安を覚えてしまうだろうから。そう考えたら、益々興味が深くなる。神の世界を直接この目で見られたらいいのに、なんて。
はもっと知らないものを知りたかった。世の中には理解出来ないことがまだまだ多いから、彼女の好奇心は尽きないのだ。つまり、彼女は未知が欲しい。
「……あれ」
不意に、門の女神像の目がきらりと瞬いたように、見えた。電光は設置されていなかったはずだ。何かの見間違いか、疲れ目なのか。再び吸い寄せられるように、自然と足が動いた。驚くほどに迷いなく、砂岩で出来ている門の中心へと進んで行く。女神像から視線を落とすと、門の向こう側に黒い何かがうごめくのが視界に入った。塊と言うより、小さな穴だ。目を細めても見開いても、穴だ。それを穴と認識したの胸に浮かぶ感情は、恐怖ではなく興味だった。見間違いならそれでいい。ただ、あれが何であるのかを確かめたい。確かめれなければならない。そんなある種の使命感と共に彼女は門の向こう側へと歩き続けて────門を潜り抜けると、すっかり日が暮れていた。時間にしてほんの数十秒。たったそれだけで、太陽が沈み、賑わっていた観光客が消えた。街の風景も、先程と同じようでいて何かが違う。もっと言えば、今が秋とは思えないほど、凍えるくらいに気温が下がっているのだ。まるで冬のように。もれなく吐く息は白い。
「なに、これ。新しい超能力?」
世の中の人間の大半がデフォルトでテレパスを持っているが、それ以上の能力を有する者もいると聞く。もしかすると、そういう者らの悪戯だろうか。だとすればターゲットはよく選んでもらいたいものだ。人待ちをしている迷子の修学旅行生なんて、条件としては良くないだろう。しかも、一体どんな能力を使ったら一瞬で人を消して気温まで下げて太陽も隠せると言うのか。
「すごいね」
心から感心し、シンプルな感想を口にする。状況が何も飲み込めず、けれどは絶望も楽観もしない。彼女の瞳に宿るのはこの現象の正体を突き止めたいという、好奇心のみだ。だから、直後に響き渡った銃声にも恐怖することなく、彼女はやはり迷いもせずに音がした方向へと足を踏み出した。