刹那のまぼろし
 二人の関係が少々複雑なものになって初めて迎えた朝のことだった。ベッドに横たわったままの藤井蓮をベッドサイドから見下ろす美しい青年は、陽の光を浴びる金の髪を耳にかけながら、静かに言ったのだ。「おれは、きみのものだ」──今思えばその言葉があったから、複雑な関係に名を付ける勇気が出たのだと、思う。あるいは、引き金と言うべきか。つまり、自分と彼は、その日から"恋人"だった。たぶん。
「そろそろ棚とか買ってみようって気分にはならないんですか」
「ならない」
 簡潔に答えた青年の、ワイシャツにネクタイを締めたままの姿は学校で仕事をしている時とまるきり同じ姿だ。まるで、自宅にも関わらず彼が教師であることを蓮によくよく思い知らせているようでもあった。煙草の匂いがそこかしこに残る部屋は、彼が学校でサボり場所として愛用している教室と似た空気で満ちている。
「でも、きみが言うなら買ってもいい」
「そういう答えを求めてたわけじゃないんですけど」
「だろうね」
 この教師が蓮の部屋を訪れるよりも、今のように逆の機会の方が遥かに多い。蓮の部屋の両隣が幼馴染の住居というアパートの配置を考えれば、当然の選択と言えるだろう。同性同士であり生徒と教師。そこにもう一つ加わった新しい関係性を長く継続させるには、互いにちょっとした気遣いと努力が必要だった。それを苦に感じたことはなく、今の状況だって蓮が望んだものではあるのだが。家主の中身をそのまま投影したような殺風景な部屋には、未だに生活する上で最初に購入しておくべきであろう家具がほとんど揃っていない。だいぶ見慣れてきたとは言え、もう少し真っ当な人間らしい部屋で生活して欲しいというのが蓮の主張であった。
「棚って、何を置くものなんだ」
 ソファに深く腰掛ける青年は無感情な声でそう問いながら、マグカップに口をつけた。藍色の陶器に、彼の隣で眉間に皺を寄せる蓮の険しそうな顔が映り込む。
 その中身は蓮が淹れたコーヒーだし、そもそもマグカップも蓮が何もなさ過ぎるからと適当にプレゼントした、と言うか強引に部屋に置いていったものだ。もっと言えば、電気ケトルも、インスタントコーヒーも、蓮のすすめがあっての購入だった。放っておけば何も買おうとしないくせに、"あの夜"を境に、彼は蓮の言うものはすべて迷わず悩まず購入を決めた。その手の判断をほぼ委ねられている状態は一種の依存のようでもあったが、実態は面倒だからとかそんなところだろうと確信しているので、何とも名状し難い気持ちである。決して依存して欲しいわけでもなく、自分がもし彼の前から消えた時、引きずって欲しいわけでもない。 けれども例え恋人が突然いなくなっても、この男はきっと涼しげな表情を崩さないとわかってしまうというのも、嫌なものだ。そんな酷い男の傍から離れがたいというのもまた、大概だろう。
 彼のいる空間は、その隣は、蓮をどうしようもなく安心させ、同時に不安にさせ、心臓の動きを落ち着かせ、忙しなくさせた。本当は、青年の生み出すどこか浮世から隔絶したように緩やかで、時折甘い空気感に酔わされているだけなのかもしれない。これは恋とか愛とかそんな甘ったるい菓子のような気持ちを起源としてそこからくる欲求ではないのかもしれない。ただ教師というどれだけ時間が流れても早々立場が変わること無く留まり続ける絶対的な日常の一部へ縋るだけの、下らない現実逃避──かもしれない。
 そんな予感があっても、今更手放す気にもなれないから困ったものだ。だって、彼は言ったのだから。「おれはきみのものだ」と。"あの"、何にも等しく興味を持たなそうな教師が。蓮の前でだけ、普段とは違う姿を晒し、蓮だけを特別だと口にした。何度でも言いたい。"あの"教師が、だ。
「まずは大事なものを、置いとけばいいんですよ。あるのかは知らないけど」
「今のところは、マグカップくらいしか、ないな」
 何気なく答えれば、同じだけの何気なさでそんな返答があった。しかも思考するような間もなく。蓮は汚れのない真っ白の壁紙が貼られた前方へと視線を逸らしながら、色々な感情が混ざった大きな息をこれ見よがしに吐き出す。視界から壁紙を遮るように、テーブルに置かれた灰皿の中の、吸いかけの煙草が煙を上げていた。右手で口元を覆い、蓮はその煙を固い表情で睨む。だらしない表情よりも、ましだと判断したからだ。
「……あんたさあ」
「なに」
「ずるいんだよ。いろいろと」
「どこが」
「だからいろいろ」
「伝わらない」
 何も執着なんてないような顔をして。他人なんてどうでもよさそうな振る舞いをして。本当に欲しい言葉は的確で、外すことはなくて。ああもう、と呟いて、この教師の言うところの大事なものであるらしいマグカップの取っ手を掴む彼の右手に、そっと左手を添えた。これからする行為のせいで液体が零れないように支えるために。右手で男の顎を掴んだ直後、蓮は眼前で瞳をまるくする彼の薄い唇を軽く、塞ぐ。本気になってしまえばアイボリーのソファに茶色の染みを作ってしまいかねないので、何度か唇を重ねるだけのキスをした後、最後にちろりと出した舌で相手の薄い唇を舐めてやってから、蓮は早々に身を引いた。想像通り、コーヒーの味だ。離れた直後、相手は平然とした顔で再びコーヒーを啜っていた。むかつく。
「伝わりました?」
「伝える気ないだろ」
「受け取る気ないでしょう」
「これ、おれが悪いのか」
「情緒欠けてますよ、あんた」
「よく言われる」
 こんな抗議も今更だ。直球で無くては伝わらないのかと言えばそうでもなくて、どうやら理解した上で惚けているらしいとなんとなくわかったのは最近のことだ。つまるところ、からかわれている。年下だからと舐められていて、甘く見られていた。確かに相手の方が何枚も上手なことは認めざるを得ないが。それでも、その立場に甘んじているのは、男としてどうなんだと蓮は思うので。
 マグカップがテーブルに置かれたタイミングを見計らって、蓮は彼の細い両肩を押した。委細承知だと言わんばかりに何の抵抗もなく、ソファに彼はあっさりと身体を沈めてみせる。彼の顔の横に手をついて、頼りない線の身体を狭いソファの上で組み敷きながら、蓮は自身を無感情に見上げる青目を見つめ返した。ふてぶてしい態度を貫き、他人の言うことに耳を貸さないあの男が、今は己の手で簡単にこうして思うままになる──その事実に、ぞくりとする瞬間がある。
「前から一度聞こう聞こうと思ってたんですけど」
「なに」
「先生、慣れてますよね」
「そう思うか」
「思いますよ。じゃなきゃ、男にこうされるのは、嫌だろ。ふつうは。先生は"そっち"でいいのかって、俺だってちょっとは思わないこともなかったんですよ」
「そっち?」
「……その、俺に、抱かれる感じで」
「藤井は、抱かれたい感じか」
「そういう話じゃないんで」
 彼を、女の替わりにしているつもりはない。整い過ぎた顔立ちは文句のつけようのないくらい綺麗で、中性的ではあるが女性的とは少し異なるし、筋肉の薄い身体も決して女のような柔らかさはなかった。では、何がここまで"そそる"のか。どうして同性に煽情的なものを感じてしまうのかと言えば、この教師の性質ゆえだろう。表情が、声が、言葉が。昼間と同じく透明感を内包した容姿で、こちらをからうかうような気軽さがあるのに、その中に蓮の欲を煽るような淫靡さと従順さが垣間見えたら、だめだった。いろいろと。
「"そっち"で、いい。だってきみ、最初からおれに抱かれる気なんてなかったろ」
「ないですね」
「ならいいだろ。まあ抱かれたくなったら、言え」
「そんな日は来ません」
 触れることが許されないはずの美しい芸術品を、汚して貶める行為に対する背徳が、癖になりそうでもあった。情欲のままに汚してみてわかったのは、彼は綺麗な美術品などではなかったということだが。あまりにも当たり前に、彼は蓮を受け入れたから。そしてそれが判明して尚、気持ち悪いとは思わなかった。寧ろ納得したくらいであったし、存外に反応のよく返ってくる身体に、何度も生唾を飲み込んだ。 蓮の中の常識と倫理観が捻じ曲げられるくらいには、嵌ってしまって抜け出せそうにない。
 結果、あまりにも自然な流れで"こういう形"になったことを、彼がどう考えているのかを蓮は知らないと気付いた。
「おれは、本当に、どちらでも。どうでもいいんだ」
「どうでもって……男としてどうなんですか、それは」
「セックスに、男としてのプライドを持ち込んだことは、ない」
 いっそ潔く聞こえるから物は言いようということだろう。ここまで堂々と言われたら、それが何だか正しいことのように思えるから怖い。男であることにすら、執着がないようでもあった。
 蓮は右手で青年のネクタイを解いて、ワイシャツのボタンを三つだけ外した。露わになった白い鎖骨に手を這わせると、彼が何かを堪えるように目を細めた。基本澄ました顔で感情の起伏の薄い彼は、今や蓮の指先一つで反応を変える。
「どちらでも、気持ちよくなれるもんですか。前に、聞きそびれたけど、あれ気持ちよかったんですか」
「いや。気持ちよくは、なかった」
 正直か。淡々とした答え方が、どうしようもなく本音だと示していて、わりと抉られた。彼と違って蓮は健全な男子学生であったから、男としてのプライドをセックスに持ち込む。つまり。
「……ああ、そうですか。そうですね。すみませんでしたね、下手くそで。だからあんた、なかなか自分からしようって言わなかったのかよ。嫌なら嫌って言えばいいでしょうが。あーくそ、あんたなんかで勃つのに腹が立ってきた」
「色々立つねきみ。忙しそう」
「ちょっと黙っててくれませんか」
 しょうもない冗談が聞きたい気分ではない。
「嫌ではない。べつに、いいんだ。きみが満足するなら、それで。いいんだよ、蓮」
 不意に、伸びてきたひんやりとした手が、蓮の頬を撫でた。慰めるように、弄ぶように、緩やかに。触りながら、僅かに苦く笑った。この男にしては、珍しい笑い方だ。
「そもそもおれには、性欲がない。快楽はわかるが、そこに執着はしない。だから、セックスを自分から求めることも、ないんだ」
 なんだよそれ、と口にしながら、それを嘘だとは感じなかった。非現実的な話ではあるものの、それが事実であれば色々と合点がいくことも多い。彼が浮世離れして見えるのは、そういう"欲"から離れていることも起因しているのかもしれない。
「同じくらい、物欲もない。きみは、よくおれのものを増やしたがるけど」
「それは」
 それは、蓮が男の生活力の無さを心配しての口出しであり同時に、蓮自身のごく個人的な不安を取り除きたいがためのものでもあった。執着がない、というのは性欲や物欲に限ったことではないはずだ。人に対しても、この部屋に対しても、そうだろう。興味がないから、いつ離れてもいいように、何も置かない。理屈はわかる。わかるのだが、蓮は、彼にここへ戻って来て欲しいのだ。ある日突然ふらりとどこかへ消えてしまいそうな男だから。この部屋に心残りがないと、いつか戻って来なくなりそうだから。日常が、崩れてしまう──部屋に彼の物を増やしたいのは、それが一番の理由であった。
「情けない顔、してる」
「見ないで下さい」
「いやだ。見せて」
 顔を背けようとしたら、両手で頬を挟まれて、強引に正面に戻される。顔を見せたくないのは本当だけれど、本気で拒む気にもなれないのは、相手がこの男だからだ。蓮より年上の、だめな大人。だめでも、彼は、大人だ。
 男は蓮の顔をぐっと近くに引き寄せると、間近で意地の悪い微笑を、端正な顔に浮かべた。
「いいね。いじめたくなるよ」
「今からいじめられるのはあんたですけどね」
「今日は気持ちよくなれるのかな、おれは」
「……気合入れていじめなきゃいけない気がしてきた」
「ジョークだ。おれが、教育してやる」
 なんて教師みたいな言い回しで、口付けながら蓮のシャツに手をかける男の姿は聖職者とは程遠い。されるがままになりながら、教わった通りの手順でキスに応えていくと、舌を散々絡ませ終わった後に、彼はどこか満足そうに「よくできました」と小学生にするような口調で告げた。蓮の頭をぽんぽんと叩く仕草も、まるで子供扱いだ。舐められるのは不快だが、これは意外と嫌な気はしないのだから不思議なものである。自然と甘えたような科白が出てきたのもきっとそのせいだと、蓮は思うことにした。
「ご褒美、くれます?」
「いいよ。なにがいい」
「……ここにいて、ください。ずっと」
 俺のために、という言葉は呑み込んだ。情けないから。ただここに居てくれさえいれば、帰って来てくれさえすればいい。永遠に、変わらずに、ここに。それらを含めた"ここにいて"を、どこまで彼が読み取ったのかは不明だ。
 蓮を見つめて口の端を歪めた男は、何故か──蓮の目に、ぞっとするほど蠱惑的に映った。惑わせた相手を引きずり堕としそうな、妖しげな美しさに惹かれて、そのまま目を離せなくなる。欲が、また引っ張り出されて、煽られる。嵌っていくような錯覚があった。深いところまで、ずぶずぶに。いいよ、と男が軽く答えて、蓮の首に腕を回す。その温もりに酷く安堵していたら、耳元で彼が囁く。
「──後悔、するなよ」
 その意味はよくわからないし、最早どうでもよかった。頷きながら、男の首筋に噛み付いて、目立つ場所に痕を残す。彼が自分のものだという主張ではない。彼が自分を忘れないための、痕だ。一つでも多く、それを残したかった。それだけを考えていたかった。行為に没頭しながら、彼のことだけで頭を一杯に出来れば、それで。
 ふと視線を上げた先、床の隅で、一匹の蜘蛛が這っていた。どうでも、よかった。

20170722


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